前回のブログで触れた北陵クリニック事件1)に
おいて、「患者体液中に筋弛緩剤であるベクロニウムを検出した」との検察側の主張の根拠になったのは、大阪府警科学捜査研究所(以下、大阪科捜研)による
質量分析でした。質量分析法では、イオン化した標的分子を電場・磁場の中に導入、加速して検出します。質量が小さい分子ほど先に、大きい分子ほど遅れて検
出器に到達するので、この時間差を精密に測定することによって、分子を同定するのが質量分析法の原理です。
質量分析では、イオンは質量
(m)とイオンの帯びる電荷(z)の比(m/z)の値によって運動性が異なり、各分子は固有のm/z値を持っています。検出器がイオンを捉えた結果を表わ
す質量スペクトル上で、ベクロニウムは、m/z557イオン(1価)あるいはm/z279イオン(2価)として検出されます。この2つのピークは、いずれ
もベクロニウムのイオンが壊れることなくイオン化されていることを意味しており、このピークが測定されたら、ベクロニウムの存在証明となります。反対に、
これと違ったピークが測定されたら、ベクロニウムとは異なる化合物と考えるのが質量分析の根本原理です。
再現性無く、追試もできず、実験データも無い「鑑定」
ところが、大阪科捜研の鑑定結果は、標準品からも鑑定資料からもベクロニウムがm/z258イオンとして検出されたというものでした2)。ベクロニウムが筋弛緩剤として登場してから20年以上が経ちますが、今日に至るまで、ベクロニウムそのものがm/z258イオンとして検出されたという報告は世界中のどこを探してもありません。
さらに、鑑定書にはm/z258イオンが検出されたことを示す生の実験データが添付されていませんでした。つまり、「ベクロニウムの分子量が557.82
ではない」とする世界初の発見であったにもかかわらず、どのような条件で実験が行われたのかすらも今日まで明らかにされていないのです。
当然再鑑定が必要となりましたが、鑑定試料は大阪科捜研が全量消費したとされ、公判での再鑑定は不可能となりました。鑑定試料全量消費は犯罪捜査規範186条違反ですが、2004年3月、一審仙台地裁は「証拠能力や証明力に影響を及ぼさない」と判断しました。
二審で弁護側は、ベクロニウムがm/z557イオンあるいはm/z279イオンとして検出されることを示した海外の4つの論文と、「m/z258イオンの
検出では、ベクロニウムありとの証明にはならない」と明確に指摘した福岡大の影浦光義教授の実験鑑定意見書を提出し、「鑑定資料は不当にも大阪科捜研によ
る犯罪捜査規範違反により全量消費とされてしまったので、それに代わりベクロニウム標準品の質量分析を行い、m/z258イオンの再現性を確認する必要が
ある」と鑑定申請を行いました。ところが、06年3月、仙台高裁はこの申請を却下しました。その理由は、「警察鑑定で使用された質量分析装置・分析条件と
世界標準の方法は異なっているから、結果も異なる。m/z258イオンの検出はベクロニウムありとの証明になる」というものでした。
さ
すがにこれではまずいと思ったのでしょう。最高裁で検察官は、弁護人上告趣意書に対する答弁書の中で、「ベクロニウムの質量分析では、必ずしも
m/z557イオンあるいはm/z279イオンとして検出されるとは限らない。警察鑑定で検出されたm/z258イオンは、分子イオンが壊れて生成したフ
ラグメントイオンである」と、それまでとは異なる主張をしました。ところが、核となる従来の主張を変更したこの答弁書でも、警察鑑定書と同様、実験データ
の添付はありませんでした。にもかかわらず、答弁書提出後の08年2月、最高裁は警察鑑定の内容に全く言及することなく、上告を棄却しました。
科学とは相容れない無謬(むびゅう)性信仰
判決が確定してから4年、12年2月に弁護団は再審請求をしました。その際、詳細な実験条件を記した実験データとともに、ベクロニウムをどのように質量分析しても、m/z258イオンは検出されないことを立証した鑑定資料が新証拠として提出されています。
北陵クリニック事件の裁判で一貫して観察されるのは、「警察の捜査、検察の主張は常に全てが全面的に正しい。科捜研は超一流の研究組織であり、世界の研究
機関が出した結果とは全く関係なく、科捜研の実験結果は必ず正しい。だから検証の必要は無い。再現性確認も追試も実験データの提出も必要ない」という無邪
気な無謬性信仰です。このような信仰は科学とは相容れません。
科学と言っても決して大げさなものではありません。例えば、「血清カリウム値9.0mEq/L」というようなとんでもない検査結果が得られたら、溶血か点滴ライン近傍からの採血を疑うといったように、日常臨床でも我々は科学を使っています。
科学の世界は疑いの目に満ちています。研究者の仕事は、権威者の言葉や従来の仮説を疑い、それを打ち破ることです。自分の得た結果さえも疑い、追試を繰り
返し、再現性を確認します。そのような吟味を経て成果が論文となって発表された後も、他の研究者により、様々な角度から、追試を含めた検討が行われます。
警察・検察に対する無謬性信仰を支えるものは
13年5月、ジュネーブで開催された国連の拷問禁止委員会で、日本の刑事司法制度が「中世」と批判されました。それに対し、日本の上田秀明大使が、何ら有効な反論をできないまま、「笑うな!黙れ!」と叫ぶばかりで失笑を買った3)のをご存じの皆さんも多いでしょう。
その「中世」では、To err is
human(過ちは人の常)という金言に対して、警察・検察に対する無謬性信仰という例外規定が設けられています。にもかかわらず、上田氏の叫びが面白お
かしく取り上げられるだけで、「なぜ、日本の刑事司法制度が中世の状態に留まっているのか、それをどう改善するのか」という議論が全く興らないのは、なぜ
なのでしょうか?
何を隠そう私自身も、北陵クリニック事件に関わるまでは、ここまで完全な形で警察・検察に対する無謬性信仰が“保存”
されており、現代の裁判で大いに活用されているとは夢にも思っていませんでした。かつて医師に対する無謬性信仰を支えていたのが患者・一般市民であったの
と同様、警察・検察に対する無謬性信仰を支えているのは、上田氏とさして変わらない、我々自身の思考停止なのです。
<参考文献>
1)「筋弛緩剤中毒事件」は無罪だと断言できる根拠
2)小関 眞、阿部泰雄、志田保夫。事例報告4【薬物質量分析】北陵クリニック事件 季刊刑事弁護 71:39-43
3)日本の刑事司法は『中世』か 小池振一郎の弁護士日誌