来るべき医療事故調査制度(以下、医療事故調)が一体どのように運営されるのか、多くの方が関心を持っているでしょう。
中でも懸念されるのが、業務上過失致死傷による警察の捜査です。医療事故調が発足すればトンデモ医事裁判が減少するのではないかと期待する向きも一部にあ
るようですが、そんな楽観を裏付ける根拠はどこにもありません。それどころか、警察に届ける必要のない診療関連死と、医師法21条の「異状死」を混同させ
る風説を性懲りもなく垂れ流して、トンデモ医事裁判を助長しようとする動きが、ここへ来てむしろ活発になっています1-3)。
医療事故検証の難しさ
一人のスーパードクターが全てを取り仕切るテレビドラマは、今日の現実とはかけ離れたおとぎ話にすぎません。今や、医療現場にもたらされるどんな結末に
も、複数のシステムと複数の人間が関わる時代です。1907(明治40)年にできた刑法が規定する業務上過失致死傷で、特定の医師個人にのみ刑事罰を与え
ることは、真相究明に逆行するばかりでなく、医療事故再発防止や医療安全の向上につながらないことも分かっています3)。
かつて私は、とあるオンブズパーソンの依頼で、証拠保全された診療録を検証して、裁判に持って行くだけの過誤があるのかどうか、あるとしたら、どのようにして悪い結果が生じたのか、意見書としてまとめる活動をしていました。
患者側に立った組織からの依頼とはいえ、依頼者に迎合して医学的に間違った意見書を書けば、いざ裁判になった時に相手側の反論に耐えられません。ですか
ら、施設や医師個人に対するバイアスを極力排除しようと努めながら、診療録を丹念に読み込む必要がありました。あやふやな点は海外のガイドラインや
PubMedで検索した文献を取り寄せて確認し、後で公開されても恥ずかしくないように、症例報告の形で十例以上もの意見書を書き上げましたが、その中で
も、一人の医師にのみ過失責任が帰せられる例は一例もありませんでした。それも10年以上前の話です。診療分野のさらなる細分化、ITをはじめとする新技
術の導入などにより、今日の医療はさらに複雑化しています。
専門医である私でさえ、医療事故真相究明のためには、症例報告と全く同様の
努力を傾けるのです。解剖学一つ知らない警察官や検察官に、一体何ができるというのでしょう。彼らに医療事故の真相究明能力が全くないことは、私が改めて
明らかにするまでもありません。彼らが医学教育を全く受けたことがないことはもちろん、外部専門委員の委嘱制度すら持ち合わせていないことは、公然たる事
実です4)。警察によるでたらめな捜査が、真相究明どころか、杜撰な診療体制による医療事故や、臨床研究による事故といった真相を隠蔽してしまったのが「北陵クリニック事件」です5)。以下は、同事件再審請求書で公開されている事実ですから6)、だれでもその内容を確認できます。
北陵クリニック事件における誤診の根底には、宮城県警によるでたらめな捜査があります。
その端緒となったのが、2000年12月1日、宮城県警本部に自ら足を運んだ東北大学大学院法医学分野舟山眞人教授の意見でした。舟山教授は捜査1課長に
対し、「北陵クリニックの患者に何か薬物が入れられたような症状が出ており調べてほしい。犬殺し(筋弛緩剤)のような薬剤であるが犬殺しは血液から出にく
い」と伝え、北陵クリニックの医師から話を聞いてほしい旨を依頼したのです。県警本部に対する舟山教授の影響力は絶大でした。捜査1課長は、直ちに特殊犯
係の3人の警察官による捜査班を編成し、捜査を開始しました。ところが、この捜査がとんでもない方向に暴走してしまいました。
舟山教授の行動自体は、刑事訴訟法239条第2項「官吏または公吏はその職務を行うことにより、犯罪があると思料するときは告発をしなければならない」に基づく通報行為にすぎません。問題の本質は、この通報が惹起した宮城県警よるでたらめな捜査、科学性のない杜撰な鑑定7)、そして「事件」発生から今日までの15年近く、これらの捜査や鑑定を検証するどころか放置・黙認し、結果的に難病患者の救済を阻止し8)、杜撰な臨床研究による重大事故を隠蔽し続けている、東北大学の研究者・医師たちにあります。
証拠保全もせずに逮捕
医療事故に限らず、証拠保全は捜査の基本中の基本です。そして診療録はどんな医療事故の検証においても最も重要な原資料です。しかし、宮城県警が診療録を
証拠保全したのは、守大助氏を逮捕した2001年1月6日から9日も経った1月15日でした。つまり、北陵クリニックでの急変事例を全て守氏の点滴による
ベクロニウム中毒と診断するに当たり、宮城県警は肝心要の診療録を一切検討しなかったのです。この事実からだけでも、医学医療に無知どころか、基本中の基
本さえ守らないでたらめな捜査が行われていたことが明らかです。もし、捜査の基本を忠実に守り、逮捕に踏み切る前に、俊英ひしめく東北大学神経内科に証拠
保全した診療録の検証を一任していれば、ミトコンドリア病の診断は即座に確定し、A子さんへ適切な治療を提供し、冤罪(えんざい)も未然に防げていたので
す。しかし当の宮城県警は、この警察史上最大の不祥事について、今日に至るまでの15年間、全面的に否認しつづけています。
先の通常国
会で、医療事故調の創設を盛り込んだ地域医療・介護総合確保推進法がめでたく成立したのに引き続き、新時代の刑事司法制度特別部会答申案もまとまりまし
た。にもかかわらず、警察官が解剖学や内科診断学を学ぶようになったという話は寡聞にして存じません。肋骨の本数も脈の取り方も知らない警察官による医療
事故の“真相究明”。これまで何度となく繰り返されてきたそんな悲しい喜劇の数々は、警察が自らの過ちを全面否認し続ける限り、これからも延々と繰り返さ
れていくのです。
<参考資料>
1)石原憲治,武市尚子,岩瀬博太郎:なぜ警察取扱死体数が減ったのか.日本医事新報No.4697:14-17,2014.
2)田邊昇,井上清成:「なぜ警察取扱死体数が減ったのか」への反論.日本医事新報No.4703;13-14,2014.
3)なくならない「医師法第21条への誤解」
4)トンデモ医事裁判を支える人々〜その1〜
5)医師主導冤罪(えんざい)事件
6)再審請求書
7)科学なき科学捜査
8)“天下のやぶ”と呼ばれて