コラム: 池田正行の「氾濫する思考停止のワナ」


トンデモ裁判と冤罪(えんざい)の日常性

2015/1/16

「裁判は真実発見の場ではない」

「刑事裁判はすべて冤罪(えんざい)である」

  裁判官出身の弁護士、森 炎(もり ほのお)氏は、その自著『教養としての冤罪論』(岩波書店)の中で、裁判が真実発見の場であるかのような幻覚と、刑事裁判に普遍的に存在する冤罪リスクを 指摘しています。さらに森氏は、市民が刑事裁判に参加する裁判員制度の導入を受け、冤罪事例の検討を通して、冤罪を日常的感覚で認識できる方法も示してい ます。診療行為のリスクを常に意識せざるを得ない医療者には、親しみが感じられる内容ですので、一読をお勧めします。

 本書を読めば、北陵クリニック事件のようなトンデモ医事裁判や冤罪の発生機序がよく分かります。さらにこの事件同様の冤罪が、実は我々の身近で起こり得る。そのことを教えてくれるのが、2014年8月に大々的に報道された「盲導犬刺傷事件」の顛末です。

冤罪寸前まで行った「犬の傷害事件」
 週刊現代の記事「衝撃スクープ!フォークで刺されたはずの盲導犬オスカー『実は刺されてなんか、いなかった』」に よると、ことの起こりは14年8月1日に朝日新聞に掲載された、埼玉県の50歳代の男性からの投書でした。視力障害者の友人の盲導犬オスカーが、何者かに フォークのようなもので刺されたことに強い憤りを感じるとの趣旨でした。その後、この事件はツィッターを含めてネット上に広がり、8月24日以降は、全国 紙やテレビでも大々的に報道されました。芸能人はもちろん、超党派の議員連盟「身体障害者補助犬を推進する議員の会」までもが警察庁を叱咤激励する騒ぎに まで発展しました。

 「犬の傷害事件」の被害届を警察が受理することは通常ありませんが、燃え上がった「国民感情」に強烈な圧力を感じた 埼玉県警は、捜査史上例のない30〜40人の捜査員を投入する体制を敷きました。昼間の時間帯の犯行であり、犯人逮捕は時間の問題と思われましたが、当該 地域の監視カメラ映像の解析を含め、必死の捜査にもかかわらず、何の手掛かりも得られませんでした。

 それもそのはず、「真犯人」は監視 カメラに写るような存在ではなかったのです。当初、フォークのような凶器による刺傷と思われたのは、夏期に大型犬に好発する膿皮症であろうとの意見が最初 から獣医師の間で大勢を占めていました。さらに、オスカーを実際に診察した獣医師も、刺傷を決して積極的に疑ったわけではなく、あくまで可能性は低いけれ ども、一応鑑別診断の一つとして挙げただけでした。

 「事件」から3カ月以上経っても「真犯人」について何の手掛かりも得られない中で週 刊現代の取材は行われましたが、週刊現代の記事の冒頭の「もう、いいじゃないですか、その話は……」との地域住民の言葉に象徴されるように、関係者の口は おしなべて重かったことを記事は伝えています。

 推測のみで病気を犯罪と勝手に素人判断し、犯人捜しゲームで収益を上げたメディア。その メディアに焚き付けられた「国民感情」。その国民感情に奮い立った警察。それらの構図だけでも、まさに北陵クリニック事件にうり二つですが、さらにこの事 件でも冤罪が生まれる寸前まで行っていたのです。

 飼い主は、自作自演の虐待を疑う掲示板の書き込みにひどく傷付き、外出もままならず、 マッサージ師の仕事を辞めて自宅に閉じこもる様子が報じられています。また、警察も防犯カメラに写っていた「盲導犬の後をつける若い長髪の男」を容疑者と 考え目撃情報の提供を呼びかける失態を演じています。関係者がおしなべて沈黙を守っている点も北陵クリニック事件と同様です。

市民と法的リテラシー
 盲導犬騒動は、北陵クリニック事件と同一の誤りを再現することによって、冤罪の発生機序を明確にしてくれました。どちらの「事件」でも「真犯人」は人間ではなく病気でした。不特定多数の一般市民と捜査当局が共に病気を犯罪と取り違えたことも共通しています。

  二つの「事件」の違いは2点あります。第1は、宮城県警が杜撰な捜査で冤罪を創作し守大助氏を無期懲役に陥れたのに対し、埼玉県警は冤罪を辛うじて回避し た点。第2は、北陵クリニック事件では冤罪が警察・検察主導だったのに対し、盲導犬騒動では逆にメディアが主犯格となって警察を冤罪へと誘導した点です。 冤罪成立において両者は常に双方向の共犯関係にあり、時にメディアの方が積極的に冤罪を主導する場合もあることが分かります。

 しかし、 盲導犬騒動の顛末を詳細に報道したのが週刊現代だけだったことからも分かるように、大手メディアで働くジャーナリストたちは冤罪への関与について、否認あ るいは完全黙秘し続けます。そんな彼らに対して、我々が監視の目を強化する必要がありこそすれ、彼らに冤罪を防止する機能は期待できません。

  北陵クリニック事件も盲導犬騒動も、病気を犯罪と間違えた一般市民の感情的な反応が冤罪の大きな原動力となったことを示しています。我々一般市民が、選挙 の投票で示すような大きな力を発揮して冤罪を創る。我々自身がそのことに気づいて、我々自身の中で法的リテラシーを育てていく1)、それが中世と嘲笑される日本の裁判を改革する最も効率的な道なのです。

  イングランドの法学者で最高位の大法官だったトマス・モアは、ヘンリー8世の離婚を認めなかったがゆえに、「反逆罪」の言い掛かりをつけられて断頭台に送 られました。冤罪は何も日本だけの特産品ではありません。国家がある限り冤罪は生まれます。どの国・地域でも、いつの時代でも、市民は国家による冤罪のリ スクを意識し、そのリスクを最小化する努力をしてきました。日本の市民が例外でいいわけがありません。自分は決して間違わないと信じる人間の暴走を抑えら れるのは、自分が間違えることを知っている人間だけです。

【参考文献】
1)池田正行.医師と一般市民のための法的リテラシー.

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