事実と真実

佐藤 優と、伊東 乾の対談、”誰が主権者を吊るせるか?”がなかなか面白い。いつ自分も罪人に仕立て上げられるかわかったものではないと、妥当な懸念をお持ちの方は必読である。以下は抜粋

佐藤 日本の裁判制度ということならば、悲観的にならざるを得ません。私も刑事被告人になるまで分かりませんでしたが、あれは近代的な裁判ではなく、「お白州」です。それに検察官、裁判官の外交に関する知識は、実に頼りなく、公判で外交秘密の漏洩を防ぐために被告人である私が努力するしかない。

そもそも検察が有罪を立証するのではなく、被告人が無罪を立証するという魔女裁判のようなゲームのルールが適用されるのが現下日本の裁判なのです。

 イスラエルで死刑が廃止されているというのは、「死刑囚がかわいそうだ」というような情緒論ではなく、実は国権論から考えてのことなんです。死刑によって法秩序を維持するのは弱い国家だという意識があるからです。アイヒマンの処刑についてもイスラエル国家の弱さを示すものとイスラエルの知識人は認識しています。

信仰に基づく個人的見解を初めから公共圏の討議に持ってくるのはカテゴリー違いだと思います。私は国家主義者です。従って、国権論の観点から見て、死刑は廃止すべきだと思うようになりました。

犯行を行った人間の認識は、密室の中での検察官の取り調べでいかようにも作り上げることができます。それは職人芸と言っていいほど見事なものです。検察官が「上手に」取り調べ、その過程で、元来は被告人が持ってもいない「認識」を引き出し、もっともらしく文書(検察官面前調書)に整える。

 実際の犯行時と異なる「認識」であるのに、それが認識だ、と法廷で確定され、それに従って裁判が進んでいくケースが圧倒的に多いのです。そういうプロセスによって、犯罪がいかようにも作り出されることになる。

検察実務の世界では、これが日常です。私の事件に関しても、外務官僚が署名、指印した、実態から乖離したものすごい調書がたくさん出てきたんですね。

  裁判における真実は、客観的な事実とは異なります。検察官面前調書に書かれたことが真実です。私の弁護人の1人は、最近、検察庁を辞めた人でしたが、検察庁では「事実を曲げてでも真実を追究する」「いかにして被疑者を何でも供述する自動販売機にするかが検察官の腕だ」と教えられたそうです。私を取り調べた検事も「フニャフニャの証人を3ー4人揃えれば、どんな事件だって作ることができる」と率直に述べていました。

 ここから論理的に考えていきましょう。殺人を犯した場合、「自分はとんでもないことをしたと思った」という人間ほど、つまり罪の意識が強い人ほど、取り調べの過程で検察官に歩み寄ることになります。被疑者は正直に罪を認めているつもりで話す。その過程で、人を殺めた時点で、明確な殺意はなかったにもかかわらず、あったと過剰な認識について供述してしまう。そういう調書ができ上がってしまうと、計画的な殺意を持って人を殺めたという「非常に凶悪」な「認識」が法廷の場で認定されてしまって、死刑が言い渡される。一方、被疑者が徹底的に開き直ると「殺意はなかった」として傷害致死罪で終わる。そういうからくりになっているわけです。

 検察官出身の弁護士から、レイプ事件の調書を作る時は、「オ○○コ」という言葉をいくつ入れるかで評価が決まるという話も聞きました。「そこで彼女とオ○○コをしたいと思い」とか「思わずオ○○コをのぞき込みました」というような作文をたくさんすると迫真性に富む良い調書を取る検察官だと組織内での評価が高くなるということです。笑い話のような世界です。いまの司法は、こういう検察官の取り調べの「職人芸」に頼っている。その結果、ほとんど同じような事件でも、結果が天と地ほども違ってしまう。

検察、特に東京地方検察庁特別捜査部が全知全能であるというのは神話です。ごく標準的な霞が関官僚に過ぎません。

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