予防原則 (The Precautionally Principle) とは,92年,リオデジャネイロでの地球サミットの際に採択された.
「環境を保護するため、予防的方策は、各国により、その能力に応じて広く適用されなければならない。深刻な、あるいは不可逆的な被害が存在する場合には、完全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用効果の大きい対策を延期する理由として使われてはならない。」
この文章の意味するところは深長である.”環境を保護するため”,環境悪化を防止するため” を ”命を守るため”に置き換えてごらん.そして,”費用効果の大きい対策”という言葉をじっくり味わってごらん.
この予防原則について,東京大学海洋研究所の松田裕之さんとのやりとりで私が書いたメールからの抜粋である.松田さんの論文(野生動物とBSEにおけるリスク管理.科学 72:997-1001, 2002)を読んで私がお手紙したところ,思いがけず好意的なお手紙をいただいたので,調子に乗って書いたものである.
////////////////////////////////////////
予防原則は,私のようなリスク論議の素人(あるいはやくざ:後述)にも,ひどくやっかいな問題だと直観できます.BSEパニック一つとっても,牛由来製品の一斉回収や,献血・臓器移植のドナー制限と,controversialな問題がたくさんありました国,地域,社会集団,究極的には個人個人で予防原則の意義は全く違ってきますから,さらにやっかいになる.
ボローニャの会議では,純粋な科学よりもむしろ経済問題の方が予防原則の決定要素として重要だという議論はありませんでしたか?遺伝子組み替え作物の議論も,農業という重要な産業を巡る米国と欧州の間の争いが原点ですし,米国が京都議定書なんか知らないよと言っているのも国内産業を優先したいからですよね?
リスク予防が経済原則で簡単に歪められる例はそんな高尚なレベルだけではありません.たとえば,”流動食を間違って静脈注射しないように,胃管に流動食を入れるための注射器は,普通の透明なプラスチック製ではなくて,色つきのプラスチック製のものにしよう”と,私が部会長をやらされている病院のリスクマネジメント部会で誰かが提案したとします.すると,必ず返ってくる答えが,”経費節減,医療費抑制のご時世なのに(色つきの注射器は)コストが高いからもってのほか.大切な血税をいただいて効率的な運営を目指している国立病院職員にあるまじき発言”です.そこで,”命よりも金の方が大事だという原則を確認するのが,この部会の目的なんですね.”と部会長の私が悪態をつくわけです.
このように,もともと環境リスクを論じて来た方々が由緒正しい武道家とすると,私のリスク云々は,やくざの出入りみたいなものです.つまり,毎週あるいは毎日(私がかつて勤めていた病院は年間死亡数が400人でした)死人が出る医療現場から出てきたもので,理屈は後付ですね.外科系での切った張ったはもちろんのこと,自分の受持患者(外来と病棟両方にいます)さんに限っても,何百人の方々が,毎日,まれながらも何らかの副作用が生じうる薬を飲んでいらっしゃるのですから,そりゃもう,ピンからキリまでの生命のリスクが私の周りにはごろごろしているわけで,一見さんであふれる夜の救急外来なんて,ほんと,地雷原です.
我々の日常では,じっくりリスクを評価している余裕がありません.エイヤって感じで,考えるより手を先に動かさないと仕事にならない,インフォームドコンセントなんていうのも,リスク管理という家の障子がそこいらじゅう破れているのであまりにもみっともないから新聞紙でも貼ったはいいが,もともとあばら家なので,すきま風を防ぐ意味は全くない.そんな具合です.そんな現場にいるから,ゼロリスク探求症候群という,一刀両断の挑発的な議論が生まれてきたわけです.
開発途上国と日本を一緒くたにするなと言われるのですが,グローバリゼーションとか偉そうなことを言うなら,地球上にいる食うや食わずの八億人のことを考える方が先だろうってことですね.日本だって,かつて我々の親の世代は,南京虫やシラミと共生し,芋が主食の毎日を送っていた.ようやく食い物が手に入るようになったと思ったらDDTを頭からふりかけられ,今度は食い過ぎで数々の成人病のリスクも背負い込むようになった.その人達が,変異型CJDのリスクを恐れている.不老不死の薬を求めた始皇帝顔負けの健康バブルに踊る人々の姿は漫画そのものです.
95年でしたっけ,米騒動の時も,戦中戦後の芋の毎日のことを散々私に教訓的に聞かせてきた父母が,あまた食べ物がある中で,米確保に走るのを見て,”裏切り者!!”と罵ってしまいました.私は,父母の薫陶よろしく,食い物には全然こだわらないので,米飯なしで1ヶ月も2ヶ月も平気でした.もともと酒飲みなので,酒と肴だけで食事がおしまいになるだけなのですが.
////////////////////////////////////////