詩人とは,言語を研ぎ澄ますことによって言語化できないものを表現する職業である.教育者も同様である.
文字,音声,静止画,動画と,今や教育者も学習者も豊富な表現手段を持ち,しかもそれが遠く離れたところでも瞬時に共有できるようになっている.手段が豊富になり,言語共有が効率化すれば,教育そのものも効率化すると考えがちだが,その仮説が成り立つためには,少なくとも次の前提を必要とする.
1.教育の中で,言語化できる部分の比率は,言語化できない部分の比率よりも圧倒的に高い.
2.言語化できる部分だけでなく,言語化できない部分についても教育の中に意識して組み込んでいく.
3.言語化の冗長性が伝達効率を妨げない.つまり,大量に言語化した情報が垂れ流されることによって,雑音の中に必要な情報が埋もれてしまう,氾濫河川での魚釣りのような状態を免れる.
この3つの前提は全て成り立たない.現実は全て逆になっている.従って,言語化手段が豊富になれば,教育が効率化するというのは妄想である.ここでも手段の目的化の罠に嵌ってはならない.
だからといって,教育に悲観的になる必要は全く無い.我々人類は,三つ子の魂百までという言葉に表されるような,その人の人生を左右する乳幼児期に,言語化できない部分の教育に確固たる実績がある.自閉症,アスペルガー者の教育でも,言語化できない部分,あるいは言語化できないと思われた部分を言語化してきた実績がある.
言語化できない部分と言っても,いつでも,誰にとっても,言語化できない部分が固定しているわけではない.たとえば,典型的な職人芸と考えられている神経疾患における問診でさえ,私の初診外来に陪席してもらった相手に対して,私は自分の問診のプロセスをすべて言語化して説明できる.これは私だけの特技ではない.なぜなら,問診というのは,患者さんのお話を受けて,それを医者がどう考えるかを患者さんに説明する行為だからである.患者さんにわかるように説明するのだから,陪席している学習者に説明できるのは当然である.
裏を返せば,患者さんに説明できないような問診はやるな→陪席者に説明できないような問診はやるな→陪席者がいると外来診療の腕が上達する→年を取ってもう伸びないと思っていた自分の診療が伸びていく→教育の楽しさはそこにある