間違いやミスは起き得る。成果を大きく扱い、疑問をやり過ごそうとするような対応こそが、研究や組織の信頼を損ねていくことになる。仮にやり過ごしたとしても、過去の問題はアーカイブとして残り、火種は残り続けることになる。1)
科学なき科学鑑定
袴田事件では警察による証拠のねつ造が問題となっていますが2)、医事裁判でも科学的証拠である鑑定の誤りは冤罪(えんざい)に直結します。
結果的に辛うじて不起訴にはなったものの、全くの専門外である胸部X線写真読影を行った法医学教授による、論理的に破綻した鑑定から自らを守るために、時間・労力の面でも経済的にも莫大な損害を被った心臓血管外科医の事例3)は非常に教訓的です。北陵クリニック事件で冤罪を生んだのも鑑定でした。大阪府警科学捜査研究所(科捜研)の土橋均技術吏員(現大阪医大医学部法医学)が、患者さんの体液からベクロニウムを検出したと称する、いわゆる「土橋鑑定」です4)5) 6)。
今や学術論議を遠く離れた泥仕合と化した感のあるSTAP細胞騒動でも、一通りの検証作業は行われました。一方、STAP細胞以上に極めて独創的な土橋鑑
定については、世界で誰も認めていない独自の質量分析方法は公開論文となっていませんし、再現性もありません。それどころか、実験に用いた試料の受け渡し
記録(鑑識資料受渡簿)もなければ、実験ノート一つ提出されていないのです6)。冤罪事件ではDNA鑑定の技術問題ばかりが取りざたされますが、質量分析のような基本的な測定でさえも満足に行えない検査品質管理体制の欠如と科捜研への無謬(むびゅう)性信仰が、今や御用学者でさえ誰一人として支持しようとしない土橋鑑定を生み出したのです。
トンデモ鑑定を生んだ品質管理体制の欠如
臨床では、どんな緊急の場合でも、その場で迅速に検体を十分量採取し、適切な条件で保存することができます。しかし科学捜査で扱う検体は、臨床よりもはる
かに過酷な条件下で長時間放置され、予想外の夾雑物(きょうざつぶつ)混入の可能性があるため、そもそもまともな検査ができるかどうかさえわかりません。
臨床同様に人間の命を左右する科学捜査に、一般の臨床検査よりもはるかに厳しい品質管理体制が求められるのは、以上のような理由によります。それゆえ、既
に先進諸国では、米国犯罪検査室長学会(ASCLD)、欧州司法科学施設ネットワーク(ENFSI)といった認証団体が、科学捜査の品質管理制度を運営し
ています。
ところが、日本には同様の仕組みはありません。それどころか、科捜研には一般臨床検査に必要な品質管理体制すらないのです。
臨床検査技師等に関する法律及び医療法施行規則は、検査を行う施設(衛生検査所)についても、細かく定めています。衛生検査所は、都道府県に登録した上
で、臨床検査業務の責任者として検査業務に関し相当の経験を有する臨床検査技師が受託業務を行う場所に置かれ、かつ、受託業務を指導監督するための医師を
選任しておかねばなりません。
しかし科捜研には、臨床検査技師の配置も医師の選任もありません。このような科学なき科学捜査の背景に
は、お決まりの無謬性信仰があります。警察・科捜研・検察では、「人は必ず間違える」という常識が欠如しているため、個々の人間の判断・行動に依存しない
サービス品質管理の概念自体が存在しないのです。
科捜研の利益相反問題と医療事故調
科捜研は、捜査、逮捕から、起訴、確定判決、さらには北陵クリニック事件のような再審まで、すべての過程に関わり、その検査結果で有罪が決まります。たとえ自白調書を取れなくても、フロッピーディスクのデータさえ整合すれば有罪が取れると検事が考える時代ですから7)、トンデモ鑑定を生み出す科捜研の力は、今後も益々強大になっていくでしょう。
ことあるごとに第三者・中立機関による客観的な検証が重んじられる時代にもかかわらず、科捜研を称賛する人々には利益相反に対する問題意識も欠如していま
す。各都道府県警の組織として、そのあらゆる活動が重大な利益相反問題を抱える科捜研の鑑定は、たとえそれが科学の名に値しない代物であっても、裁判では
「最も権威あるもの」として重んじられ、有罪の動かぬ証拠として採用されてしまいます。今は北陵クリニックに無関心な医師たちも、今国会でめでたく医療事
故調査委員会設置法案が成立した暁には、トンデモ鑑定問題は決して他人ごとでは済まなくなるのです。
「真実を見逃さない」スーパーヒロインが活躍する人気ドラマ8)の
舞台として選ばれたのは、理化学研究所ではなく、科捜研でした。最先端の研究体制よりも、どんなに科学が進歩しても決してぶれずに、袴田事件以来の伝統が
今日に至るまで息づいている点が評価されたというわけです。今は昔と違うという言い訳は通用しません。ねつ造を明確に指摘した静岡地裁(村山浩昭裁判長)
の決定に対する抗告は2)、過去の失敗から一切学ぶつもりはないという検察の断固たる決意表明に他ならないのですから。
【参考資料】
1)藤代裕之.もうだませない STAP細胞を追いつめたソーシャル調査.日本経済新聞電子版.2014年3月28日
2)この耐えがたき暗黒 袴田事件「捏造」にメスを.日本経済新聞電子版.2014年4月6日
3)西田博.納得いかない鑑定でぬれぎぬ「事故調」は絶対創設すべき.日経メディカル.2008年7月(文中にあるように、医賠責保険は刑事事件には適用されないので、専門家に意見書を書いてもらった費用や弁護料など計約500万円はすべて自費でした)
4)池田正行.医事裁判における“検査万能教”〜その2〜.日経メディカル.2013年7月11日
5)小関 眞、阿部泰雄、志田保夫。事例報告4【薬物質量分析】北陵クリニック事件 季刊刑事弁護 71:39-43
6)北陵クリニック事件再審請求書
7)郷原信郎. 検察崩壊 失われた正義.毎日新聞社
8)テレビ朝日 科捜研の女