2.輸血によるvCJD二次感染と潜伏感染
当初,最大50万人が犠牲になるとも言われた英国でのvCJDによる死亡数は,2000年の28人/年をピークに減りつづけ,2004年は9月3日現在で
4人,単純換算予測で6人/年まで減少した.一方で,英国全土から集めた虫垂あるいは扁桃切除標本12674例の検討から,
10才?30才の英国人に最大で3800名のvCJD潜伏感染者がいるとの推定がある(1).潜伏感染者のプリオン蛋白遺伝子変異多型によっては,潜伏期間延長による患者数の第二のピーク出現を懸念する向きもある(2).さらに,未発症のvCJD患者からの輸血による二次感染例が判明し(2,
3),英国は献血者の適格制限を強化した.
vCJDについて楽観的,悲観的両方のシナリオが混在して断定的なことが言えない状態は,何も今に始まったことではない.英国牛の安全性を宣伝するために,農業大臣が愛娘とハンバーガーをぱくつく写真が英紙The
Timesの一面トップを飾った90年3月から2年間の留学中,周囲の英国人と同様に牛肉を食べていた私は,潜伏感染を心配しながら,ずっとその渾沌の中を生きてきた.
輸血については,英国の措置で二次感染患者数の拡大は阻止できるし,日本でもすでに厳格な対応がなされている.潜伏感染者についても,仮に最悪のシナリオが現実となり,英国で患者数が4000人に達しても,英国在住歴のない日本人にvCJD患者が発生するリスクはゼロである.今後も英国での患者数の推移は見守るべきだが,いたずらに悲観的になる必要はなく,予防原則も,リスクとベネフィットのバランス判断の上に成り立って適用されねばならない(4).
3.科学と政治の折り合い
現在の日本国内の体制で,BSEスクリーニング検査の対象を30ヶ月にしたとしても,ヒトに対するリスクが増加することはない.にもかかわらず,いわゆる全頭検査体制を支持する動きが根強いのは,”安心”という言葉に象徴される消費者心理や,非関税障壁としての思惑といった科学的根拠以外の理由による.
そもそも,全頭検査は,科学的根拠というより,政治的な緊急避難策として始まった.このため,開始当初より,一般市民に対して,全頭検査の本当の意味を明らかにする動きはほとんどなかった.なぜなら,もしも真実を語れば,牛肉を恐怖の食べ物と捉える人々から,攻撃されるのが明らかだったからだ.科学者コミュニティの誰もが猫の首に鈴をつけるのを嫌った結果,全頭検査に対する説明責任と情報開示の先送りが繰り返された.その結果,全頭検査は科学的根拠不要の強固な既成事実となった.そこへ米国でのBSE発生によって、全頭検査の撤廃は,“米国の圧力に屈して”,“科学的に正しい全頭検査を撤廃した” という,二重の誤った印象を国民に植え付ける危険性が新たに発生した.説明責任と情報開示先送りの結果のツケが回ってきたことになる.
全頭検査を支えてきたのは,強大な経済力,国民の健康意識の高さ,行政インフラといった,世界でも類を見ないわが国の特性である.一方で,地球上では,常に8億人の人間が,日々の食べ物に事欠く状態に放置されている.また,1988年以降,英国からEU域外へ輸出された肉骨粉によって,多くの開発途上国がBSE発生のリスクを抱えたままでいる。もしも,全頭検査を世界標準の検査体制に戻すのならば,それで余った資金と労力を,世界の食糧事情や途上国のBSE問題への貢献に振り向けるのが,理にかなった税金投入策である.このような国際貢献も,科学者が一般市民に向けた情報開示と説明責任を果たすことによって初めて可能となる.
4.おわりに
現代日本では,100%安全を求めるゼロリスク探求症候群の勢いは留まるところを知らない.一方で,潜伏期間が20年を越えるようなことがあれば,vCJD患者数とリスクの最終的な答えは,私が生きている間には得られない.ゼロリスクを求められるべくもない我が身は,白黒どちらとも判断のつかない灰色の状態に,これまでも,そしてこれからも留め置かれることになる.しかし,vCJD潜伏感染者の可能性ゆえに,全くの専門外の学会でシンポジストの栄誉をいただいた私は,この灰色の状態に感謝し,今後もBSEについて学び続けこそすれ,BSEが猖獗を極めた時代に英国に滞在したことを恨むようなことは決してないだろう.
文献
1 Hilton DA, Ghani AC, Conyers L et al . J Pathol 203, 733-739. (2004).
2 Peden AH, Head MW, Ritchie DL et al . Lancet 364, 527-529. (2004).
3 Llewelyn CA, Hewitt PE, Knight RS et al . Lancet 363, 417-421. (2004).
4 Wilson K, Ricketts MN . Lancet 364, 477-9 (2004).