検査に依存する心理と誤判

医療訴訟判決でしばしば見かける「検査を怠った医者が悪い」という文句はほとんどの場合、言いがかりに過ぎません。

「CTを撮っていれば、脳梗塞を見逃さなかった」、「CTを撮っていれば、くも膜下出血を見逃さなかった」、「MRIを撮っていれば、脳幹梗塞を見逃さなかった」 すべて言いがかりです。

「世の中のあらゆる検査は感度も特異度も100%である」という誤った信仰が、現代でも誤判を次々と生み出しています。検査は万能ではありません。感度・特異度の問題を法学部で教えているとは聞いたことがありませんので、今でも、「レントゲン写真を撮らなかったから肺癌を見逃した」というトンデモ判決が発生する可能性はゼロではないのです。

患者の命と自分の職業生命の両方がかかっているのです。検査ができるものなら、何もずぶの素人の裁判官に言われなくてもとっくの昔にやっています。裁判で求められるのは、「検査を怠った医者が悪い」という思考停止ではなく、そもそも検査を行う必要があったのか?という問い掛けが大前提として絶対に必要です。次に、もし検査が必要だと結論できたのならば、なぜ検査が行われなかったのか?という考察が必要です。その順序を踏めば、「検査を怠った医者が悪い」という言いがかりは決して生まれません。

検査の感度を考えたら、検査は必要ないと思った。
検査の特異度を考えたら、検査をして疑陽性が出た場合の患者の不利益を考えたら、検査すべきではないと考えた。
検査が必要かもしれないと思っても、その侵襲の大きさと陽性的中率を考えたら、検査すべきではないと考えた。
検査が必要だとわかっていても、技師や機械の準備状況で検査ができなかった。

検査をする理由は一つだけでも、検査をしない理由は山ほどあるのです。誤判は、一人の医者を不幸のどん底に突き落とすばかりではありません。患者のためを思って検査をしない医者を、患者の不利益を顧みずやたらと検査をしまくる医者に変えてしまいます。

このような検査信仰の背景には人間不信があります。問診や診察といった人間同士のコミュニケーションから生まれる判断材料よりも、機械が生み出す数字や画像の方を信じてしまうのです。このような機械信仰・検査信仰は、あくまで信仰ですから、その信仰に科学的根拠はありません。臨床医学を学ぶ成果の一つに、誤った機械信仰・検査信仰を是正することがあります。

医学生でも、素人同然の検査信仰を持っている人がいます。その学生も医師となれば、患者さんについて、問診、診察を繰り返し、一つ一つの検査について要不要を判断するようになります。病棟、外来初診、再診、夜中の救急外来、アルバイト先の当直、さまざまな場面で、いろいろな病気を持った患者さん一人一人について、検査の必要性が異なることを学んでいきます。その繰り返しで、問診・診察の重要性を知り、検査信仰を改めていきます。これは現場に出て何年、何十年かけて行われる作業です。

この過程を知らなければ、「世の中のあらゆる検査は感度も特異度も100%である」という馬鹿げた落とし穴に簡単に嵌っていることに気づけません。

北陵クリニック事件は、刑事裁判ではありますが、医療訴訟と全く同様に、あるいは医療訴訟以上に臨床判断が問題となった事例です。にもかかわらず、問診・診察を記載した診療録と診断を一切無視して、生体試料からベクロニウムを検出したと主張する鑑定に全面的に依存した判決文が作成されました。そこには、鑑定を科学的に検証した形跡は一切ありません。特異度の検討やバリデーションが一切行われていないことには一切言及がありません。弁護側の疑問に対して、全て、「大阪府警科捜研の担当者の言うことはすべて信用できる」と言っているだけです。

北陵クリニック事件の裁判は、診療録を一切無視して、検査に全面的に依存した裁判という点で、医療訴訟よりもはるかに高い誤判のリスクを内在した裁判でした。しかも、判決の拠り所となった検査は、一般的な臨床検査とは全く異なり、バリデーションや特異度の検証が行われていませんでした。しかも、その検査を行っていたのは、日本でも大阪府警科捜研だけでしたから、精度管理や検体の取り扱いも一般化されていませんでしたから、他の研究者による追試や客観的な検証も行われていなかったのです。さらに決定的なのは、実験記録が全く残っていなかったことです。

下記は、およそ研究というものを少しでも行ったことのある人間には到底信じ難い判決文です。鑑定では、実験ノートを含めて実験記録が一切残っていなくても構わないのです。ただ、法廷で「我は神である。決して間違えはしない。ましてや不正などするはずがない。我を信じない者には冤罪という天罰が下るであろう」と宣言するだけでいいのです。これまで捏造で追求された数多の研究者達は、大阪府警科捜研に就職すればよかったと地団駄踏んでいることでしょう。

判決文P72 エ 鑑定経過の記録化について
 弁護人は、本件各鑑定(注1)において、鑑定の経過を記録した実験ノートが作成されていない上(注2)、LC/MS/MSに注入した資料の自動記録化もされず、ブランクテストの結果を示す資料も残されていないため、鑑定の正確性や各分析による資料の消費量等を事後的に検証する余地が失われており、鑑定の信用性に疑問がある旨主張する。
 しかし、本件各鑑定の経過については、土橋吏員が、弁護人側の要望に応じて当公判廷に持参した鑑定当時のメモ及びデータの記載(注3)も踏まえた上で、相当具体的かつ詳細に、明確で一貫した証言をしており、その信用性を疑わせる事情は認められないのであるから、上記のような記録化がされていないことをもって、本件各鑑定の信用性が失われるものとはいえない。

注1:一部の鑑定ではなくて全ての鑑定ということです
注2:紛失とかいう言い訳でさえありません
注3:これは実験記録とは全く異なり、公式の業務記録ではない、あくまで個人的なメモと称したもので証拠として提出できなかったものです。客観性を担保する手段も真偽の程を吟味する手段もない代物です。
 

幻の事件と誤診・誤判の背景にある二つの信仰

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