医師にも人権はない〜代用監獄での死〜

「拷問で殺したとはおもっていませんよ。殺したというんじゃない。死なせたわけですわね」(宮下 特高の回想 田畑書店 P 126 逮捕されたその日のうちに築地署内で拷問で殺された小林多喜二の死に対するコメントを求められて)

「やくざと外国人に人権はない」「生意気な被疑者がいると、机の下からこうやって被疑者の向こうずねを蹴るんだよ。特別公務員暴行凌虐罪をやるんだよ」(市川 寛 検事失格 毎日新聞社

塚本泰彦医師(当時54歳)が奈良県警桜井署勾留中に死亡した事件の報に接して私が思い出したのは、多喜二のこと、市川氏を指導した検事の言葉、そして、受刑者が刑務官から暴行を受けて死傷した名古屋刑務所事件でした。(ただし、この事件については異論もあります)

常に「適切に行われている」という自動応答のように、反証を許さない仮説は決して科学ではありません。そして反証を許さない人間は宗教者、警察官、検察官、裁判官であっても、決して科学者ではありません。

特高(特別高等警察)の警察官だった宮下氏と、塚本氏に対する暴行を全面的に否定した警察官の間に共通するのは、「殺したのではない。死んだのだ」という、それまで彼らが接してきた、たくさんの被疑者から何度でも聞かされてきたであろう言葉です。また市川氏の指導検事による教育と塚本氏の運命を合わせて考えると、やくざ、外国人に加えて、医師にも人権(塚本氏の場合には自分の命を守る権利)がないことがわかります。

判決が黙殺した代用監獄の問題
奈良県を訴えた塚本氏の遺族の請求を棄却した奈良地裁(木太伸広裁判長)の判決は、暴行の事実について全く言及していません。医療事故訴訟が被害者を救済しないのと同様に、塚本氏のような司法事故の被害者やその遺族も裁判所は救済しませんでした。

裏を返せば、判決が黙殺した点にこそ真実があることになります。日弁連が「日本の恥部」と呼び、20135月の国連拷問禁止委員会での上田秀明人権人道大使の「シャラップ」発言により一躍脚光を浴びることになった、いわゆる代用監獄の問題は、これまでもっぱら拷問・自白の強要といった人権侵害の面から論じられてきました。さらに塚本氏の死によって、代用監獄では人権どころか命さえも守られないことが明らかとなりました。

塚本氏は201026日に業務上過失致死の容疑で奈良県警に逮捕されました。それから48時間経った28日に勾留が決定されました。その時点で警察は、刑事訴訟法第203 条に従い、既に被疑事実を認めていた塚本氏の身柄を法務省所管の拘置所に送らねばなりませんでした。

そうして拘置所に収容されていれば、塚本氏の運命は全く違ったものになっていたはずでした。ところが塚本氏はそれ以降も桜井署の留置場に留め置かれ、23日は取調中に失禁、24日は意識混濁に陥り、逮捕から19日目の25日に亡くなりました(関連記事)。

警察の留置場と拘置所の最大の違いは?
私服を着て、施設の給食以外にも菓子、果物、コーヒー、ジュースなどを自費で購入し飲み食いできる。日用品が自費で購入できるのはもちろん、観葉植物からDVDプレイヤーまで借りられる。接見禁止がなければ面会も自由。以上はいずれも拘置所でのみ可能であって、留置場では一切が不可能です。

拘置所では、刑務所同様に医療も提供されており、市中一般の有床診療所あるいは病院と全く同様に、厚労省の規制対象になっています。 未決拘留者の区画があり、拘置所としても機能している高松刑務所は、201510月にアムネスティの訪問まで受けていますが、重大な問題は指摘されていません。

もちろん矯正医療の資源は限られています。身体疾患を診療できる病院機能を持っているのは、全国でも八王子、大阪の2刑務所だけです。(岡崎、北九州の両医療刑務所は精神障害者が主な対象)。他の拘置所・刑務所の医療部門は全て有床ないしは無床診療所です。

いざという時に被収容者の命を守るためには、それゆえ常日頃の努力により、地域医療機関と良好な関係を保つことが極めて重要になります。お願いする側の拘置所・刑務所側からは、ただでさえ不足している刑務官の中から派遣された3人が被収容者の傍に24時間張り付きます。

こうして時に離島からの患者移送よりも一層困難な決断を迫られながら、拘置所・刑務所の医療は維持されています。一方、警察の留置場ではこのような苦労は全くありません。なぜなら、そもそも医師の配置がなく、医療が提供されていない、それゆえ、地域医療機関との良好な関係など、考える必要すらないからです。

塚本氏の死が教えてくれること
名古屋刑務所事件をきっかけに、刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律(受刑者処遇法)が2006524日に施行され、拘置所・刑務所における被収容者の処遇が改善され、生活環境や提供される医療の質が上記のような水準になりました。

一方、法務省の権限が全く及ばない警察の留置場での生活環境や医療の欠如は、受刑者処遇法施行以降も全く変化がありません。同法施行以降、「監獄」という言葉はすべて「刑事施設」という言葉に置き換えられたにもかかわらず、日弁連が敢えて「代用監獄」という言葉を使っているのもこのためです。

代用監獄では医療は提供されていませんし、今後も提供できません。一体どこの医師が医師の命を守れない組織で働こうと思うでしょうか。塚本氏の死が留置場でなくて拘置所であったならば、全国の矯正医官は即刻辞表を提出していたでしょう。

被疑者の人権はおろか命さえも守れない代用監獄は、警察にとっても、そして代用監獄の維持に全面的に協力してきた検察や裁判所にとっても、極めてリスクの高い前世紀の遺物であり、誰の利益にもなりません。

名古屋刑務所事件を契機として受刑者処遇法ができたことを考えれば、そもそも刑事訴訟法第203 条をないがしろにする脱法行為である代用監獄を、塚本氏の死を契機として廃絶することに、何のためらいが必要でしょうか。

→参考:私の内なるアイヒマン

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