ワクチン禍既視感の検証
−大東亜戦争開戦経緯に学ぶ−
今でも自衛隊は国民の生命、財産を守るものだと誤解している人が多い。政治家やマスコミも往々この言葉を使う。しかし国民の生命、身体、財産を守るのは警察の使命(警察法)であって、武装集団たる自衛隊の任務ではない。自衛隊は『国の独立と平和を守る』(自衛隊法)のである。警察法と自衛隊法に書いてある。『国』とは、わが国の歴史、伝統に基づく固有の文化、長い年月の間に醸成された国柄、天皇制を中心とする一体感を享受する民族、家族意識である。決して個々の国民を意味しない。(栗栖弘臣 日本国防軍を創設せよ P78 『国を守るということ』より 小学館文庫 2000)
二度目の既視感
「コロナとの戦い」という言葉を初めて耳にした時、その11年前に続いて私は二度目の既視感を感じました。また「祭り」が始まると思いました。最初は2009年9月でした(deja vuの有効性)。その時は幸い、1年ほどで戦争ごっこは終わりました。ところが二度目は御覧の通り、ポツダム宣言(ワクチン禍犠牲者数は報告数の13倍)は握りつぶされ、目下「第3回目接種」という名の本土決戦絶賛展開中です。ビッグコミックの連載漫画がそのまま現実となったような悪夢。なぜこんなことになってしまったのか?本土決戦から避難している人は誰もがそう思っています。けれどもナチ宣伝省顔負けの厳しい言論統制が敷かれている中で(A級戦犯の指定席で狸寝入りしてんじゃねえよ、ゴミナビ!!)、自由闊達な議論は不可能となっています。
そんな状況下で 「コロナとの戦い」から距離を置いている我々非国民が今できることは、まず我々自身が抱いている既視感の妥当性の検証です。ワクチンへの疑問=非国民、Impfen Macht Frei、ゴミナビ=宣伝省・プロパガンダ、自粛警察=隣組・憲兵隊、マスク=竹槍といった個々の道具立ての相同性については、非国民の間で周知されています。さらに、ちょうど80年前に始まったお祭り騒ぎ(正に提灯行列でした)と今回の「祭り」と、どこまで似ているのかを実際に起こった出来事で比較し、その類似点を明らかにすることは、我々が感じる恐怖感の裏付けを得ることにもなるでしょう。この記事の目的は大東亜戦争をその開戦経緯から辿ることによって、史上最悪の薬害事件にまで至ってしまった経緯を解明、本土決戦以降の行方を予測し、我々自身の被害を最小化することにあります。
大東亜戦争開戦経緯を学ぶ意義
どんな馬鹿げた出来事でも、その原因を究明するためには、その出来事が起こった前の出来事を知る必要があります。しかし、ただ年表を眺めていただけでは「なぜこんな馬鹿げたことが起こったのか?」という肝心な問いに対する答えは見つかりません。その年表の背後にある文脈を読み取る必要があります。ところが何せ相手は史上最悪の薬害事件です。誰にとっても初めての出来事です。「年表の背後にある文脈を読み取る能力」なんて誰も持ち合わせているわけがない。そういう時にどうすればいいか?新型コロナワクチン薬害事件と同じぐらい、あるいはそれ以上に馬鹿げた事件から学ぶ必要があります(愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ (Otto von Bismarck)。
大東亜戦争開戦経緯を学ぶのは、正にそれが新型コロナワクチン薬害訴訟を理解するための出発点だからです。と言ってもそれだけでも大変なことなので、ここではその経緯を理解するために必要な最小限の資料とその要点を紹介するに止めておきます。要は、それまでは日米戦争と言えば邀撃作戦しか考えていなかった陸海軍が、山本五十六による真珠湾攻撃という「素晴らしいアイディア」に飛びつき、戦争回避のための日米交渉開始(1941年4月)のはるか以前、1940年の秋には既に後戻りのできない戦争準備を始めていたのに、天皇にも政治家にも、もちろん国民にもそれを隠し、軍部も最後の最後まで戦争回避に向け全力を傾けてきたかのように装っていた、そういうことです。超過死亡の原因は単(ひとえ)にコロナ禍であるかのように装うことも、ワクチン後の死亡全例について因果関係は否定されるかの如く装うことも、決して独創的な隠蔽工作ではなく、立派な先例があったのです。興味のある方は実際の資料を御覧ください。
●松川 克彦 日米戦争勃発と山本五十六に関する一考察 京都産業大学論集 社会科学系列 2014;31:249-272
−山本五十六提督はアメリカ駐在武官も勤め、同国の実力を熟知していたが故に、アメリカとの間の戦争に反対であったといわれている。したがって日独伊三国同盟にも反対であった。しかしながら、日米関係が緊張してくると、アメリカ太平洋艦隊の基地真珠湾を攻撃する計画を作成、その計画実現に向けて強引な働きかけを行った。 これをみると、山本は果たして本当に平和を望んでいたのかどうかについて疑問が起こってくる。一方で平和を望みその実現に努力したと言われながら、実際にはアメリカとの戦争実現に向けて最大限の努力を行った人物でもある。
−昭和15(1940)年11月に海軍大学校での図上演習の結果、蘭印攻撃を行えばアメリカの反撃を惹き起すことになる、しがって米国と有利に戦うためにはまず初めに真珠湾を攻撃することこそが右矛盾の解決方法であるとの結論を出した。蘭印攻略に先立っての真珠湾攻撃。この考えは、陸軍にも海軍の中にもわだかまっていた迷いを一挙に払拭する画期的な考えであった。
−山本五十六には、昭和16年9 月6 日の御前会議における天皇の意向、「外交を優先させよ」、は耳にはいらなかったし、10 月17 日天皇が東條英機首相にたいして示した戦争計画の「白紙還元の御諚」のことも気にならなかった。上述したように、山本はいずれもこの直後に軍令部に奇襲計画承認を迫っている。空母6隻、全勢力を使用しての奇襲計画が認められなければ、連合艦隊司令長官のポストを辞すると言っているのである。
−しかし山本は、真珠湾奇襲を決行すればアメリカに「勝つ」とは言っていない。それならば現実的には根拠がなく、勝利の見通しのないこうした「固い信念」のために敢えてアメリカを挑発する理由は何だろうか。その理由の一つは、逆説的に聞こえるかもしれないが、日本が敗れることを知った上でのものではなかったかということである。
●既に1年以上前から対米戦争準備を始めていた海軍
戸 福井静夫さんは日本が戦争を決意したのは出師(すいし)準備を発動した時だ、と言っていました。
大木 出師準備の第一作業は昭和15(1940)年の秋ですね。
戸 15年の秋に、海軍はさりげなく、そーっと出師準備の第一作業を始めました。(中略)出師準備は開戦準備を意味します。(中略)臨戦準備でもあるのです。一旦これを始めたら、引っ込みが付きません。だから、(当時)軍令部作戦部長だった富岡定俊などは、海上自衛隊幹部学校で講演した時に、「出師準備は開戦決意なしでは発動できない」とはっきり言っています。それを昭和15(1940)年に行っていた。16年(1941)年の日米交渉など、海軍にとっては知ったものではなかったということです。戦う気満々で準備しているのですから。(中略) 海軍は独走というか、勝手に臨戦準備をスタートしていたことになります。このことを言う人はあまりいません。(戸一成、大木 毅 帝国軍人 角川新書 (P121 『出師準備は開戦準備を意味した』より)
→軍人と医系技官の共通点:官僚によるファシズムの手法
→人の道に外れたワクチンマフィア:子供だましの超過死亡隠蔽工作
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