私はここ30年来、自宅にテレビジョンの受像器を持ちあわせないので、「エボラウイルス感染症(EVD)流行がCIA(米国中央情報局)の陰謀である」とする評論家や、「いやCIAではなくFDA(米国食品医薬品局)と製薬企業の陰謀である」と、したり顔のニュースキャスターが反論する貴重な機会を見逃しました[1]。
ご覧になった皆さんは、彼らのリテラシー欠如を一笑に付して終わらせたのかもしれませんが、この手の陰謀論による医療破壊工作がリベリアやギニアでの
EVD流行拡大につながったことや、先進国にもEVDが広がりつつある現状を考えると、またもやメディアがパニックを作り上げ、ビジネスチャンスとして利用しようと考えているように見えます。
第三帝国総統として世界大戦を開始しホロコーストを実現させた人物も、政治活動を始めた当初は、ユダヤ人に対するヘイトスピーチを繰り返すしか能がない陳腐なデマゴーグ(扇動家)と思われていました。わが国が米国に戦争を仕掛けることになったのも、
国民の命に対して責任ある人々が陰謀論をもてあそんだ結果です[2]。上記のCIAの陰謀云々を、たかがチンピラ評論家の戯れ言と無視できないと私が思うのは次のような理由からです。
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」とのデマで一般市民による殺りくが起こった関東大震災の時に比べ、情報リテラシーを適切に保つ手法は格段に向上しているように見えますが、裏を返せば、デマを非常に効率よく広めやすくなったとも言えるでしょう。一旦EVDが侵入すれば、日本でもパニックによる医療破壊が起きる素地は整っている。そう私が恐れるのは、EVDよりもはるかに生命リスクの低い牛海綿状脳症(BSE、いわゆる狂牛病)の時でさえ、メディアが垂れ流すデマや陰謀論にあおられた市民が簡単にパニックに陥った“実績”があるからです[3]。
あの時、「畜産・食肉輸入業者、官僚、御用学者たちの産官学合同チームが結託した陰謀により、日本でも何千何万という死者が出る!」と叫んで、農林水産省・厚生労働省・保健所、畜産農家、BSE研究者を盛んに攻撃した“告発者”たち。そんな彼らは、BSEが猖獗(しょうけつ)を極めていた時に英国に滞在し、潜在的な異常プリオン保因者となった私が、パニックの弊害3)を指摘するたびに、私に向かって散々罵声を浴びせました。しかし、今や何の声も聞こえてきません。もちろん当時の番組や記事の検証など一切行われていません。彼らは例のごとくお得意の“記銘力障害”を発揮して、全く別のデマを売って歩いているのです。そんな彼らがパニックをあおった日本での犠牲者と言えば、BSEが発生したと報道された農家や、目視検査をした女性獣医師など5人の自殺者であって、BSE感染患者は一人も出ませんでした[4]。
ところが油井氏は、担当医はおろか、その親族、弁護人も一度として取材しませんでした。さらに一連の刑事・民事訴訟で担当医の無罪や請求棄却が決定した後でさえ、ご丁寧にも06年3月の刑事第一審判決時、08年2月の民事第一審判決時の計2回にわたって、「みのもんたの朝ズバッ!」に油井氏が“専門家”として招かれ、みの氏と2人で誹謗中傷を繰り広げました[5]。その結果TBSは、放送倫理・番組向上機構(BPO)から「重大な放送倫理違反」勧告を受けています[6]。
従来、EVDの流行が短期間で終息していたのは、もちろん「期待の新薬」が効果を発揮したからではなく、基本的な診療・感染防御手段と人材が確保されてい
たからです。そう考えれば、今回の流行拡大の原因も自明です。ジャーナリスト、評論家、ニュースキャスター……二言目には報道の自由、言論の自由、ニュー
スソースの秘匿といった思考停止キーワードを振り回す彼らの頭の中には、自分の主張に対する立証責任も、事後の検証責任も存在しません。このような無責任
極まりないデマゴーグたちが、悲劇の現場で「告発者」として声を上げた結果、地域の基本的な医療が破壊され、パニックが起こり、EVDがコントロール困難
になったのです。
いつの世でも、陰謀論はコストゼロで最も安易に乱造できるメディアの定番商品です。かつてBSEパニックをあおり、医
療機関へのいわれなき攻撃を繰り返した評論家やニュースキャスター、あるいはジャーナリストを自称するデマゴーグたちは、EVDが日本に侵入する時を、
「国民の皆様」をパニックに陥れ陰謀論を売りつけるための絶好の機会と捉えています。リテラシーも調査報道能力も欠如した彼らにできることと言えば、危機
の際に必要不可欠な働きをする行政機関や企業を攻撃することだけです。「それみたことか。厚労省も製薬企業もCIAの工作員の巣窟になっているのだ。国民
よ目を覚ませ!」と彼らが声高に主張する時、あなたは何を考え、どう行動するのでしょうか。EVDは我々自身のリテラシーを試しています。
【参考資料】
1)田嶋陽子氏がエボラ出血熱流行についてCIA陰謀説をTV番組内で力説
2)秦郁彦『陰謀史観』(新潮社、2012年)
3)池田正行『食のリスクを問いなおす: BSEパニックの真実』(筑摩書房、2002年)
4)Wikipedia BSE問題(唯一亡くなった日本人BSE感染者は英国滞在中の感染です)
5)割りばし事件報道にBPO勧告 長い戦いに「一応」の区切り(日経メディカル 2010年1月号、p157)
6)権利侵害申立てに関する委員会決定 2009年10月30日 放送と人権等権利に関する委員会決定 第41号