ジャーナリストや警察・検察のように,他人の粗探しを生業にしていると,相対的に自分の過ちが見えなくなる.自分が決して過ちを犯さない全能の神のように思えてくる.それを動機付けにして,さらに他人の粗探しに夢中になる.そしてついには自分の過ちを顧みることはなくなる.自分の過ちを顧みることがなければ,その人は同じ過ちを何度も繰り返す.
共犯者としてのジャーナリズムの「多大な貢献」無かりせば.イレッサによる「薬害」は厚労省単独では生まれなかったし(*1),福島県の大野病院「事件」も生まれなかったし,袴田巌さんも死刑判決を受けずに済んだし(*2),守大助君も無期懲役にならずに済んだ.
それにもかかわらず,ジャーナリスト達が,薬害や冤罪への自分たちの多大な貢献を自ら検証しないから,彼ら自身は決して成長することがない.その成長できないジャーナリスト達の繰り返す貢献によって,薬害や冤罪も繰り返されてきた.
ジャーナリスト達の、そして国民の皆様の大好物が「謝罪」である,「謝罪」は過ちの検証の助けになるどころか,検証を停止させてしまうため,検証作業には百害あって一利無しという事実を、ジャーナリスト達も、国民の皆様も忘れてしまっている.謝罪は,過ちを犯した当事者を,関係者を,周囲の人々を,全て思考停止に陥らせてしまう.髪の毛の薄くなった頭頂部をテレビカメラの前に晒す儀式で,視聴者も当事者達も,検証作業の必要性など,一切忘れてしまう(*3).
教育・学習・成長には,種も仕掛けも要らない.立派な教室も,偉い先生も,最新の教育機器も何も要らない.自らの過ちという良質な教育資源を自分自身が利用すればいいだけだ.そして,その学びの過程を公開し(ジャーナリストならば検証した結果を連載記事にして),他のジャーナリストや一般市民と共有すれば,リテラシーなんて,ひとりでに向上していく.
ジャーナリストにも,警察にも検察にも謝罪させてはならない.処分も要らない.謝罪や処分に騙されてはならない.我々自身も,彼らも決して忘れないように,その職に留まらせ,綿密に検証作業を行わせ,報告書を書かせて公開させる.それだけが,ジャーナリズムを救い,育てる道である.
*1 須山 勉。がん治療薬「イレッサ」副作用禍。効果強調が過剰期待招く。医薬報道に大きな教訓。2004年2月26日 毎日新聞東京朝刊. 承認前は,「副作用のない夢の抗がん剤を承認せずにドラッグラグを放置する厚労省には天罰を」,承認後半年経てば「こんな重篤な薬害を起こした厚労省に天罰を」と、イレッサ承認前後で見事に変身を遂げた無数のジャーナリスト達の中で、たった一人だけが書いた空前絶後の反省文。
*2 報道という名の暴力。尾形誠規 美談の男 鉄人社。2010 東京
*3 薬害をなくしたくない人々
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