289回  平成9年11月29日(土曜日)  納会 講演1

「現在の標本保存に至まで」
             東京大学医学部 吉田 穣 先生

 もうすでに、標本室にお入りになっていると思いますが、まず標本を見てからそれから標本の背景などの話を聞いて頂くと、より深みのある、対話の出来る標本の見方が出来ると思います。

はじめに医学標本といいますと、どうしても肉眼標本という目で見る物に偏りがちなんですが、標本室にはもう一つの使命といますか、機能としては、ミクロ標本(組織標本)を含めて、医学標本として紹介しています。

それでは、OHPを使いながら標本の輪郭をご理解ください。

まず、[養老 武]先生は、いろんな本を書かれていますが、布施さんという技術解剖学の人と一緒に本を書かれています。 布施さんは好んで用いている絵があるのですが、これは創始絵巻という中にある、小野小町という美人が亡くなられて次第に変化していく様子の絵です。 下の方になるに従って、ガスにより膨らんで腐敗が進んでいく様子が示されています。 さらに次第に醜くなって側に近寄れない状態になってきており、その肉などが烏などに食べられ、最後には犬等によって骨がバラバラにされてしまいます。

こちらは、私は実際に行ってみていないのですが、フランスのパリ大学の獣医学部にミイラ化した騎士が、ミイラ化した馬にまたがっている標本が保存されています。 こういった写真を見て驚いたのは、獣医学部にミイラになったとはいえ、人体を含んだ標本が保存されているところが、日本とは違うと思いました。

近年は、ドイツから人体標本などを日本に入れまして、一般公開をあちらこちらでしているようです。 時代が変わったということでしょうか。 解剖図大観光展が、6〜7年前に西武百貨店で開催されたのですが、次第にこういったヒトの体を知る、そして健康にいかに結びつけるか、及び死とは何か、同時に生きていることの重みを問いかけています。 昔からイタリアからの解剖図をずいぶん昔から見せて、なおかつ模型による骨格標本などの非常に学術的なことを一般に公開しています。 左側に書いてあるように、最近はメディカルアート又はアナトミカルアートなど、アート感覚といいますか、美しくすれば一般の方もかなり親しみをもって近寄りやすい傾向にあると思います。

この写真は、写真週刊誌に紹介されたイタリアの教会に飾られている、一年に一回ぐらいは一般開放される物なのですが、瞬間では解りませんが、次第に目が慣れてきますとこれは人骨だということが解ってきます。 イタリアではこういった物が神聖とされているらしいです。

この写真も同じく人骨で構成されていますが、計1万体の人骨の芸術だと書かれています。 パリにはカタポンペというところがあり、地下で800メートルぐらいあるところに人骨を左右に積み重ねてありまして、私の背丈以上の人骨のトンネルを歩くのですが、そのようなところを思い出します。

時代が思いきり逆上りますが、紀元前3000年頃にミイラを作ることによって肉体を不滅にすることを考えていたようです。 本来腐って行くべき人体を残すことで、魂が帰ってくる場所を確保する手段としてミイラを作っていました。 本には夕方になってくると霊魂がミイラに帰ってくると書いてあります。 標本室にも4000年ほど前の14歳のエジプトの少女のミイラが保存してあります。 実際に、ミイラを作成する方法を読むと、ぞっとすることがあります。 脳や腸管など一番腐りやすい臓器を取り出して、その代わりに防腐剤などの詰め物を入れてミイラを作ります。 当時は、思考の場が脳ではなく心臓にあると考えられていたため、心臓は残すらしいです。 ミイラにされる人の身分によって、作成するミイラ師も異なっており、その方法も違っていたそうです。

ちょうど今、東京大学の120周年記念で、文化遺産としての大学の資料を一般公開しています。 安田講堂においてエジプトミイラもあるのですが、棺の中にはいっているので、期待して見に行くとがっかりなさることがあるかもしれません。 実際の3000年ほど前のエジプトのミイラを用いて、最近ではCTやMRI等を用いて、昔の人の病気とか人類学的な特徴などを検査できることはすばらしいと思います。

現在、日本の医科大学で実際に標本室を持っている、標本室といっても例えば解剖学教室、病理学教室、法医学教室などで、教室単位で標本室を持っているところはありますが、3教室をしっかり集めた標本室を持っているところは、あまりありません。 北の方から、札幌医科大、東京では、東京大学、慈恵医科大学、西に行くと東海大学、川崎医科大学、京都大学など数校しかありません。

こういった標本では、昔と今でどこが変わったのかを整理してみました。 まず、ミイラづくりには、昔は、胸や腹に腐らない物(炭酸ソーダや杉の粉等の防腐剤)を使っていましたが、現在はアルコール、ホルマリン、グリセリン、石炭酸などを用いています。 かといって、人体のミイラがどんどん作られているわけではなく、むしろ動物においてミイラという方法で保存することも良い保存方法であります。

それから、鋳型注入標本ですが、例えば肺など気管などの枝分かれを見るときに、気管支に注入するのですが、昔は錫とか鉛などを溶かして流し込み、それをさまして固まらせた後、その臓器の実質は酸やアルカリなどで溶かしてしまい、その中の物を型どりして取り出すことをしていました。 脳室や腎盂などにも用いられています。 この方法はその内部形態がしっかり残ります。 現在では色々な種類のシリコンゴムが用いられ、これで作成した標本は出来上がりが美しく、しかも弾力性を持っています。 それが、以前と変わったところであります。

次に樹脂浸透標本という物がありますが、樹脂という物は第二次世界大戦以後にポリエステルなどアメリカから入ってきています。 これには、睾丸標本などがあります。 これは技術的にはなかなか難しく、気泡が入ってしまうなどの問題があるのですが、最近では「プラスティネーション」という非常によい方法が開発されたのです。 プラスティネーションの話は、最後の方で行います。

骨格標本ですが、標本室にはいりますとすぐに目に入ります。 通常、人体および動物の骨格標本の作成方法ですが、さらしの方法では、昔は微生物による方法や、60度程度の温度を保って2日間位置いておきますと、蛋白質がどんどん落ちて骨格だけになります。 現在は、できるだけ衛生的に行う方法として、蛋白分解酵素などが使われています。

それから断面標本は、横断であったり、縦断であったりする標本であります。 昔は解剖学の本などを読みますと、真冬に人の体を氷と塩を用いて完全に凍らせて、手で鋸で切断していた苦労話があります。 現在では、ディープフリーザーを用いてマイナス80度で凍らせて電動鋸を用いて切断しており、切断面はとても美しいです。 また、昔みたいにかんなで削って磨くことは必要なくなりました。

そして、遺体の保存ですが昔はアルコールタンクですが、今はロッカーを用いております。

標本ビン接着剤は、昔は天然樹脂のコールタールなどを使っていたのですが、現在では合成樹脂で接着はうまくいっています。

標本の保存には、大昔はワインを使っていたこともありますが、アルコールを使い始めたのは1660年くらいで、約百年ほど遅れてホルマリンが使われ始めました。 これによって本来腐っていく組織に対して保存が可能になりました。

医学標本の保存形態としては、ホルマリンを用いて人体や動物などの標本に注入したり、潅流したり、浸したりする三つの方法があります。 それから、保存法ですが、固定と保存は違った方法ですし、また固定液と保存液は異なっています。 これにはホルマリン、アルコール、グリセリンが用いられています。

最後に最近の技術としてプラスティネーションの簡単な手順をお話ししますと、まず固定、水洗を行い、予備冷却、脱水、強制浸透(減圧を行い、シリコンゴムをしみこませていく)ことを行います。

この写真は、プラスティネーション法の標本です。 プラスティネーション法は、1978年頃から旧西ドイツのハイネルベルグ大学のハイネンスという先生が、もともと化学の知識があり、それと解剖学を組み合わせてこういうことを考え出しました。 一番上がシリコンゴムを使った標本であります。 下の方は、シリコンではないです。 私の方では、シリコン、ポリエステル、エポキシ樹脂を使っております。 この右側の人体標本は、一体ではなく、厚さ10ミリぐらいに薄く切られている標本を重ねて作られているもので、断面を一枚づつ取り出せます。

[糸魚川]さんという方が博物館についての本を出しておられますが、その中からの抜粋なのですが、博物館の原点とは物、人、建物という3つの基本線があり、どれが欠けてもいけないということが書かれています。 標本というものは、物は言いません。 標本に、いかに語らせていくかということです。

最後に、プラスティネーションの標本をお見せします。 私の管理室にある標本です。 一見ロウで作った人形のように見えますが、4カ月ぐらいの胎児です。 40年以上も管理室の隅のアルコールビンの中に、ひっそりと窮屈そうに入っていた物なのですが、プラスティネーションの技術のおかげで、順天堂大学の酒井先生の言葉を借りれば、ガラスビンから解き放たれた人体ということになります。 こうしてみますと、液浸標本ではゆがんで見えるのですが、このようにするときちんと見えるのですね。

それから、もう一つの標本なのですが、これはシートプラスティネーションと言いまして、エポキシ樹脂を用いている物です。 昔は、人体や動物などかなり厚い樹脂包埋標本が作られていましたが、このように5ミリ程度の標本にすることが出来ます。 これは肝臓移植に使われた大型犬のシェパードの頭部の標本です。 普通、シャーカステンの前に置いて観察します。最初に犬歯が電動鋸で切るのですが、これがうまくいけばほとんど成功したような物です。 いかに薄切をきれいに行うかにこの技術はかかっています。

以上で、標本保存の歴史について、私の話を終わります。


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