法医学者に対する裁判官の恋心
ー勾留医師死亡事件に見る裁判官の思考特性ー

奈良・勾留医師死亡事件の判決文を見る機会があった。判決文を読む限り,「普通の」裁判官という印象である.「普通」というのは、以下のような裁判官特有の思い込みが明確に読み取れるからだ。

1.民事訴訟での刑事不介入:(民事であっても)有罪率99.9%という業績を上げている組織の言うことをひっくり返すなんて,テレビドラマの主人公を気取るような真似は,本職の裁判官たる者がやるようなことではない.触らぬ刑事に祟り無し。

2.法医学は王、臨床は婢(はしため):医者の世界ではどうなっているか知らないが,法廷では法医学者は横綱,臨床医は幕下未満と相場が決まっている.そう決まっているのは昔からで,私一人がそこからはみ出すには余程の理由が必要だ.

3.裁判官もまた脈の取り方一つ知らない:そんな裁判官に対して,訳の分からない検査値とか病名とか画像までてんこ盛りの意見書なんてお経と同じ。

4.裁判官は忙しい:だから双方の準備書面を読むのが精一杯.とてもお経まで読んでいる暇はない。

上記4点に対して、当事者が働きかけられるのは第二の点に関して:

臨床医には信じがたい(もう少しはっきり言えば驚天動地の)ことだろうが、当該事件の司法解剖医は,「予断を持たないよう(!)、臨床データは見ずに司法解剖の際を行うと、堂々と法廷で述べていた。つまり「御遺体が語りかけることに専心して,生きているうちの診療録なんて余分なバイアスは一切入れずに判断する」という「職人気質」の「ストイックな」(臨床医から言わせれば唯我独尊の)法医学者である.

自著 「法医学への招待」の中で、現場の状況・目撃者の証言と被疑者の自白調書と剖検所見を組み合わせることによって、初めて「正確な鑑定」が出来上がるとの、かの有名な「三位一体説」を振りかざして、御用学者として大活躍し、佐藤博史弁護士から「天敵」との称号を賜った石山c夫大先生の路線の反省から生まれた独自路線なのかもしれないが、実は大先生と本質的には同じ、「俺がルールブックだ」と言わんばかりの(言ってるって!)唯我独尊路線である。

唯我独尊そのものなのに,ご本人は「これが王道だ」と思っちゃっている.判決文の中で、「組織学的所見で法医学の教科書に書いてある急性腎不全・ミオグロビン尿症の所見がないから、急性腎不全でも横紋筋融解も全否定できる」として臨床医の意見を完全に排除してしまっている.

「普通の」裁判官はそういう法医学者の「ストイックな職人気質」なところに「ほだされて」しまうのだ.恋は盲目とはよく言ったものだ.

以下の例は,臨床医が法医鑑定の問題点を指摘する時に参考となる事例である.

1.臨床医による肺炎の診断を尿毒症性肺水腫と鑑定した法医学者:心臓血管外科医の西田博氏は、この誤診のおかげで、20回も警察・検察から取り調べを受けた。インターン(1968年まで存在した卒後1年間の初期研修制度)しか臨床経験のない法医学教授が、西田氏を含めた臨床医による肺炎との診断を、法医鑑定により尿毒症性肺水腫とひっくり返したのだ。この法医学者も,診療録を全て無視して、御遺体とにらめっこを繰り返した結果「虚血性心筋損傷に伴う急性肺水腫と判断される。急性心筋損傷は糖尿病性の血管変性によりもたらされた心筋損傷による中枢性の急性肺水腫の悪化に伴うと考えられる」という,診断というより,お経のような結論に至ったようだ.

2.山下事件の時も,検察側,弁護側からそれぞれ2人ずつ,合計4人もの法医学者(検察側:横浜市立大学 稲村啓二,東京大学 石山c夫。弁護側 千葉大学 木村
康、藤田保健衛生大学 内藤道興)が出て,結局,石山大先生が「この扼痕が見えない奴は明き盲だ」とばかりに,「扼痕のない扼殺死体」を学会報告した稲村氏(1年間で3835体の「解剖」をこなした超人でもある)を罵倒してしまった同士討ちのおかげで、弁護側が勝てたわけだが,本来ならそんなドタバタ劇は不要だった。

というのは亡くなった奥さんの主治医が「拡張型心筋症でいつ突然死してもおかしくなかった」と明確に証言していて,しかもワーファリンまで飲んでいたことも関係者一同知っていたのだから.だから,臨床医の意見がまともに採り上げられれば,筋肉内出血が頚部絞扼によるものとは判断されなかったし、法医学者が4人も登場する必要はなかったのだ。

一般市民としての医師と法