遺すのではなく

「遺 す」は、いつかは潰えることを前提した言葉である。さらに、遺したものの管理人の選定にも悩まなくてはならない。あなたが死んだ後、あなたの遺したもの を、あなたのために代わって管理してくれる人を選ぶ自信が自分にあると思えるのなら、何でも、いくらでも遺すがいい。私にはそんな自信はこれっぽっちもな い。だから何も遺さない。遺せない。

そんな自信のない私でも、一切の対価なしで共有することはできる。ただより高いものはないことを知っ ている用心深い人に選んでもらえれば、その評価自体がお金で買えない価値になる。これからの自分の将来を真剣に考える思慮深い若い人達と知恵と魂を共有す ることによって、未来永劫にわたって、その知恵と魂の頑健性が担保できる。

教育者とは、自分の中で育んできた知恵と魂をこの上もなく愛しいと思う人のことである。その愛情は、自分の肉体の消滅を日々意識することから生まれる。だからこそ、愛しい自分の知恵と魂を次の世代と共有したいと、日々、切に願う。自分の肉体が消滅することを日々意識するから、毎日が教育の日々となる。

そ して教育者は常に試されている。子は、親の言葉、思考、行動、全てを見ている。自分の大切な人生がかかっているからだ。学生は、教授の言葉、思考、行動、 全てを見ている。自分の大切な人生がかかっているからだ。研修医は、指導医の言葉、思考、行動、全てを見ている。自分の大切な人生がかかっているからだ

子が育てずして誰が親を育てるのか?学生が育てずして誰が教授を育てるのか?研修医が育てずして誰が指導医を育てるのか?

こ いつはまだ使える、こいつはまだ見所がある。若い人からそう思ってもらいたい一心で、教育者は仕事をしている。教育者が歳を取れば取るほど、その「若い 人」の範囲が広がる。私を評価する人が増えていく。必然的に手厳しい評価者も増えていく。学習者の要求水準は高くなっていく。教育者である限り、愛しい自 分の知恵と魂をもっと次の世代と共有したいと思う限り、「もういいや」と思うことはない。ましてや、「遺したい」なんて絶対に思わない。

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