大規模施設解体は時代の流れ?

宮城県の試みとその背景にある問題
2002年11月23日,宮城県大和町の知的障害者の入所施設「船形コロニー」(施設利用者485人)を運営する同県福祉事業団(田島良昭理事長)は23日、同コロニーの「解体」方針を明らかにした。施設利用者を各家庭に戻すのでなく、10年までに全員をグループホームなどに移す計画で「脱施設」のノーマライゼーション推進を目指すという.

報道内容を読むと,多くの人はハンセン病患者隔離中止を連想するだろう.20年程前に各都道府県で相次いで建設された大規模な重度知的障害者入所施設(いわゆるコロニー)の解体により,障害者を地域に帰すという流れに沿った,ごく自然な動きが始まったに過ぎないように思える.しかし,その裏には非常にやっかいな問題が隠されている.

ノーマライゼーション(障害者が健常者とともに地域で生活できるようにする)という言葉が使われだしてから10年以上たつ.ノーマライゼーションが重度知的障害者にとっても健常者にとっても幸せなことならば,今までできなかったのはなぜなのだろうか?その問題点は解決されたのだろうか?答えは否である.未解決の大きな問題が二つある.一つは大規模施設解体後の受け皿の問題,もう一つは費用の問題である.この二つの問題は密接に結びついている.

最重度知的障害者の姿を知る
施設解体に伴う問題を考える前に,是非とも皆さんに,”最重度知的障害者とは何か”知ってもらいたい.彼らは,しばしば人里離れた大規模施設に”隔離”されている.だから,”障害者”という言葉から一般の方々が思い浮かべる,乙武君やホーキング青山の姿と,彼らの現実の姿とは,全く異なっている.

彼らのほとんどは,この世の中で最も弱い立場にある人間だ.食事,排泄,入浴,着替えといった最も基本的な生活動作さえ自分でできず,全面的に他人に介助してもらわなければならない.しかし,それは身体障害のためではない.重度の知能障害ゆえである.

一方,彼らは寝たきりの老人ではない.元気一杯に走り回る.どんな危険なところでも素っ裸で飛び出していってしまう.飛び出した先では,自動車だろうがドスを持ったお兄さんだろうが,相手かまわず突進していくかもしれない.道端に廃油の入った缶が捨ててあれば,それを飲んでしまうかもしれない.そんな彼らだから,家の中でも危険が一杯だ.流し場の洗剤はおいしいジュースに見えるだろうし,風呂場の石鹸は上等なチーズだ.庭に出たいと思えば,ガラスの存在など無視して頭を窓から突き出そうとするだろう.いつどこでてんかん発作を起こして昏倒し,頭部外傷を起こすかもしれないし,大腿骨を骨折するかもしれない.

彼らの行く末は?
彼らに安全で快適な生活を提供することが如何に困難か,上記の数行の文章を読んだだけでもわかっていただけるだろう.最重度知的障害者の生活を支えるのは,彼らがどんなに聞き分けがなかろうと激情せず,どんな突発事態にも動じない,さしずめ,ゲリラ戦に長けた戦闘員のような人々である.

大規模施設解体と聞いて真っ先に心配なのは,そんな彼らを受け入れてくれるのは,一体どんな人々,どんな組織だろうかということだ.船形コロニーの場合,各家庭ではなく,”グループホームなどに移す”計画だという.上記のように元気一杯の彼らを,核家族化した家庭ではとてもじゃないが受け入れられるわけがない.では,”グループホーム”は?

体が動く痴呆老人のグループホームとは別世界だ.施設利用者の自立は一切期待できないばかりか,常に命の危険に晒されている.上記のようなプロの戦闘員を何人も配備する必要がある.当然,べらぼうな人件費がかかる.これが第二の大きな問題,すなわち,金である,485人を一箇所にまとめて面倒を見る方が,小規模なグループホームを何十も作るよりもはるかにコストは安く済むから,今回の大規模施設解体は,医療・社会保障費削減の流れには実は逆行しているのだ.

お金はどうするのか?
報道によれば,彼らを支援する費用は,来春から始まる支援費制度を利用するほか,本人の障害基礎年金などを充てるという.なるほど,このあたりにからくりがあるのだろうかと,重度知的障害者の診療ばかりでなく,生活面にも関わってきた私なんぞは,つい深読みしてしまう.重度精神遅滞者はほとんどお金を使わない生活をしている.映画も見ないしドライブにも行かない.ましてや車を買ったり家を買うこともしない.だから,本人の年金は手付かずのことがほとんどだ.長生きすれば,何百万ものお金が貯まることも珍しくない.その一部を使わせてもらって,より良質のケアをしようというのだろう.

在宅医療やノーマライゼーションが声高に叫ばれる背景には,国や自治体が,施設を解体して,その労働力のコストを”地域”に押し付けようとする動きがある.こうすれば表面上は行政コストは低くなるが,そのしわ寄せが地域住民に来る.核家族化,少子化,女性の社会進出が否応無しに進む結果,地域での受け入れ能力は低下する一方にもかかわらず,である.その結果,在宅介護を促進しようとした介護保険制度下でも,介護老人保健施設の需要がどんどん増えて建設が追いつかないという皮肉な結果になっている.

重度知的障害者の介護でも事情は似たり寄ったりだ.少子化ゆえに親が在宅で面倒を見られる余裕のある家庭がまだ比較的多いうちはまだいいが,特に団塊の世代が高齢化して,重度知的障害の子供(といっても30代から40代だが)の面倒を見る体力がなくなれば,施設入所の需要は一段と増えてくるに違いない.

終わりに
重度知的障害者の診療に10年間携わってきた者として,大規模施設が解体されることによって,社会から隔絶されていた彼らが,乙武君並に社会から認知され,より多くの市民から支援を受けられるようになれば,こんなに喜ばしいことはない.しかし,現実は決して楽観を許さない.人間の心の中にある差別や偏見が少なくなるには十年単位の時間がかかる.一方で,彼らを支援するためには,人手(つまり人件費)ばかりがやたらとかかる.何事も経費削減,効率化・人減らしが至上命令の今の日本で,満足に彼らの面倒を見られる人々をどうやって確保するのか?同様に大規模施設を抱える他の多くの自治体も,その施設に勤める職員も,そして誰よりも施設利用者の家族が,宮城県の試みの成り行きを必死で見極めようとしているに違いない.

今回の宮城県の試みの背景にある浅野知事の考え方は,全国重症心身障害児(者)を守る会の機関誌,”両親の集い”の2002年10月号に掲載されている.非常にためになるので,この問題に関心のある方は,是非とも一読をお勧めする.(残念ながらオンラインでは読めない.ご希望の方は池田までご連絡ください.→ikecell@mail.goo.ne.jp)

重度知的障害者施設の知られざる実情