日本語教育と暗黙知

日本人にとって,日本語教育は,暗黙知の典型でありましょう.読む,書く,話すの中でも,特に書く技術が,一番暗黙知になりやすい.私は,小学校入学から大学卒業まで,いや,生まれてから,一度も日本語の文章を書く訓練を受けたことがありません.大学卒業後,しばらくして,症例報告を書く段になって,自分が日本語の文章を書けないことに気づいて愕然とし,それから少しずつ勉強してきたつもりですが,日本語の良い教科書が見つからず,困りました.恐らく,一生,日本語を書く訓練を受けることはないでしょう.何しろ教師がいないのです.畢竟,独学となりましたが,一番役に立ったのは,何と,英語の論文の書き方の本でした.英語の論文を書く時にさんざん苦心したことが,日本語の文章を書く時にも非常に役に立ったのです.このことは,どんな言語であろうと,明快な文章を書くこつは共通していることを示しています.日本語の文章がうまく書けないのは,決して日本語があいまいとか非論理的というのではなく,明快に書くこつを教える指導者や,教育の仕組みがないからです.
次に示すのは,医者が書いたと思われる文章です.みなさんは,この文章を読んで,どういう気持ちになりますか?いらいらしませんか?日本人だから,漢字とひらがなで文字が並んでいれば,あまり不自由は感じないのかもしれませんが,次のような文章を読むと,誰の心の中にもいらいらとストレスが顕在化しませんか?(顕在化しない人には大いに問題があります).となれば,やはり日本語を書く教育は必要です.

”高脂血症がもたらす健康障害としては、例えば著明な高トリグリセリド血症による急性膵炎や、一部の高脂血症に伴う黄色腫症のように稀なものもあるが、一般には高脂血症が癌と並んでわが国の死因の主な疾患である動脈硬化性疾患の最も大きな危険因子として位置づけられていることから、抗高脂血症薬投与の目的は動脈硬化の発症および進展予防に焦点が絞られてきた。”

この不愉快な文章は,次のように簡単にできます.失われるものはまったくありません.余計なものがなくなって,必要なメッセージがより明確になっています..

”わが国の三大死因のうち,二つまでが動脈硬化性疾患である.高脂血症は動脈硬化性疾患の最も大きな危険因子であることから、これまで,抗高脂血症薬による治療の主な目的は,動脈硬化の発症およびその進展予防だった。”

病気を考えるのと同じように,難解で冗長な文章が生まれる背景,その予防法,治療の標的,治療の選択肢,治療のアウトカムの評価方法まで論じていくと,上記のケース一つとっても30分ぐらいの授業になってしまうかな.

このような文章改訂の作業は,一見,暗黙知のように見えますが,それを形式知化するプロセスそのものが,より明快な文章を書く訓練,教育になります.英語の論文の添削も,こういう作業です.この改訂のプロセスを暗黙知のまま放置して,それでよしとして放置してきたのが,日本の国語教育なのかもしれません.

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