岡山に育ててもらった
例によって、厳しく鍛えられてへとへとになったけど、そのおかげで力がつきました。私の医療面接は岡山に育ててもらいました。これは謙遜でも何でもありません。3年前、初めて岡山に訪れた時には、何を隠そう、closed
question, open questionという言葉さえ知らなかったのです。OSCEなんてどんなことをやっているのか全然知らないおじさんは、今の学生さんは凄いなあ、こんな高級な勉強をやっているんだ。こりゃあ、教えてもらわなくちゃと思って、SPさん相手に面接するのも生まれて初めてだったのです。そしたら、それが面白いのなんのって。
初回だけで無理に結論を出さない
3年前の第一回目では、余裕が全くなくて、時間内にきれいにまとめることにこだわっていた。それに模範演技を見せなくちゃいけないと思い込んでいた。さすがマッシーと大向こうを唸らせるような強烈なショットを打たなければいけないと思い込んでいました。でも、医療面接でも、答えは一つじゃないってことが、2回目、3回目と岡山に来る度に少しずつわかってきました。
そもそも、現実の外来では、時間内にきれいに結論をまとめられないことがしばしばです。結論が出ないこともあります。今日、この外来患者さんとの面接での到達目標をどうするか。面接早期で明確にできないことの方が多い。上映開始後の映画館に入った時のように、はじめのうちは、真っ暗でどこに自分の居場所が見つけられるのかわからない。初診外来では、毎回、毎回、映画館の中で、目の暗順応をしばらく待っているような感じでやっています。医師側にも、”間”(ま)が必要なのです。
今回、シナリオをあらかじめ見せてもらうことなく、学生さんが面接している間、別室で待っていて、いきなりのぶっつけ本番という課題をもらいました。いつもよりも難しい局面だったわけだけれど、考えてみれば、普段の初診外来と同じなので、悪い意味での緊張感は全くありませんでした。ただ、医療面接の審査員として世界でもトップレベルの人たちに見てもらっているという、うれしい緊張感はありました。やっぱり岡山はウィンブルドンのセンターコートなのです。
OCSIAの特長
OCSIAでの面接には次のような特長があります。
○現場で悩んで、苦労してきたことが、そのまま、面接の訓練で生きてくること。
○そのセッションが、歌舞伎座、宝塚劇場のように華やかなこと。自分の現場での苦労が宝塚になるなんて、なんて素敵なことなんだろう。
○単に技術や知識をお披露目するだけではなく、セッションの後のフィードバックと議論を通して、その場で新しい発見が生まれて、それを共有できて、その発見が明日から使えること。
医療面接には正解というものがありません、だから失敗もないのです。そこもまた面白い。たとえば2日目、2例目の石原さん(注:シナリオ中での役名)のセッションでも、僕と野中君の違いというのは確かにあって、僕の方が鮮やかで華麗に見えたかもしれないけれど、野中君のセッションでは、石原さんの中に「今日はまだ話し足りない」という強い気持ちが生じまし。これは、患者から、関係を切らずに関わりを求め、自分の悩みを話すというポジティブな結果を生む可能性があることを、あの日に指摘しました。一方、私のセッションでは、石原さんが、「うまく丸め込まれてしまった」という見方もできます。また、野中君は”大ちゃん”(石原さんのお子さん)という呼びかけが、石原さんの信頼を勝ち取るアイテムになることを教えてくれました。私は、そこに思いを馳せられなかったのです。
パンツ一丁の意味
私自身は、ウィンブルドンのセンターコートを意識して、華麗にまとめようという意識がどうしても強くなりがちです。そこに隙ができる。上手く見せようと思うと、特に守りが弱くなる。だから、なるべく泥臭く、堅く、自分の弱さを隠さない=自分の弱点を自覚する。自分は名医ではないんだから、下手に飾らず自然体で臨む方が守りが強くなる、そう自分に言い聞かせることにしています。
そうすると、”名医じゃありません。見ての通り、ただのおじさんですが、何か?”って感じでにこにこして座っているだけになります。隙だらけなんです。いつも構えているお医者さんばかり見ている人は,虚を衝かれて,「えーっ、なんじゃこりゃ?」って誰でも思います。石原さん役をやってくれた前田さんが、フィードバックで、”パンツ一丁で座っている”と言ったのは、多分そういうことなのだと思います。それができたのも、岡山でさんざん鍛えられたからです。
テニスでも、強い、早いボールほど、こちらのスイングに力は要らなくなる。ラケットの面をしっかり作ってさえいれば、作用反作用の法則で強い、早いボールが返っていくのです。古武道もしかり、相手が力んでくるほど、それが利用できるから、こちらの力は少なくて済むのです。
だから、「パンツ一丁」は奇襲攻撃でも何でもありません。理に叶った作戦なのです。医者として、何かできなくちゃいけないと思うと、当然構えが物々しくなります。分厚い鎧を着込んだ相手に、自分の弱みを晒す気にはなれないでしょう。当然患者さんも殻に閉じこもってしまいます。そうなると患者さんは容易に殻から出てきません。
だから、患者さんの背景に何か大物が隠れているなと思ったら、「天の岩戸作戦」に切り替えるのです。パンツ一丁のおじさんが、踊りこそしないけれど、にこにこしていれば、何かいいことありそうなと思って徐々に顔を出してくるんですな、これが。
パンツ一丁の次はバカボンのパパ
患者さんの悩みを何とか解決してあげようという気持ちは大切。でも、当事者が長年あれこれ悩んでも解決できなかった問題を、医師免許だけで、それもたったの10分間で解決できるわけがありません。だから,その場で問題を全て解決できないからといって,何ら恥じることはないのです。長い間言えずに悩んできたことを聞いてもらえた、それだけでも、石原さんにとっては一大革命なわけです。それだけでも、評価してもらえる。それが、”患者さんに助けてもらう”ことです。
自分が名医であろうとすると、何らかの解決策を提示できなくてはならないと思いこむ.だから,プレッシャーがかかる。次に解決策が見当たらなくて、うろうろする、いらいらする、無力感に襲われる。それは目の前の患者さんにすぐ伝わって、ああ、私の話はこのお医者さんを傷つけてしまうのだなと思って、患者さんの方も萎縮してしまって、肝心の不安、心配を話せなくなる。
大ちゃん(石原さんの息子さん)が自閉症である事実は変えられない。最新医学とやらでも不可能だ。では、変えられるものは何か。それが、大ちゃんに対する石原さんの認知なのです。石原さんは、あんなにかわいい大ちゃんに,「自閉症という忌まわしいラベル」が貼られてしまったと思っている。その歪んだ認知は変えられる。
そのラベルは本当に忌まわしいものなの?僕はそうは思わないね。自閉症は病気じゃない。個性だよ。と、平然と言ってのける。えっ、そんなことを言っていいの と思いますか?
”自閉症は個性だ”と言って,誰かが不幸になるのでしょうか?大ちゃんの自閉症が悪くなでしょうか? そうはなりませんよね.確かに,”自閉症は個性だ”言った医者は、仲間から変わり者だと思われるかもしれない。しかし、医師免許が剥奪されるわけではない。バカボンのパパと同じく、「”自閉症は個性だ”と言っていいのだ!」 そうすると、石原さんは、そんな方向に迷路の出口があったのかとばかりに、もっとお話してくれるのです。
センターコート
帰りの新幹線を待つ間,岡山駅の待合室の椅子にへたり込み,マスカット味のソフトクリームをなめながらぼうーとしていました。へとへとでした。2004年に岡山に来たときと全く同じあるいはそれよりもきつかったかなあ。鮮やかなサービスエースや華麗なパッシングショットは一つもない。逆にコーナーにぎりぎりに返ってくるリターンをかろうじてロブで返す、とにかく相手のコートにボールを返すこと。それだけを心がけた。いつまでたっても,決して楽をさせてくれない岡山.もちろん決して嫌な疲れじゃない。だってウィンブルドンのセンターコートでの試合だもの。