研修医諸君その2

指導医という名の年寄りの言いなりになってはならない.これは冗談ではない.何しろ,内科専門医で,指導医の資格をもっているこの私が言っているのだから,間違いない.このような助言をするのは,私自身の経験による.

私は優秀な研修医だった.指導医の助言などなくても,あるいは指導医の助言など全く聞かずに,次々と難しい症例の診断を下した

ところが今の私はどうだ.医者をはじめて21年,この間に進歩があっただろうか?信頼に足る客観的な証拠は何もない.はっきりしているのは,薄くなった頭髪と,何十枚もの死亡診断書を書いたという事実だけ.死亡診断書の枚数が多ければ多いほど医者としての腕が上がったとは,今時,誰も言うまい.巷では,年功序列制度は疾うに崩壊し,年をとればとるほど,就職口が少ない.いつまで医者が例外たりえようか.

診断の直観などは,若い頃より鈍っているに違いない.駆け出しの頃,よくもあんなに難しい症例を診断できたものだと,今では驚くばかりだ.こんな人間に,誰が教えを乞いたいと思うだろうか?若い頃の私が現在の私を見たら,せいぜい,このおっさんの顔を潰さないようにするにはどうすればいいかと腐心しさえすれ,無批判に助言を受け入れることは決してしなかっただろう.

ただし,そんな私にも一つだけ確実に進歩したと自信を持って言えることがある.どんなに反論されようと,顔を潰されようと,何とも思わなくなった.いつも自分が間違っていたことを,繰り返し思い知らされたからだろう,顔を潰されたという感覚自体が全く生じなくなったのだ.一方で,議論する元気は,老いてますます盛んである.負けが込んでくればくるほど,何とか取り返してやろうと意地になる下手な博打打の心境だ.顔を潰されるという感覚の喪失と,議論好き,この二つは,指導医にとって,必須の資質だろう.医者としての能力が若い頃より劣ったことを自覚すれば,それを何とか挽回しようと,必死になって若い人に教えてもらおうとするものだ.

だから,研修医諸君,指導医という名の年寄りの言いなりになってはならない.常に指導医の見解に常に疑問を持ち,議論を吹っかけなくてはならない.その議論によってはじめて,あなた方が指導医を教育,指導することができる.研修医が指導医を教育しなくちゃならないのかって?当たり前じゃないか.そうでなくて,一体誰が指導医を指導,監督するんだい?教育というのは,お互い様なんだ.自分で指導医を教育せずに,指導医から何かを教えてもらおうなんて乞食根性では,指導医は育てられない=自分も育たない,って羽目になる.

指導医に面と向かって物を言いにくいのは儒教文化が基礎にある日本人だけではないことは下記を読めばわかる.医学生時代,熱心な指導医の知識の間違いに対して,ためらう気持ちを乗り越えて,その間違いを指摘する手紙を書いたが,自分がさて指導する身になってみると,間違いを指摘すること,されることは言うは易く,行うは難しとという格言は英国でも通用することがよくわかる.

Bruno Rushforth. The letter. Lancet 2003;361:1398.

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