裁判というゲーム

どちらがより多く、より効率よく相手を殺したかを競う。それが戦争というゲームです。一方、武器を使わずに、相手をどれだけ傷つけ、罵倒し、言いがかりをつけたかを競う。それが裁判というゲームです。今の裁判は、殴り合い・殺し合いで当事者同士が相手をこの世から抹殺するという仇討ち・復讐の暴力装置を、国家権力が運用しているに過ぎません。裁判に関わる人は、皆、この、国家権力による暴力が円滑に運用されるよう協力しているのです。

今の裁判制度は、非科学性・非客観性、強大な国家権力の行使という点で、江戸時代のお白砂と何ら変わるところはありません。医薬品の規制よりもはるかに前時代的です。ですから、薬害よりもはるかに多くの頻度で、冤罪が生まれています。私が関わっている「事件」は、氷山の一角に過ぎません。

人間同士の葛藤・軋轢は、人間の排泄物や生活で生まれるゴミと同様、人間生活につきものです。そういう意味で現状の裁判は、くみ取り便所か、地面に穴を掘ったり、ゴミで埋め立て地を作っていた程度の処理レベルです。

次々と生まれてくる葛藤をどうやって処理すれば、不幸せな人をこれ以上増やさないで済むだろうか?そういうシステム改善の問題が常に裁判にはつきまとっています。しかし、刑事にせよ、民事にせよ、勝った勝ったと騒ぐ人々ほど、裁判制度の改善のことなど、全く眼中にありません。

立法という規則を作るシステムと、行政という規則を運用するシステムでは、システムの不具合が、不幸な個人を生み出すリスクが、司法より小さいのです。司法のリスクは、そのアウトカムが、不幸な個人を生み出すリスクと、その不幸の不可逆性において、立法・行政の比ではありません。

しかし、多くの人々はその点に気づきません。なぜなら、司法に直接関わり、司法から直接被害を受ける人の数が、立法や行政よりも格段に少ないからです。冤罪に陥れられる人の数よりも、一生裁判と縁がなくて死んでいく人の方が圧倒的に多いからです。

だから、自分が司法に関わっているという当事者意識が生じないのです。だから、少数の人しか、司法システムの不備を意識せず、立法や行政に比べて、改革の声が格段に少ないのです。このため、薬害以上に、冤罪が繰り返し生まれます。

何かというと改革を叫ぶ人々が、こと裁判に限っては、司法改革のしの字も口にせず、しらばっくれて、裁判を使い続け、役人を土下座させたり、裁判で勝てば、薬害は絶滅できるとの信仰(あるいは信じていないけれども役人が土下座するのが見るのが好きなだけの)を維持しています。

しかし、役人を土下座させても、薬害が無くならないのと同じように、裁判官や検察官や警察官を土下座させても、決して冤罪は無くなりません。ではどうすれば冤罪のリスクを低減できるか?知りたい方は→こちらへどうぞ

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