私の適性は警察官僚とか政治家とか諜報活動とかにおいては間違いなく爆発的に開花したであろうが、私がそのような仕事につかず毒にも薬にもならない文学研究などにかかわって一生を終えたせいで獄窓や窮死から救われた人もきっと多いはずである。 なまじ適性に合った仕事に就いたせいで、世の人々がいっそう不幸になるということだってあるのである。(人生はミスマッチ(内田樹の研究室) より)
本名は池田正行.1956年4月生まれの内科医.身長170cm,体重57kg.(この体型は高校卒業以来変わっていない)人相は,昔KDDの宣伝に出ていた齋藤晴彦に似ている.あるいは忍者ハットリくんの顔を長くして眼鏡をかけさせた顔とも.性格は注意欠陥多動性障害3割,アスペルガー2割,自閉症1割,定型発達4割と勝手に自己判断している→発達障害戦略研究所
東京は神田駿河台に生まれて,東京の東のはずれ,江戸川区に育つ(この区は23区の序列順で,必ず最下位に位置させれらる).小学校・中学校ともに自宅から一番近くの区立校に通った.当時は,江戸川区立中学校の偏差値は都内でも最下位クラスだった上,私の通っていた中学はその江戸川区の中でも中の下以下だった.
そんな学校だったから,高齢者になってもなお,法的リテラシーのような不良ページを持っている私でも,いい成績をとるのは簡単だった.そういう中学校における優等生は障害者扱いされる.女の子なんかには絶対もてない.同性からも疎まれる.生徒会長をやれと,教師から不当な談合圧力がかかる.一方で,拠所ない事情で鞄の中にドスを忍ばせて通学していた奴とも,遠ざかったり,特別扱いしないで付き合う外交術も身につけなければならなかった.(ただし,この見解に関しては,私の中学時代を知る人間の一部(全部?)から異論がある.私が障害者扱いされたのは,決して学校の成績が良かったらではなく,人格的に問題があった,まあ,簡単に言えば極端な変人だったからだという)つまり,私は,大人の世界ではごく普遍的な通過儀礼や洗礼を,中学時代から受けていた.中学校でのこういう環境が,その後,高校,浪人,大学,社会人と進むに従って,如何に役立ったことか.特に社会人になってから,足の引っ張り合い,妬み,袖の下,隠された敵意といった様々な種類の弾丸が飛び交い,地雷が仕掛けられている中をくぐり抜けて生きていくのに,中学校時代に,同級生から受けた教育がどんなに役立ったことか.これは決して皮肉ではないし,中学時代の同級生には率直に感謝している.世間様を知る環境に私を置きつづけてくれた両親にも感謝している.一部ではまだ流行している中高一貫教育では,こういう英才教育は絶対に受けられない.世の中のお母様方,そして,そのお母様方の進学熱に悩まされているお父様方,もしも自分の子供に,(どういう種類にせよ,とにかく)医者になってもらいたいと思ったら,以上の実体験をしかと心得られたし.
高校はこれも下町,墨田区は向島の都立高校出身(滝田ゆう(彼自身も同窓)の漫画で有名な(?)玉ノ井の遊郭に隣接した旧府立七中.本当は芥川龍之介の出た旧府立三中(現 都立両国高校)に行きたかったのだが,当時学校群制度というものがあって,くじ引きで七中に回された.まあ,でもここもおつなところで,遊郭こそなくなっていたが,東武電車で最寄りの曳舟駅から次の駅が在原業平にちなんだ業平橋とうきょうスカイツリー,その次が浅草で,高校時代からロック座やフランス座に気軽に出入りできるという,恵まれた環境にあった.中学校で鍛えられていたから,ここでは優等生をやりながらも,うまく世渡りしていく術を学んでいく余裕が出てきた.
同窓には,芥川のような格調高い人物はいない.Alfeeの坂崎幸之助(本名 坂崎幸二)は2年先輩なので,同時に在学していたはずだが,記憶にない.それは決して「フォークソング同好会なんて,不良のやることだ」なんて思っていたわけではなく「ああいうふうにならないと女の子は寄ってきてくれないんだなあ.でも逆立ちしても俺にはできない」とひたすら羨望の眼差しで眺めていただけだった.宮部みゆきは4年後輩なので,同時に在学したことはない.その高校に入学した頃,なぜワイマール共和国からナチが台頭したのかという疑問を持ち,少しばかり読んだ本の中で,一番面白かったのがゲッベルスの伝記で,そのおかげですっかり宣伝かぶれして,将来は電通に入社して宣伝の基本を学び,そこでノウハウを得た後に内閣広報室に転じ,内閣広報室では古今東西の歴史をコンピューターでシミュレーション解析し,それを応用して世論操作の仕事をしてみたいと本気で考えるようになった.高校2年の時,将来何になりたいかと聞かれて,”選挙参謀”と言って,担任から眉をひそめられた覚えがある.そういう大人の顔を引き出すのが好きだった.今でこそおとなしくまじめな高齢者だが,昔は元気な不良少年だったのだ.このホームページはその頃のノスタルジアである.→週刊医学界新聞記事(2011/1/10)
2001年に勃発したBSEパニック、牛肉忌避ファシズム、英国滞在歴のある者への差別を経て、2002年夏には,それまで30年間くすぶっていたファシズム研究熱の焼け跡の検証となる本が,筑摩書房から出た.その20年後に新コロファシズムの勃興と没落の過程も同時代で体験するという僥倖にも出会えたので,原稿を書き殴った.荷風はさすがに高望み過ぎるので,清沢 洌の向こうを張って,これも「新コロバブルの物語」としてまとめたいのだが,いつになるのやら.そんな不良少年も,商売をはじめて2022年で40年になる.病気を診療するのではなく,人を診るのが仕事なので,専門分野は特にないが,脳卒中や痴呆の高齢者を多く抱える施設に勤めることが多かった.93年から6年半,埼玉県にある重度精神遅滞者施設に勤務した後,99年から4年近く,新潟県は上越にある精神病院で,老人痴呆,重症心身障害者や精神疾患の身体管理を担当していた.2003年7月からは,霞ヶ関で厚労省の役人をやりながら,自称マルチフリーターとして,BSE評論家,病理解剖当番引受人,医療事故案件のセカンドオピニオン提供業,知的障害・精神障害専門ソーシャルワーカー,病院リスクマネジメント評論家,臨床開発相談と臨床試験教育,スコットランド留学・旅行案内業,神経内科病歴・症候学インストラクターの活動を細々と続けている.2007年7月からは所沢市で知的障害・発達障害の生活支援と診療.2008年10月からは,長崎大学で5年間、熱帯病や製薬企業や先進諸国から顧みられない病気の治療薬、ワクチンの開発について研究していた.2013年4月からは、高松市在住で仕事場は塀の中,小児・思春期から認知症高齢者まで,幅広い年齢層を相手にしている.
ちなみに,詩人、歌人、俳人、随筆家、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家だった寺山修司は,本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」と答えるのが常だったという。趣味:
1.歩くこと(自宅の周りであろうと,初めての土地であろうと,歩きながらとりとめなく考えること):歩くことによって考えがまとまったり,いい思い付きが出てくる.
2.どんな言語であれ,簡単でわかりやすく話し,書こうと努力すること.ただし結果が伴わないことが多い.スコットランドの文化,自然と桑田佳祐の音楽をこよなく愛する.
1.「希望の轍」と「移民の歌」と「ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番」と「ハイウェイスター」と「ゴールドベルク変奏曲」と「エロティカセブン」と「シチリアーノ(フルート・ソナタ変ホ長調 BWV1031)」と「六本木心中」を交互にかけながら、関越か、中央高速のどちらか経由で辿り着いた、紅葉も散ってしまって,観光客が全くいなくなった晩秋の信州の温泉,奥蓼科か,扉か、中信なばら別所か,鹿教湯,北信ならば渋・湯田中・上林・山田あたりの,気に入った宿に,いしかわじゅん,新田たつお,みなもと太郎,そして”光る風”,”カムイ外伝”あたりを持ち込んでむさぼり読む.
2.浅草で東映の仁侠映画を見る.
好きな映画:イル・ポスティーノ,フルモンティ,1941,薔薇の名前、MASH,ジョニー・イングリッシュ,ひまわり,カサブランカ,トレイン・スポッティング,東京物語,万引き家族
贔屓の音楽家,歌手:レッド・ツェッペリン,JSBach,山口百恵,スタン・ゲッツ,桑田佳祐,SV Rachmaninov,高中正義,エルトン・ジョン,忌野清志郎,都はるみ,スティービー・ワンダーカラオケの持ち歌;レッド・ツェッペリン"Whola lotta love",三波春夫”ちゃんちきおけさ”,スティービ・ーワンダー”Part Time Lover”と”Dear Duke",美空ひばり”港町十三番地”,桑田佳祐は何でも歌えるが,敢えて言えば,”Hotel Pacific”,”エロティカ・セブン”,”艶色the night clubと”スキップビート”と”女呼んでブギ”,岡 晴夫”憧れのハワイ航路”,ジョン・デンバー”Take me home, Country Road”,荒井由美 ”ルージュの伝言”,マルレーネ・ディートリッヒ ”ただ一度だけ”
それから,”アイーダ”第一幕での,アイーダ,ラダメス,アムネリスの三角関係の場面を,一人三役で歌えるという,とっておきの隠し技を持っていますが,残念なことに一度も披露する機会に恵まれていません.