万引きの鑑別診断から学ぶ(日経メディカルオンライン2016年6月掲載)

「万引きの鑑別診断」。それが201668日夜に放送された総合診療医ドクターG(NHK総合)での主題でした(少なくとも私にとっては)。決まって同じ時間、同じコンビニで、同じ酒瓶を、白昼堂々と棚から取り出して悠然と店から出て行く、そんな奇妙な行動を繰り返す65歳男性の診断が問題になったのです。

万引きの基礎病態として頻度の多いのは?
矯正医官にとって、窃盗は一つの「症候」に過ぎません。それが何らの基礎疾患もなく生じる本態性なのか、あるいは何らかの基礎疾患があって二次的に生じているのかを見極める。矯正医官がこのような見識を持っていなければ、認知症を始めとした重大な疾患を見逃し、被疑者の処分を誤らせることになります。

万引きを繰り返す事例を拘置所・刑務所で診た時は、問診により知的障害や認知症の有無を簡単にスクリーニングした上で、まず本人の社会生活状況を確認します。というのは、生活苦ゆえに、塀の中に寝食の場を確保する目的で、万引き、無銭飲食、タクシー料金の踏み倒し等を繰り返す例が、近年特に高齢者を中心に増え続けているからです。このような例では生活習慣病、結核、悪性腫瘍といった慢性疾患が潜在あるいは放置されている可能性を念頭に置いて診療します。

生活苦もないのに、万引きを繰り返すのが、クレプトマニア(窃盗依存症・窃盗症)です。女性に圧倒的に多く、しばしば摂食障害を合併します。刑事弁護の世界では有名な病態であるだけに、拘置所・刑務所に入ってくる場合、すでに診断が確定している例がほとんどですから、矯正医官が診断に苦慮することはありませんが、精神科医を除く一般社会の医師の間ではまだまだ低いクレプトマニアの認知度をもっと高める必要があります。

万引きの再犯事例の原因となる脳の器質的疾患で最も多いのが軽度の知的障害です。自発的に窃盗する場合と、命令されて物を盗む場合とがありますが、これも警察が状況を把握していることがほとんどなので、矯正医官が積極的に関わる必要はまずありません。

見逃されがちな疾患は?
一般市民の間ではもちろん、刑事弁護の世界でもまだまだ認知度が低い疾患の場合には、未決勾留中(しばしば公判開始後)、時には判決確定後、刑務所で初めて気づかれることになります。 

番組で紹介された前頭側頭型認知症(FTD Frontotemporal Dementia)は、かつてピック病と呼ばれ、アルツハイマー型認知症(AD Alzheimer's Dementia)に比べて非常に希な認知症とされてきました。ところが近年、若年性認知症ではFTDは決して希ではないことが判明し、人格の変化や常識を弁えない迷惑行為で診断される例も増えるにつれ、特に介護の世界で進行期FTDの認知度が急速に上がってきています。

しかしまだまだ問題は山積みです。特に初期のFTDでは、ADと異なり記銘力障害や見当識障害がほとんどないため、認知症を疑われずに、抑うつ状態や異常行動からうつ病や統合失調症と診断されたまま、万引きや痴漢などの触法行為により犯罪者とされ、本人の尊厳と家族の名誉が大きく傷つけられる事例もまだまだ多発している現状があります。

一方、普段の行動も全く問題がなく、平和な市民生活を送ってきた人が、ある日突然万引きをして、しかもそのことを本人が全く覚えていない場合には、どんな疾患を疑わなければならないか?それが複雑部分発作(CPS Complex Partial Seizures)です。

派手なけいれんと意識消失を伴う全般性発作と異なり、CPSでは四肢の運動には異常がなく、意識障害がありながら普通に目を開けて歩くこともできますので、一般市民はてんかん発作とは夢にも思いません。そのような状態で、店の品物を手に取りレジを経由せずに外に出れば、たちまち万引きの現行犯逮捕となるわけです。(関連和文記事関連英文記事)。

CPSでは、発作がなければ全くの健常人として生活できます。そんな人が発作中の異常行動を全く覚えていないと言っても、「ふざけるな」の一言で片付けられるのが関の山です。家族の謝罪・賠償のおかげで身柄拘束に至らないまでも、CPSの正しい診断が得られなければ、一生犯罪者の汚名を着せられたままです。

病気を犯罪と誤認しないために
本来なら、上記の鑑別診断が行われる場所は、拘置所・刑務所、裁判所ではなく、そこに至る前の一般社会であるべきです。ところが現実には、病気が犯罪と誤認されたまま、逮捕から有罪判決確定まで一直線に進んでしまう事例が後を絶ちません。そうなってしまってからでは、本人はもちろん家族の尊厳も大きく傷つき、名誉回復も不可能です。 

関係者が「どうもおかしい。もしかしたら・・・」と思って医師に相談してもらえるように地域社会の「万引きリテラシー」を一層向上させる必要があります。関係者の方々の地道な努力で、道路逆走や交通事故死の背景にある認知症の存在が認知されるようになりました。万引きの背景に病気があることを地域で周知するのも十分可能です。実際、クレプトマニアについては徐々に、しかし着実に認知度が高まりつつあります。

ミトコンドリア病(11歳女児)、急性心筋梗塞(89歳女性)、医薬品によるアナフィラキシー(45歳男性)、臨床研究での重篤な有害事象(4歳男児)、てんかん重積(1歳女児)。担当医によるこれらの適切な診断が、患者を全く診療していない一人の麻酔科医によって、筋弛緩剤中毒と誤診された。これが北陵クリニック事件です。そこまで大がかりに仕組まれた冤罪でなくても、FTDCPSのような、ありふれた病気の患者さんの異常行動が犯罪とされ、懲役刑まで受けてしまう悲劇は、今、この瞬間も日本のどこかで起こっているはずです。

私のような矯正医官だけが病気が犯罪と誤認されることを知っていても意味がありません。患者さんの家族はもちろん、地域住民、福祉関係者、医療者が、脳の疾患に起因する異常行動が犯罪と認定される可能性を常に念頭に置かなければ、病気という真犯人を見逃す冤罪を世の中から駆逐することは決してできないのです。

参考記事:万引き認知件数 [2010年第一位 香川県]

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