事故調発足に備える
~失敗知識データベースが教えてくれること~

「相撲は負けて覚えるもの。勝って覚えることなどない」(朝青龍)
「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」(松浦静山)

医療と司法の決定的な違いは,失敗から学ぶ文化の有無です.私はそれを沖中重雄先生から,小学校入学前に教わりました.私は沖中重雄先生にお目にかかったことがありませんが,私の師である塚越廣(東京医科歯科大学名誉教授)が沖中先生の直弟子であり,沖中先生の厳しい御指導を常に強く意識して我々医局員を教育していました.その沖中先生の一番有名なお仕事が「内科臨床と剖検による批判」です(『最終講義』実業之日本社).196334日に行われた沖中先生の最終講義では,17年間の任期中に沖中内科で解剖した750例の検討で判明した誤診率は14.2%、つまり死亡例の7例に1例は誤診だったことが明らかにされました。

当時の新聞記事は「われわれ患者はその率の高いのに驚き,一般の医師はその低いのに感動した」と伝えたそうです。父親(ちなみに医師ではありません)が,「日本一偉いお医者さんでも,こんなに間違えるんだ」と驚いていたのを,そして,その驚きの中には怒りや失望はこれっぽっちも含まれていなかったことを,私もよく覚えています.「お医者さんて,間違っても,怒られるどころか感心してもらえるんだ!」小学校入学を翌月に控えそう思った私が,その19年後には研修医オリエンテーション初日の冒頭で「いの一番で君たちがしなくてはならないのは,医師賠償責任保険への加入手続きだ」と院長から訓示を受け,50年後には検察官と裁判官の両者から「お前の診断は間違っている」と公文書で罵倒されることになるとは知る由もありませんでした.

2005323日,科学技術振興機構が失敗知識データベースのサービスを開始しました(20114月より畑村創造工学研究所で公開).この素晴らしいデータベースを発足当時に見たときの私の感想は「悔しい」でした.医療事故の事例が全く含まれていなかったからです.ソニーの入社試験に失敗して入った島津製作所で,田中耕一氏が行った実験の失敗からノーベル賞が生まれた化学を含め,機械,建設,原子力,航空・宇宙・・・誇らしげに科学技術の分野名が並ぶ中に,「医療」の文字がなかったからです.その42年前にすでに失敗から学ぶお手本として沖中先生の最終講義があったにもかかわらず.

 失敗知識データベースには,航空機や鉄道のように,多数の人命が失われた事故も国内外を問わず数多く登録・分析されています.そこで展開される徹底した事故分析には,メディアの報道に見られるような,個人の責任追及の姿勢は全く見られません.医療事故における個人の責任追及の最大の問題点は事故原因の二大要素である,システムエラーと医学の限界を隠蔽してしまうことです.裁判は真相究明の場ではないどころか,真相を隠蔽してしまうのです.ところが,医療訴訟件数は,失敗知識データベースが発足する10年前の1995年の488件から増加する一方で,2004年には1110件,発足年の2005年には前年から1割減っただけの999件と,失敗知識データベースへの医療事故登録など,夢のまた夢という状態でした.

 まだまだ医療は,失敗知識データベースの「会員」として認めてもらえない.そんな悔しさを「では会員として認めてもらうには,自分は(!)どうしたらいいのだろうか?」という問いに読み替えて,この10年間仕事をしてきました.生意気を言うようですが,この時に「厚労省はどうすべきなのか?」と読み替えるのは,悔しさを忘れるための逃避・当事者意識棄却行動に過ぎません.悔しいと感じるのは自分であって厚労省ではありません.そのあたりを取り違えている医療関係者がまだまだ多いことも,失敗知識データベースへの医療分野の会員登録が遅々として進まない一因ではないのかと思っています(下記).

 「書かれた医学は過去の医学であり,目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」.これが沖中先生の最終講義での終わりの言葉です.患者に教えてもらえなければ、診療は成り立ちません。問診は患者が音声言語で病気の歴史を医師に教えることです。診察は非言語性メッセージで医師に体の状態を教えることです。そしてその教育成果を他のスタッフと共有して初めて診療が成り立ちます.その患者の本質的な属性である病と死が,医療者に対する教育資源でなくて何でありましょう(関連記事)。

 沖中先生の最終講義から52年の今年(2015年),医療事故調査制度(事故調)が発足します.事故調が失敗知識データベースの会員資格取得への第一歩とできるかどうかは,ひとえに,医療者の教育を引き受ける患者・家族を含めた関係者の協力にかかっています.そのためには,医療者と患者・家族間の協力とは全く逆の対立構造の上に成り立つ裁判というシステムは,真相究明の場ではなく,そこで行われる個人の責任追及はむしろ真相を隠蔽するだけだという認識を医療者,患者・家族,行政の間での共有することが欠かせません.医療は医療者と患者・家族の両者が,誰もが避けられない病や死を通して,お互いに教え合い,学び合う者として,お互いを尊重して初めて成立します.そういう関係に対立構造の上に成り立つ裁判というシステムを持ち込んでも何も解決しませんし,誰も幸せになりません.

 ところで,医療以外でも,報道,警察・検察,科学捜査,裁判といった分野は失敗知識データベースの項目に入っていません.それはなぜでしょうか?これらの分野で働いている人は全て人間の姿をした神様ばかりなので,失敗が起こらないのでしょうか?もしそうでなくて,人間が働いているのだとすれば,必ず失敗が起こります.では,これらの分野では,その失敗から何をどう学び,その後の失敗のリスクを低くするためにどんな工夫をしているのでしょうか?

 医事裁判が真相究明の場ではなくむしろ真相を隠蔽してしまうので,医療事故防止にはつながらない.それだけでも重大な問題ですが,失敗知識データベースは,それよりも一段と深刻な問題を教えてくれます.それは失敗から学ぶどころか,完全黙秘して失敗の真相を隠蔽している人達が,失敗から学ぼうとする人達を攻撃・非難し,取り調べ,起訴し,ある者は刑務所に送り込んで職場復帰の望みを断ち,そうでなくても人生を大きく狂わせる.そんな悲しい喜劇が今日もこの国のどこかで起こっているという事実です.

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