「検討会では医師の責任追及を回避しようとする医療側の消極的な姿勢が目に付いた」
これは、今年3月に示された厚生労働省「医療事故調査制度(事故調)の施行に係る検討会」の取りまとめを受けて、宮城県内世帯普及率70%を誇る河北新報が3
月27日に掲げた社説の一文です。今どき「事故調は責任追及の場」との主張を聞いて驚き呆れる方も多いと思いますが、私はむしろ好機到来と感じました。北
陵クリニックでの医療事故、同クリニックでの臨床研究不正、麻酔科医による犬の実験への筋弛緩剤流用、仙台市立病院でのミトコンドリア病の見逃しなど、数
々の医師の責任追及を15年もの間一貫してサボタージュしてきた同社の方針が、コペルニクス的大転回を遂げた! そして私を天下の藪医者と決めつけた空想医学物語発
表から1周年。「東北の雄」と呼ばれる同社が、北陵クリニック事件でっち上げの主犯としての責任を自覚し、警察・検察・裁判所による司法過誤に対してつい
に立ち上がった!
そう思ったからです。しかし、それ以後何の音沙汰もありません。この社説の行間には「ただし北陵クリニック事件関係者については、弊社の利益相反に鑑みて
刑事免責とする」という二重基準が存在するのでしょう。
「事故調は責任追及の場」というデマ
従来の医療事故報道のあり方を、事故調をきっかけに見直す気などさらさらない。みのもんたの
向こうを張って我々医療者を恫喝するこの社説は、そんな決意表明のように私には読めます。一方で北陵クリニック事件での医師たちの責任については、今まで
通りの完全黙秘という二枚舌。「東北の雄」の厚顔無恥もここに極まれりの感がありますが、私は何も河北新報だけを批判するつもりはありません。同業他社も
また、北陵クリニック事件報道で神経難病患者を毒殺の犠牲者とでっち上げ、検察や裁判所と結託してその人権を15年間蹂躙(じゅうりん)し続けてきたので
すから。この社説と論調を同じくする他のメディアの罪状もまた、河北新報と何ら変わるところはありません。
事故調が医療者の責任追及の場であるとの主張は、裁判が真相究明の場であるとの主張と全く同様のデマに過ぎません。そのようなデマを鵜呑みする医療者には、屠殺場に向かう羊と同じ運命が待っています。メディアリテラシーは教養ではなく、裁判真理教と愚民報道に
より市民への背信行為を繰り返す組織の魔手から自分の人生を守る基本的な防具です。さらに、我々がメディアリテラシーを身に付けることが、検察や裁判所を
批判できる真のジャーナリストたちを応援することにもなるのです。以下の説明では、対象をひとまず新聞に代表される一般メディアに絞り、それ以外の、専門
性の高いメディアや一般メディアに所属しない個々のジャーナリストについては稿を改めて議論することにします。
市民への背信行為に走るメディア
「非常に優秀な記者がいて、短期間で食い込んじゃうんですね。……その記者が特捜関係者から……『宗男を事件にしたいが、なかなかいい材料がない……』
と。そして『これはミッションだから何か見付けてきてくれ』って」(高田昌幸、神保哲生、青木理『メディアの罠』産学社)
これは著者の
一人である高田氏による、後輩記者を巡る北海道新聞記者時代の体験談です。本書には、これを含め、警察や検察にとって「優秀な犬」とは何かがよくわかるエ
ピソードが綴られています。こうして金のために魂を売り続ける、すなわち、政治家をも懲役刑にできる国家の最高権力に擦り寄り、彼らが垂れ流す報道発表を
嬉々として紙面に載せて収益を上げる。戦前、戦中と何ら変わることのない、このようなメディアの従軍記者体質は、市民に対する裏切り行為にほかなりませ
ん。
「刑事裁判はすべて冤罪である。稀にしか発生しない例外的不正義として冤罪を観念するのではなく、常に存在するそこにあるリス
クとして考えることで、はじめて市民裁判が可能となる」(森炎『教養としての冤罪論』岩波書店)と刑事裁判官経験者が明言する世の中になりました。検察官
経験者(市川寛氏、郷原信郎氏)や裁判官経験者(瀬木比呂志氏、森炎氏)といったかつての当事者たちが、一連の著作で検察、裁判所に対する危機感をあらわ
にしています。さらに北陵クリニック事件は言うに及ばず、東京女子医大事件や福島県立大野病院事件を始めとした一連のトンデモ裁判でも、警察・検察の過ち
が明白になっています。にもかかわらず、メディアは今なお過去の報道過誤について完全黙秘を続ける一方、警察・検察の自画自賛報道発表で今日も紙面を埋め
尽くしています。そのことだけでも市民に対する立派な背信行為なのに、今度は、事故調を食い物にして一儲けを企む。とんだ「公器」があったものです。もっ
とも、「背信行為」と言えるのは、いまだに市民の間にメディアへの信頼が残っていればの話ですが。
愚民報道がビジネスチャンスを生む
メディアが医療事故を報道するのは、もちろんそれが商売になるからです。商売である以上、売れなければお話になりません。いくら手間暇かけて「いい品」だと作り手が信じても、全く売れなければ会社は潰れます。
一方で誰でも楽な商売をしたいものです。すると、一番手っ取り早い商法は、品の善し悪しがわからない客に、手間を省いて作ったイカサマを売りつけるやり方
です。この場合、売る品がトイレットペーパーや新聞記事のような、使い捨て商品だとイカサマとばれにくい。そうやって客はイカサマを掴まされたとも知らず
に、繰り返し買ってくれる。この収益モデルでは、客の質が収益に大きく影響します。会社としてはリテラシーが欠如した客が多ければ多いほど収益は上がりま
す。市民のリテラシーを育成するどころか、逆にデマを流して破壊する。そうしてリテラシーの欠けた国民の皆様にまたデマを売りつける。この愚民報道サイク
ルがメディアの生命線です。
そこまで理解できれば、真っ当な市民は、事故調を自分のメディアリテラシーを育て自分の人生を守る絶好の機会だと捉えられるでしょう。次回以降も目前に迫った事故調発足に向けて、メディアが仕掛けるワナについて解説していきます。