私の視点

筋弛緩剤中毒は誤診。そもそも事件が存在していなかった 「筋弛緩剤中毒事件」は無罪だと断言できる根拠 池田正行(長崎大医歯薬学総合研究科教授)

2011/1/5

 2000年に仙台市のクリニック(2002年廃院)で筋弛緩剤ベクロニウム(商品名マスキュラックス)を点滴などに混入したとされた、いわゆる「筋弛緩剤中毒事件」。1件の殺人と4件の殺人未遂の罪に問われた准看護師の守大助氏は、2008年2月に無期懲役刑が確定し、現在千葉刑務所に収監されている。だが、当該診療録を検証した池田正行氏は「守氏はえん罪で、『筋弛緩剤中毒事件』など存在しない」と主張する。神経内科医の立場から、池田氏に主張をまとめてもらった。(編集部)


 私が守氏がベクロニウムを投与したとされた患者さんの診療録を検証したところ、筋弛緩剤中毒を思わせる所見はありませんでした。すなわち、「筋弛緩剤中毒事件」という事件はなかったのです。そもそも犯罪が存在せず、ベクロニウム中毒とは全く異なる病気を、すべてベクロニウム中毒と誤診したのが、このえん罪の本質です。医師が病気による急変を殺人行為と誤って認定してしまったために、あたかも事件のように見えただけなのです。守氏の逮捕から10年経った今日まで、このようなえん罪とそれを生んだ誤診がなぜ放置されているのかについてまとめてみたいと思います。

診療録に記録されていない「ベクロニウム中毒」
 2010 年2月、私は守氏の代理人(弁護人)からの依頼を受け、再審請求手続きのために、守氏がベクロニウムを投与したとされた5人の患者さんの診療録を詳細に検 証しました。しかし、どの診療録にも、筋弛緩剤中毒を疑う旨の医師の記載は全くありませんでした。さらに、私が第三者の立場から検証しても、筋弛緩剤中毒 を思わせる所見はありませんでした。

 診療録に記載されていた病名は、重症筋無力症やボツリヌス中毒といった筋弛緩剤中毒類似の疾患とも 全く関係がありません。それどころか、脱力・麻痺といった症状すら出現しない疾患ばかりでした(表)。にもかかわらずこの裁判では、血液・尿などの生体試 料からベクロニウムが検出されたという鑑定結果が出され、さらに担当医たちも裁判の際には診療録に記載のないベクロニウム中毒を支持しました。判決でも、 「発症当日のX線CTで異常がないので、脳症は否定できる」「発熱がないから脳症は否定できる」といった、医学常識を無視した判断によりえん罪が成立した のです。

  発症時年齢 性別 転帰 診療録の記載
A 89歳 女性 死亡 心筋梗塞
B 45歳 男性 回復 ミノサイクリンによるアナフィラキシー様反応
C 4歳 男性 回復 てんかん発作と痰詰まり
D 1歳 女性 回復 てんかん疑
E 11歳 女性 植物状態 脳症(原因不明)

 ベクロニウム中毒説を積極的に主張したのは、5名の患者の診療に全く関わっていなかった故橋本保彦氏(当時東北大麻酔科教授:検察側証人)でした。もち ろん、医療が関わる裁判で、第三者的立場にある医師の意見を求めることはあります。しかし、その場合でも、裁判に対するその医師の専門性や利害関係につい て、適切な吟味が行われた上で、鑑定結果が文書として提出されなければなりません。

  ところがこの裁判では、5例すべての担当医たちが所属する医局のある東北大の医師の発言ばかりが取り上げられただけではなく、医師による鑑定書が一切提出 されていません。橋本氏の証言、すなわち検察官、弁護人、裁判官との問答記録が残っているだけで、ベクロニウム中毒説に至った医師としての思考過程を示す 文書が存在しないのです。ベクロニウム中毒を否定し、何らかの原因による急性脳症であると診断したのは、東北大学と関係のない小川龍氏(当時日本医大麻酔 科教授:弁護側証人)のみでした。診断根拠となる文書が何一つないまま、診療録には全く記載されていない判断を示した担当医たちと、患者を全く診察してい ない医師の言葉によって、診療録では全く考察されていなかったベクロニウム中毒の診断が下され、今日まで維持されています。

 例えば症例 Eは、普通に学校生活を送っていた女児が、状態急変後、重篤な脳障害から、いわゆる植物状態となってしまった悲劇的な例です。発症当日午前中に校庭を10 周ほど走るという運動負荷があった後、午後に腹痛を訴え、嘔吐を繰り返しました。夕方に当該クリニックを受診後、30分ほどで複視、構音障害、けいれんが 急速に出現し、呼吸数低下から心停止に至りました。蘇生後、近隣病院に転送しましたが、遷延性植物状態となりました。症状経過は急性脳症に合致しており、 血中乳酸値が頻回に高値を示したこと、心エコーにて肥大型心筋症が示唆されたことなど、すべての症状経過・所見が、劇症の経過をたどったMELASミトコンドリア病:mitochondrial myopathy, encephalopathy, lactic acidosis, and stroke-like episodes)で矛盾なく説明できました。

  裁判で、麻酔科医である小川氏がベクロニウム中毒を全面的に否定し、急性脳症と診断したように、たとえミトコンドリア病の診療経験がなくても、まして神経 内科医や小児神経科医でなくても、中立的立場にある医師が診療録を検討すれば、ベクロニウム中毒が誤診であり、急性脳症であることは明白でした。診断の妥 当性を客観的に検証するために、上記のオンライン症例検討会で、誤診症例であることは伏せて中立的な立場から、診療分野に関係なく、多数の医師により客観 的に検討してもらうことにしました。1000人近くの医師に回答をもらった結果、病歴、身体所見、検査所見の要約を提示しただけで、実に2/3の医師が、 ミトコンドリア病と診断しました。さらに重要なことに、筋弛緩剤中毒を疑ったのはわずか0.2%でした。つまり99.8%の医師は筋弛緩剤中毒を否定して いたのです。

一般市民には容易に理解できない誤診の過程
  橋本氏は、一連の病歴・症状経過を合理的に説明できる疾患から診断を導き出すという、診断学の大原則を無視して、ベクロニウム中毒と主張しました。各症状 をばらばらにして、ベクロニウム中毒に関連する症状だけを取り上げ、関連しない症状を無視することによって診断を組み立てたのです。このような橋本氏の論 旨展開に対して、医師ならば誰でもおかしいと思うのではないでしょうか。

 しかし、筋弛緩剤中毒などありえないとする医師の思考過程の大 部分は、プロフェッショナルが経験的に持つ暗黙知です。ですから、一般市民はもちろん、裁判官やジャーナリストを含めた医師以外の人々も、ベクロニウム中 毒が誤診であることを簡単には理解できませんでした。実際、私も守氏の代理人に対して、橋本氏が誤診をした原因を分かりやすく説明するために、一般市民に も理解できるような意見書を改めて書く必要がありました。

 5例全例がベクロニウム中毒でないとすると、血液・尿などの生体試料からベクロニウムを検出したはずの鑑定結果はどう説明すべきか、との疑問もあるでしょう。ここでは紙幅の関係で、詳細に説明しませんが、大阪府警科学捜査研究所(以下科捜研) による鑑定結果は再現性がなく、客観的・科学的に検証されていないのです。世界標準ではなく、科捜研独自の測定法が用いられている上に、鑑定試料を既に全 量消費してしまっていることから、追試・再現ができません。ですから、肝心の鑑定が、科学の基本である第三者による検証が一切不可能な、「個人的な単発実 験の結果」に過ぎないのです。さらに、データの解釈の際にも、科捜研は未変化体と代謝物を取り違えていることが明らかになっています。

医療に関わる裁判の機能的閉鎖性
 実際に診療で全く考慮されていなかった誤った病名が裁判で認められ、診療録に記載されていた診察プロセスも本来の病名もすべて無視された背景には、医療に関わる裁判の機能的閉鎖性があります。

  誰でも傍聴できることや裁判員制度といった仕組みが、開かれた裁判を保証するわけではありません。専門知識を必要とするやりとりは、一般市民はもちろん、 裁判官にも理解できません。「犯罪」との認識が一旦広まれば、メディアも一般市民も犯人捜しゲームに夢中になるばかりで、えん罪ではないかとの冷静な声は かき消されてしまいます。既に10年前、一審が始まる前から、裁判の透明性を確保し、説明責任を果たそうとする動きは消失し、そのまま、今日に至るまで、 えん罪が放置されてきたのです。

 検察官や裁判官に対する無謬性信仰、情報の非対称性、専門性の壁、閉鎖性といった問題点が放置されてい る点で、司法界は50年以上前の医療界とそっくりです。医療訴訟ではしばしば理不尽な判決が下されることがあります。裁判官や検察官に医療のことは分から ないのです。ですから、刑事裁判で医師が彼らに間違った判断を示せば、えん罪は簡単に成立してしまいます。病気と診断されていた5例を、すべて殺人行為の 対象と誤って認定したのは、私たちと同じ医師です。すなわち、その過ちによる悲劇に終止符を打てるのも、やはり医師だけではないでしょうか。

 ですが、仮に私一人がえん罪だと主張しても、世間は認めてくれません。ましてや裁判所は再審の道を堅く閉ざしたままです。もっともっとたくさんの方のお力をお借りできればと思います。

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