企業ブースが消えた学会で考えたこと
この4月に東京国際フォーラムで行われた第113回日本内科学会総会・講演会では、例年開設されていた企業展示ブースが消え、書籍販売ブースのみになっていました。そういえば、ランチョンセミナーはどうだったかと、過去の学会プログラムを調べてみたのですが、意外なことに、少なくともここ10年以上、年に一度の講演会・総会では「ランチョン」と銘打った講演は開催されていないようでした。
大学にとって最も重要な資金である国からの運営交付金が年々着実に減額される中で、製薬企業からの奨学寄付金は、医学部を持つ大学だけが享受できる特権でした。奨学寄付金が科研費などの公的研究資金と決定的に異なっていたのは、資金提供者に使途を報告する義務がなかった点です。いわゆるKey Opinion Leader
(KOL)達に対する、みかじめ料あるいは御布施にも似た日本独特の「商慣習」だった奨学寄付金。その獲得の立役者となった教授は、大学への貢献者として、大きな発言力を持っていました。
海外では、大学を始めとする研究機関での臨床研究に対して企業が資金を提供する際には、正式に契約が交わされます。その契約の中で目的外の資金流用はもちろん禁止されます。使途を限定しない資金提供など以ての外です。実際、バルサルタン問題がマスメディアで取り上げられる以前から、外資系製薬企業では、奨学寄付金のいかがわしさに対して、海外にある本社から厳しい目が向けられていました。
外資系製薬企業に所属する医師が多数を占める日本製薬医学会(JAPhMed)が、奨学寄付金を廃止して契約による臨床研究に早急に移行するように提案したのは、2009年10月、奇しくもKyoto
Heart Study (KHS)がEuropean Heart Journal誌上に発表されたのと同時であり、マスメディアがバルサルタン問題を取り上げる3年以上も前のことでした。以後、徐々にではありますが、奨学寄付金に代えて、企業と大学が契約を結んで臨床研究を行う動きが進んでいたのです。
高額の奨学寄付金を稼いできたKOL達を含め、多くの医師は当初この動きを無視しようとしましたが、バルサルタン問題を契機に、外資・内資を問わず、ほとんどの製薬企業が奨学寄付金を止めて契約に基づく臨床研究支援に切り替えるようになりました。ここにバルサルタン問題の最大の意義があります。ところが、ノバルティス社の元社員、白橋伸雄氏が被告人となっているディオバン「事件」の裁判では、奨学寄付金問題はあたかも禁句のように、黙して語られることはありません。
裁判ではアンタッチャブルな奨学寄付金問題
千両箱をもらった悪代官一味が、実は自分は悪徳商人に騙されていただけだと主張して水戸黄門側に参戦し、自ら悪徳商人を口封じのために成敗して、千両箱についてはだんまりを決め込む。そんな奇抜なシナリオの番組があるとは寡聞にして存じません。
一方、現実に行われているディオバン「事件」の公判では、松原弘明氏(元京都府立医科大学教授)を始めとして、KHSを推進したお医者様達が、次々と検察側証人となって登場し、口を揃えて「我々は白橋にまんまとだまされた哀れな被害者に過ぎない」と法廷で証言しています。そこでは、KHSだけでも3000万円と言われた奨学寄付金の行方が語られることはありません。もしそんなことをしたら、「高血圧の専門医達を含めて日本中の医師をだました狡猾な生物統計家」という珍妙な空想医学シナリオが一気に崩壊するからでしょうか。
ディオバン「事件」の裁判では、こうして白橋氏が文字通りスケープゴートにされる道筋がつけられているだけで、肝心の奨学寄付金問題は「不都合な真実」として隠蔽され続けています。北陵クリニック事件、高濃度カリウム製剤誤投与事故、ウログラフィン誤使用事故と同様、ディオバン「事件」でもまた、決して真相が究明されることはないのです。
我々の内なるたかり体質
白橋氏が「真犯人」であり自分たちは被害者だと主張する一方で、両罰規定により被告となっているノバルティス社からもらった奨学寄付金については一切口をつぐむ医師達。しかし、我々は彼らを嘲笑うことはできません。なぜなら、彼らと同様、我々の心の中にも企業に対するたかり体質が内在しているからです。
「自分は奨学寄付金などとは縁無き衆生である。ランチョンセミナーの弁当は食べるが、それがどうしたというのだ。弁当ごときで自分の処方は変わらない」。そう嘯(うそぶ)くのならば、なぜ弁当を食べるのでしょうか?そもそも弁当ごときで処方を変えないだけの見識の持ち主が、なぜ学会に来てまで無銭飲食と居眠りをむさぼろうとするのでしょうか?幼稚園児でも遠足の時には自分の弁当を持って行くのに。
基礎研究や臨床試験を始めとする企業活動への貢献にはそれなりの対価が支払われるべきだと私も思っていますから、受け取る金品の額の多寡を問題にしているのではありません。何千万もの奨学寄付金を「業績」として誇る習癖と、講演会場の入り口で配られる幕の内弁当を、さも自分の特権であるかのように考え、お礼の一つも言おうとしない傲慢さの根っこは共通しているのです。