私にとって,手紙を書く最大の目的は,自分の頭の中を整理することだ.自分が何を言いたいのか,何を目的としているのか,なぜそう考えるの かを,文章を推敲することによって明らかにして,相手に伝える作業である.自分の考えていることを,文字によって他人に理解してもらう.なん と大胆な,壮大な作業 を我々は繰り返すのだろうか.その作業の一部をここに記す.内容は決して一様ではない.あくまで,私自身の頭の整理のために記録しておくものであって,あ なたにとって何かの利益を保証するものではない.
死にゆく者としての当事者意識 私ができること 「きょ うかん」と「きょりかん」 決断力は思考停止力の代名詞 昔話の機会 「こ のわからず屋!」と思ったら なぜ論文を書くのか?私の場合 充実感依存症(怠 惰恐怖症) ある奇特な消化 器 内科医から わからないを恐れない 運が悪かったと忘 れ、運が良かったと喜ぶ 進路は 自分で決めるものではない イエローカード 再び未来の未知性につ いて 家庭の平 和 が世界の平和 卒後9年の精神科医 診察なんかいらな い!? 臨床 へ の興味 可用性ヒューリ スティック 老 い先が ない時に 存 在するとは別の仕方で 後悔しないために迷う 教育者としての自覚を 促す 5つの原則 べてるの家を思い出 す 五つの答え 研修 3ヶ月を経過して 若い人の中に飛び込む おばさんへ 科学・非科学 そして質的研究の冒険 英語 が上達しないことの意義 遅れることの 良さ 中部だったら病 構 造主義,知財,新薬 電子カルテは誰のため? 卒後教育の対 象 公共事業としての学問体系 肩 書き 職場は道具に過ぎ ない peer reviewの使い方 ちょっ と臍を曲げればいいだけ センタコート Early Media Exposure 離職防止の観点 から 身近な問題 カタカナ言葉 雑誌”医学のあゆみ” 何もやっていない商売 逃げる,かわす,ごまかす・・ 誰も信用 する な ぼんやりしている時間 い くつかのtips 服を褒める 子規を読む 情報収集 ベトナム帰還兵の栄光 児童精神科医へ 二種類の病気 マイケル・チャンみた いに 30年ぶりに 医学部低学 年からキャリアパスの議論を 日 本古代史好き? ,不惑を超えて あっ という間に過ぎること の幸せ 面接・問診が一番難しい 解脱ではなく,離脱 薬学生の集い 記銘力障害 大 学祭で歌手を呼ぶ感覚 Media Advocacy グー テンベルクはルターの前 アジア太 平洋薬学生会議(APPS)に参加して , 江原 朗 先生 ,宮 崎 仁先生 ,戦場の方へ ,さる電通の方へ宛てた手紙
死にゆく者としての当事者意識
はじめまして。
先生にご相談したいことがございます。
それは今の私の「不安、強迫、憂鬱がバランスよくMIXされた状態」についてです。
現在医師7年目ですが、5年目の頃に初めて産まれたわが子が、生後20日目に手術したけれども失った事が原因ではないかと自分では 思っています。
わが子を亡くした事は私の許容量の200倍をはるかに超えた様な出来事でした。今まで特に挫折を知ら ず、順風満帆に生きてきた私には耐え難い出来事でした。
子供を亡くしてから絶望の日々が続き、今思えば不安障害だったのか、扁桃炎の患者を 見ても無顆粒球症候群では?手術しても術後出血が異常に気になるとかの慢性不安の状態で、8か月目にいきなり不安発作を起こし、同じ大学の精神科の先生 に相談したところ、「かなりのストレスやな。誰でもそうなる。普通や!」と言われ、抗不安薬を処方していただき、なんとかかんとか仕 事をやってきました。
その後、今年に入って待望の赤ちゃんが産まれ、これですべての事が解決するかなと思 いきや、乳幼児突然死症候群になるではないか?本当に元気に育ってくれるのか?等の思いが出てきました。
現在仕事は外来、病棟、手術、当直ともこなせています。(精神科の先生からはもう薬 は飲まなくていいよと言われました)
しかし、不安、強迫、憂鬱がバランスよくMIXされた状態+functinal symptoms(軽いのどの圧迫感、軽い動悸)があり、仕事はできるけど、 いつまでこのような半病人のような状態が続くのか不安です。精神科の先生は仕事ができるんやったら、薬は飲まんでいいと言うし、ま た、本来自分がガードしなければいけない今をお留守にして、過去や未来ばかり心配してしまう自分がなさけないと思っております。
お忙しい中申し訳ありませんが、先生のお力でこのようなどうしようもない私になにか 脱出するチャンスを頂けたら幸いです。
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私に手紙を書いても私からは答えは出ません。答えは大森先生自身の中にしかありませ ん。その答えの端緒をもう大森先生は掴んでいます。
過 去に起こった出来事について後悔することと、未来に起こるか もしれない出来事について心配することは両方とも無駄です。それはもちろん、過去に起こった出 来事について後悔しても過去を変えることはできないし、未来 に起こるかもしれない出来事について心配しても、その出来事が起こる可能性を低くはできないか らです。後悔と心配はどちらも全て無駄です。
過去の後悔と未来の心配はどちらも暇人にふさわしい作業です。大森先生はそんなに暇な のでしょうか?暇なわけないですよね。馬鹿馬鹿しいゲームに依存してひどく忙しくしているのですから。
誰も神ではない。だから誰も過去も未来もコントロールできません。 松井秀喜は、自分のコントロールできることに集中します。彼 は、自分は神ではないと知っているからです。彼にはスタンドのヤジも、新聞記者の各記事もコント ロールできない。だから彼は自分のバットコントロールだけに 集中したのです。彼ほどの天才でさえ、自分は神ではないことを自覚し、自分のコントロールできることに集中するのです。まして況んや 我々凡人をや。
私に手紙を書いても私からは答えは出ません。答えは大森先生 自身の中にしかありません。その答えの端緒をもう大森先生は掴んでいます。手紙を書いたという行動自体が「もうこんな馬鹿馬鹿しい ゲームは止めにしたい」という気持ちの表れです。
ゲーム依存症治癒の唯一の道は、「馬鹿馬鹿しいと思う自分、飽きる自分に出会うこと」 です。ゲームを我慢したり、ゲームを取り上げたりしても、ゲーム依存症は決して治りません。
お子さんが明日死ぬ確率と大森先生自身が明日死ぬ確率はどちらが高いでしょうか?思い 悩むのだったら、遙かに確率が高い方、つまり自分が明日死ぬことの方に決まってます。自分が明日死ぬことを差し置いて自分の子供が明 日死ぬかもしれないと思い悩む。医師免許まで持っているいい大人が、そんな馬鹿馬鹿しいゲームは止めにしたいと思うのは当然です。
ですから、この馬鹿馬鹿しいゲーム依存症からの脱却に至る第一段階は、自分が明日死ぬ かも知れないと思い悩むことです。それをしばらく続けると(いつまで続けるかは、これも大森先生次第です)、また、こんな馬鹿馬鹿し いゲームは止めにしたいと思うようになります。大森先生の場合、有利な点があります。医師免許を持っていれば、神ならぬ人間は、生老 病死は決してコントロールできない事を理解しやすいからです。
大森先生は神でも予言者でもありません。これまで起こったことを起こらなかったことに することはできませんし、これからどんなことが起こるかも予見できません。自分は神ではないことを自覚できれば、自分が明日死ぬかも 知れないと思い悩む馬鹿馬鹿しいゲームに飽きるのにそんなに時間はかからないでしょう。
第二段階は、自分は、明日は生きているかもしれないが、明後日は死ぬかもしれない。明 後日は生きているかもしれないが、1年後には死んでいるかもしれないと自覚することです。こうな ると、思い悩む段階から抜け出たことになります。ここまで来れば、後は簡単です。
第三段階は、自分はいつ死ぬかわからない→死ぬ時期はわからないけれども、必ず死ぬ。という当たり前の 認識に戻ることです。こうして、普通の人に戻った後、どうするかは、これも大森先生次第です。
好奇心が強い人のための第四段階も、もちろんあります。それも難しいことではありませ ん。「自分は必ず死ぬ」という、「死に行く者としての当事者意識」を取り戻すだけです。
癌にならなくたって、筋萎縮性側索硬化症にならなくたって、自分は必ず死ぬのですか ら、死にゆく者としての当事者意識を取り戻すことは誰にでもできます。死にゆく者としての当事者意識は、下着と同じです。決して 見せびらかす必要はありませんが、常に身につけておくべき装いです。なのに、その装いをどこかに置いてきぼり にして、馬鹿馬鹿しいゲームの数々に依存して人生を浪費している人の何と多いことか。癌と言われて初めて、慌てて家中引っかき回し て、死に行く者としての当事者意識を取り戻すなんて、みっともないったらありゃしない。
死に行く者としての当事者意識を取り戻せば、今日一日、今、この一瞬のありがたさ、大 切さが見えてきます。家族の笑顔の有り難さが見えてきます。そこ以外に大森先生が幸せと感じられる場所はありません。
親鸞・兼好・Steve Jobs -死にゆく者としての当事者意識を取り戻す-
http://square.umin.ac.jp/massie-tmd/shinran&MT.html
(文中は全て仮名)
「きょうかん」と「きょりかん」
確かに私は、この商売では(同情ではなく)共感が必要だと言いました。しかし、君は共感だけでこの商売を続けていけると考えるほどお目出度く はないでしょう。死にたくない、惚けたくない、癌になりたくない、そんな無理難題をぶつけてくる人間を相手にしなければならない商売に、君は 就こうとしてい ます。
共感と距離感は常に表裏一体、対を成す一組のツールとして使わないと、必ず勤続疲労で心も体もぼろぼろになり、ついには店じ まいに追い込まれます。
親離れ子離れ。夫離れ妻離れ。親子・夫婦でさえ距離感が必要なのです。それも年を経るに従って、お互いの心が平穏であるために、状況により適 切な距離を設定する必要があります。まして況んや、病を負っている赤の他人相手の商売です。
患者は赤の他人で、しかも病人ですから、余計に距離感の調整には気を遣います。自分は不死身ではないと思うのならば、接近戦一辺倒という試 合形式は、おとぎ話にとどめておくのが身のためです。参考→い い人
私は医学部に再入学する前に化学企業で開発業務をしていました。立場上、複数のメンバーに指示を出して作業をしてもらうことが多く、時間の 制約もありましたので、あれこれ迷うのではなく次々に決断しなければ仕事が進まない、という思いがあったからです。
常に、迷いをマイナスのイメージ、決断をプラスのイメージと、捉えていたからだと思います。先生のお話を伺い、あ、そういう見方もあるのだな、と思い気分が楽になりました。また、先生にお目にかかることを楽しみにしています。HPもチェックします。(先日のOSCIAのことが更 新されていました) 長くなりましたが御礼まで
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○○さん お手紙ありがとうございました。化学企業で開発業務をなさっていたということは、科学の素養をお持ちのことでしょう。でしたら、以 下の説明を御理解いただけると思います。
私がお示ししたのは、 対立(作業)仮説と帰無仮説 をそれぞれ検証することです。先日の場合には、「決断力は思考停止力=考えるのを止めないと決断できない」 vs 「決断力は思考停止とは無縁である」という二つの仮説をそれぞれ検証しただけです。御存知のように、これは科学の世界では極めて普遍的な手法であ り、決して特別な方法ではありません。
ただ、現実世界は統計のようにはっきり白黒でけりをつけられないグレースケール・まだら模様に満ちているので、今、「自分」の置かれている この状況で(ここが当事者意識を必要とするところです)、対立(作業)仮説と帰無仮説のどちらがどれだけ、「自分」にとって(ここも当事者意 識を必要とするところです)使い勝手がいいか?=「自分」の幸せ(ここも当事者意識に基づいたエンドポイントを必要とするところです)につな がるのか?を考え続けることが、「自分」にとって(ここも当事者意識を必要とするところです)面白いから、結果的に思考停止が回避できている のだと思います。
下記の対談も参考にしてください。
モ ヤモヤ感は問題意識の証
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先日は私が昔話をする機会でした。年寄りが昔話をする機会がどんどん減っているのは、昔話を聴いてくれる子どもが減っている、子どもが忙し くて年寄りの話を聴いている暇がない、昔話のコンテンツはいろいろなメディアで触れることができる等々、様々な理由があるでしょうが、原因の 考察はさておき、昔話の話し手と聴き手の双方の機会損失はどんなアウトカムを生むのでしょうか?
12/16のセッションは寄席、昨日の勉強会は小さなホールの独演会、症例検討というプラットホームを使った、私自身の物語を語る機会でし た。昨日は、最初のスライド「66歳 主婦 急に歩けなくなった」1枚に1時間かけてしまいましたね。予診表1枚の背景に、それだけの思考が 過程が存在するからですが、実はおじさん・おばさん達は語りたいのです。ただ、語りたいという欲望が、ツィッターとか、フェイスブックとかブ ログとかの代用エンドポイントですり替えられて、埋もれてしまっている。やっぱり芸を意識しないと、ライブで語りたいという欲望は掘り起こせ ない。寄席に来てくれるお客さんの大切さがわからない。
一方で聴き手はどうでしょう。「所詮は職業訓練校だから、言語化されているものだけを効率よく学ぼう」と割り切るのは易しいことです。実 際、私は学生時代、そう割り切っていましたから。でもそう割り切ってしまうと、ツィッターでも、フェイスブックでも、ブログでも、英文の症例 報告論文でも、絶対に得られない、昔話を聴く機会を喪失してしまいます。私にとって幸運だったのは、学生時代、ネットもメールもなかったこと です。だから、ライブに対する渇きの感覚があった。
昔話ライブの機会喪失は、臨床能力の低下に直結します。なぜなら、臨床とは、患者との非言語性を含めた直接対話によって、患者と共同して病 の物語を紡ぐ作業だからです。
「学生のうちからやっておくべきこと」って質問、私は得意ではありません。それは私自身が、やりたいことがたくさんあるのに「これをやれ」 と他者(特に年上の男性)から言われるのが大嫌いだからです。でも、おじさん・おばさん達をうまくおだてて昔話をさせることは、学生ならでは の特権でしょう。
○○さん,御手紙ありがとう.基本はいつも同じです.
1.迷う自分・悩む自分に安心する→思考停止に陥っていないということだから
2.正解依存症に注意:自分の外には答えはありません.自分の置かれた状況は自分しか知りません。そこから生じた問題の答えは,当然自分の 頭の中にしか答えはありません.前回の抗マラリア薬の相談も、 私は何も回答を提示していません。
3.「時間がかかる」と思ったら「時間をかける」と読み替える
4.助けてもらう・教えてもらう:年齢が下・職域も異なる人も使う。
5.改革依存症にも注意:現状を対照として,改革という介入の比較試験を考えようとしても,現状のどんな点に対して,どのような用量設定 で,どのくらいの観察期間で一体どんな評価指標で評価しようとするのか?→まともなプロトコールは立てられない→バラク・オバマはバカボンの パパに決して勝てない.
6.自分が変わらずに相手を変えることは決してできない。
以上を踏まえて,コメント,疑問
●「こんなお粗末な相談で申し訳ありません」→ネット環境も不安定な地球の裏側からわざわざ手紙を書いてくるのが本当にお粗末な相談なので しょうか?だとしたら,どうでもいいこと,優先順位の低いことではないのですか?他に優先順位の高いことがあるのではありませんか?一方,も し,大切な相談だったら,なぜ大切なのでしょうか?そこからいろいろなものが学べると感じられるからではないでしょうか?
●こんな陳腐な土地の、3人の診療室長をしているだけで、孤独感が募ります。→なぜ,そこが陳腐な土地なのですか?なぜ,誰もが経験できな いような素晴らしい経験ができていると思えないのでしょうか?なぜ、誰もが学べないことが、ここで学べると考えられないのでしょうか?
●医療スタッフの方は、ここではお薬は日本のようにないのだから、ちょっとくらい体調を崩しただけで受診しないでくれ。という感じで、患者 に対しては基本的に叱責する態度です。→なぜこのような態度を取るのか,いきなり質問する前に,彼らのこれまでの経験,特に辛かったこと,失 敗談など,ネガティブな話をじっくり聴いてあげたことはありますか?ああ,この上司は,誰もが孤独なこの土地で,自分のことをわかろうとして くれている.部下にそう思ってもらうのが,上司たる者の最も重要な仕事ではないのでしょうか?あなたより職歴が長く、年齢も年上の部下なら ば,なおさらでしょ う.
●「この人は私を理解しようとしてくれている」と思えて初めて、その相手を理解しようと思えるのです。ですから、自分を理解してもらいたけ れば、まず、相手を理解する、それも相手が一番わかってもらいたいと思っていることを理解するのが最も効率的なコミュニケーション戦略です。
●上にたつ者は孤独だといいますが→自分で自分を孤独にしていませんか?自分は誰にもわかってもらえないと勝手に決めつけていませんか?
●下記の二つの主張は決して対立しません.もう少し正確に言うと、「常に」、「全ての点で」、「誰がどう考えても」相反する主張ではありま せん。むしろ使い分けのできる複数の選択肢を示しているのです。
1)ここではお薬は日本のようにないのだから、ちょっとくらい体調を崩しただけで受診しないでくれ
2)ここではお薬は日本のようにないのだから、ちょっと体調崩しただけでも、心配だろうから、まずは受診して私に相談して下さい、
添付スライド も参考にしてください。
(3年目の後期研修医からBMJ Case Reportsにアクセプトされたというメールを受けて)
いくつ論文を書いても、アクセプトの知らせを受け取った時の喜びはひとしおです。それが臨床の論文ならば、ああ、臨床を続けていてよかった と思うのです。
ひ どく医者に不向きの私 が30年も医者を続けられた最大の理由がそれです。自分が医者に向いていると思えれば論文なんか書かなくても幸せでいられたわけですが、私は どうしても自分が医者に向いているとは思えなかったので、何が嬉しくて医者をやっているのか?という問いから逃げずに、医者には向いていない と考える自分に対して、医者には向いていないと思いながら30年も医者を続けてきた意義を、自分自身に突きつけてやる必要があったのです。
> 今は、何が窮屈なのか、この閉塞感はどこから来るのか、一時的なのか、環境を変えないと続くのか、もう少しやれば光が見えるのか、自分では分析しきれてい ません。客観的には、何ら不足はないのですが、それゆえに、この奇妙な空虚感の原因に悩んでいます。
充実感依存症(怠惰恐怖症とも言う)の可能性はどうだろうか?何ら不足はないというが、仕事をさぼることの喜びを随分と長い間味わっていな いのではないだろうか?台風による臨時休校やインフルエンザによる学級閉鎖がどんなに嬉しかったか、忘れていないだろうか?
>台風18号の日は、池袋のタクシーの長蛇の列に1時間半並びました。タクシーの列に1時間半並んだのは、人生初めてです。
こういう時間に意義を見出だす余裕のある自分が見えていただろうか?どうせ誰も自分をモニタリングしちゃいないんだから、1時間お茶を飲ん でから並べば、列が短くなっていて、結局は同じかもしれないと思わなかったのだろうか?
あなたはカンボジアに行っても、目の前の光景と自分のキャリアを結びつけてしまう人だから、そこらへんがちょっと心配になってね。
暇であること、何もしていないこと、仕事をサボることに後ろめたさを感じないようにするのは、確かに年を取ってからでないと難しいことなの だが、少しずつそういう時間を増やしていく癖をつけるのに早すぎることは無いと思う。
特に、診療は「思考停止の連続」だから、臨床医たるもの、常に手を抜くことを心がけて、考える時間を確保しないと、空白の時間のありがたさ がわからなくなってしまうよ。どんな仕事でも隙間、マージンを残しておくことは大切。ただし、臨床を辞める辞めないのデジタルではないよ。連 続性のグレースケールだ。辞めなくてもいいんだよ。手を抜けばいい。
プライマリケアにこだわり、プライマリケア領域で訴えの多い神経内科を学びたいが、諸般の状況で良質な神経内科の教育を受ける機会がないと 悩む消化器内科医から
> しかし、プライマリケアを行うにあたり、やはり神経内科学を少しでも修めたいと思っており、葛藤に苦しんでおります。
苦しむ必要はありません。医師として、これから先は長いのです。さらに、消化器内科と神経内科は決して相互に排他的ではありません。
消化器内科にも神経内科の問題をもった患者さんはたくさんやってきます。そこで、神経内科の専門教育を受けていなければ、神経内科の問題を もった患者さんを幸せにできないのか?そうではありませんよね。
専門教育を受けていないという点では、神経内科ばかりではなく、循環器も、呼吸器も、代謝内分泌も、腫瘍内科も、整形外科も、婦人科も同じ ことです。でも、○○先生のところには、循環器、呼吸器、代謝内分泌、腫瘍内科、整形外科、婦人科・・・様々な問題を抱えた患者さんがやって くる。それでも先生は、「僕は消化器内科しか診ないから」と拒否したりしない。つまり患者さんから学ぶ姿勢があるのです。
今、ここにいる自分と、今 ここにいる患者さん。それが全てです。患者さんは、「全ての診療科に精通している医師でないと診てもらいたくな い」とは決して言いません。○○先生のところにやってきてくれる患者さんは、○○先生が神様ではないことを知っています。だから、○○先生を 教育しようとしてくれる。
そういう患者さんは、神経内科に限らず、循環器も、呼吸器も、代謝内分泌も、腫瘍内科も、整形外科も、婦人科も、何でも教えてくれます。だ から、慌てて神経内科に行かなくても、大丈夫です。
ご連絡ありがとうございました。妊婦へのタミフル投与の是非(リスクベネフィットのバランス判断)ですが、わかりませんというのが一番率直 なところです。
タミフルの審査報告書すら読んだことがないのに,何かわかった風なことを言う人がたくさんいます.なぜ審査報告書を読んでいないことがわか るかというと,臨床試験によって検証されたタミフルの有効性というのは,非常に情けないものだからです.ましてや,相手は,まともな臨床試験 データのない新型インフルエンザです.
すでに治験が終わって承認、市販されている薬のデータは非常に雑音が多くて、解析しても,労多くして得られるデータは本当に情けないもので しかない。なのに,そこから無理矢理解釈をひねり出す.あれほど副作用が怖いから使うなと多くの人が喚いていたことをすっかり忘れて、今度は 予防投与までしろだとさ.記銘力障害と思考停止の合併がないと,こうも言うことはくるくる変えられないはずです.
タミフルの有効性にせよ、副作用にせよ、タミフルを飲んでいる人と飲んでいない人をランダム化した試験で比較しなければ本当のところは誰も わからない。でも、そんなことはできない。だから、せいぜい非常にエビデンスレベルの低い観察研究しかできない。それにしたって、日本ではイ ンフルエンザでタミフルを飲んでいない集団を見つけ出すことすらできない。そんな状態でどんな調査、研究をするというのでしょう。
混乱している時ほど,じっくりデータを取りにくい.だから,どこかに正解があるはずと追い求めても無駄.なのに,どこかの誰かが素晴らしい 正解を持っているはずだと思ってしまう.
偉いお医者さんたちやお役人さん達は自分が無知であることを知らないばかりでなく、自分達が正解を持っていると思い込んでいる。あるい は,WHOとか,CDCとか,山のあなたの空遠くに住む神様みたいな人達(と彼らは信じている)の御託宣をありがたく受け取って安心す る.WHOだって,CDCだって,素晴らしいデータを持っているわけではないのに.
とにかく,御託宣が欲しいのさ.科学じゃなくてね.そしてそこで安心してしまう.肩書き、年齢、権威・権力は、そういうったものは全て、成 長への意欲と学ぶ楽しみを奪い去ってしまう。
「わかりません。教えてください。助けてください」 成長を持続するための魔法の言葉を忘れてしまった年寄りの言うことを全部無視すること だ.年寄りの言うことに構うのは時間の無駄!!
(亀井道場 で幹事役をやってくれた学生さんとのやりとり)
○○さん,メールありがとう.緊張していたの?そうは見えなかったけど.
> 私は最初の神経内科の実習が池田先生のセッションで、とても運が良かったと思います。
> 先生が普段教えることはない、とおっしゃっていた、陰性徴候の説明を受けることが出来て、診察を■■さんにお願いした私はとても運が良かったと思いまし た。
自分は「運がいい」と思えることって大切.○○さんの強みだよ.運がいいと思える自分を大切にしてね.こうやって僕とメールのやりとりがで きることも運がいいと思うでしょ.それも幹事になったからだよ.だから,幹事になったこと自体が運がいいのさ.
幹事になった時は,とてもじゃないけど,運がいいとは思えなかったのに,こうして終わってみると,運がいいと思えるんだよ.人間の予測能力 なんて,全然当てにならないってことがわかったよね.
将来あれこれ心配したって,その予測は外れてしまう.それに神様じゃないんだから,将来をコントロールできない.だから未来のことをあれこ れ心配するのは無駄.それより,今に集中して,結果が悪かったら運が悪かったと忘れてしまう.結果がよかったら運が良かったと喜べばいい.
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先日お礼のメールをお送りしたときの返信の内容も、心打たれるものがありました。
将来のことを心配する余りに、今目の前の事に集中しきれない自分がいたことにも改めて気づかされました。
池田先生のおかげで、やるべきことが見えてきたような気がします。
今に集中して生きる、のはとても素敵なことですね!!
重ね重ねありがとうございました。
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先日の学会では会食に預かり楽しくお話できたことに感謝致しております.
日々の診療の忙しさや精神的肉体的ストレスの多さに
自分の進路にまだ確信が持てず,悩みもあるのですが,
先生のお考えを伺え,少し希望が持てるようになりました.
ありがとうございました.
とは言いながら,その後に脳卒中リハの病院,都内の膠原病内科の大学病院を見学し,こちらへ帰ってきた途端,「まだ,進路決まってない の.」「神内?」「膠原病?」と言われてに強く傷ついてしまった訳ですが・・・.
中々難しいですね(笑).
いつか長崎の先生の下へ伺えたらいいなと思いながら,
自分自身がやられないように心身の健康には気をつけます.
先生のHPは心が落ち着きます.
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(以下私の返事)
> とは言いながら,その後に脳卒中リハの病院,都内の膠原病内科の大学病院を見学し,
>「まだ,進路決まってないの」 「神内?」「膠原病?」といった言葉に強く傷ついてしまった訳ですが・・・.
ふうん,傷つく必要,全くないと思うけど.だって,相手の反応って,ツッコミ方どころ満載じゃないの.
「まだ,進路決まってないの.」→すでに進路を決めてあることと,まだ進路を決めていないこととを比較して,なぜ,どういう点で,前者の方 が優れていると考えるのか,根拠を示せってことだよ.何にも根拠ないでしょ.「まだ,進路決まってないの.」→思考停止に陥ってますって告白 していることだよね.
かくいうこの僕も,学校を卒業してから27年経った今でも,進路なんか決まってないことは御覧の通り.そこで,もし,「まだ,進路決まって ないの?」と訊かれたら,「はい.決まっていません.ところで,それがどないしたいうねん.オラオラ,答えてみんかい,このボケが」と答える よ.
そもそも進路ってね,自分で決められるもんじゃないんだよ.自分にはどうにもならないろいろな巡り合わせで,決まってしまう.もう少し正確 に言うと,進路ってね,自分で決めるもんじゃないんだよ.他者が決めることなんだ.人が決めてくれることなんだ.楽だよ.自分で決める必要が な いんだから.
君のやるべきことはただ一つ,それは,「ドアの前にぼおっと立って開くのを待っている」ことだ.君の言うべきことはただ一つ,「わかりませ ん.教えてください.」
↓
キャリアを考える
内田 樹は,やっぱり天才だよ.
いけだ
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> いいセミナーができるようにがんばります。
「がんばる」って言葉はイエローカードです。がんばるという言葉を多用する人ほど、結果に厳しいからです。そういう人はどんなに素晴らしい 結果を出しても、これではまだ駄目だと思い込んで、自己攻撃性を高めていきます。ある程度まではそのサイクルで結果を出していけるのですが、 要求水準がジャックの豆の木のようにどんどん高くなっていって、満足感も幸福感も伴わない自己攻撃性により、焦燥感と抑うつ状態が生じやすく なり、仕事の効率性が低下、さらに結果に満足できなくなるという悪循環が生じます。
セミナーのプレゼンは、あなたが現在持っている資料だけで十分対応できます。新たに勉強することなど一つもありません。わからないことは、 「知りません」、「教えてください」でいいのです。神になろうとしてはいけません。
あなたぐらいのキャリアになったら、手を抜くことを意識して学習する必要があります。
おいしいものを食べる時間、好きな映画を見る時間、読みたい本を読む時間、旅行に行く時間、素敵な服を買いに行く時間・・・「幸せな気分」 という人生の真のエンドポイントに密接に結びつく時間を、本来の優先順位である最上位に置く。自分が気持ちよく働けるため→周囲の人が気持ち よく働けるための大切な投資を怠っていませんか?
そうすれば、一見大切なように思える仕事から、思い切って手を抜くことができます。そして、どんなに手を抜いても、誰も気づかない。何?こ の人達、何もわからないんじゃないの。あんなに心配していたのが馬鹿みたい。そう思えるようになるのです。
「体を大切にする」というのは,単に健康診断を受けたり,すぐ医者に行ったりするってことではありません.
「弱音を吐く」「愚痴を言う」「できない」「わからない」「休みます」「助けてください」「教えてください」
こういったことが素直に言えるってことです.教授がそう言うと,みんながなるほどと思ってくれます.私が教授になった理由の一つがそれです.
(「需給調整」と称する進路先決定を学生同士で行う風習のある医学部の学生とのやりとり)
需給調整(物扱いの名前だね)については、今、その真っ只中にいるあなた自身が、今、その仕組みの良し悪しとか、改革とかを考えるのは効率 が悪い作業だ。だって明日から仕組みを変えられるわけじゃないからね。だとすると、需給調整作業をどのようにして、行動科学・心理学勉強の機 会として最大限利用するかが優先順位の高い課題だと思う。
その時、需給調整の結果が自分の将来の幸せにどう影響するかは全くわからない。そういう立場に立つこと。「わからない」という謙虚な立場に 立てば、流れが見える。流れが見えれば、その流れに対応する柔軟な態勢が取れる。「自分はわかっている」「コントロールできる」と傲慢に思い 込んでいると、流れが見えない。だから船が転覆して、溺れる。
その流れが自分の幸運に繋がっていたことは、あとから振り返って初めてわかる。あくまで、後から振り返ってだ。今一度、「 未来の未知性について 」を読んでおくと良い。
需給調整の結果をコントロールすることによって、一番大切なアウトカム、つまり将来の自分の幸せをコントロールできると思ってはならない。 「他人を蹴落として自分が幸せになれた」と公言するような大馬鹿者の言うことは絶対に信用するな。
「他人を蹴落として自分が幸せになれた」と公言すれば、誰も寄り付かなくなる。あいつが困っても、決して助けてなんかやるもんかと誰もが思 う。つまり「自分を不幸にしてください」と公言していることになる。だから大馬鹿者だというのだよ。そんな簡単なこともわからないような奴 は、医師免許は持っているかもしれないが、医者の資格はない。
なぜ,下記の記事で ,本間さんが素敵に見えるかっていうことを考えてみると
○本間さん自身が,おそらく発達障害を負っているために虐待の対象となって,悲惨な家庭を経験してきて,社会に出てからもコミュニケーショ ン障害でさんざん苦しんだ.その障害を資源として成長して,今の本間さんがある.
○現在の本間さんは完璧な介護のプロフェッショナル.それを一番感じるのは,現場の難問に対する距離感覚.自分のコントロールできることに 集中できる自分を評価できる姿.
○極端なシナリオを排除し,常に落とし所はどこかと考え続ける姿.
核になる彼のメッセージは:
「他人を信じることができる」ためには、「まず、自分で自分を信じられる人間になろう」
自分を愛せないと、他者に対しても尊厳を持てないと思います。
自分を愛するためには,自分の評価できるところを見つける必要があるのだけれど,これが難しい.そもそも, 自分の頭の中は最後の暗黒大陸 だからね.
特に,自分の欠点探しばかりやらされてきた人にとっては,「自分を愛するために,自分の評価できるところを見つける」なんて,代議士選挙に 立候補するよりも大それた事業みたいに思えてしまう.本当はそうじゃないのにね.それに,とっても楽しい作業なのにね.だって情けない,嫌な 奴とばかり思っていた自分が輝いて見えてくるんだよ.そればかりじゃない.自分を愛すると他者も愛せるようになる.だってあれほど嫌だと思っ ていた自分を愛せるのだから,他者を愛するなんてとっても簡単なことなんだ.そうでしょ.
自分を愛せれば,家族ばかりじゃない.出会う人全てを愛せるようになる.「全て」って言葉がひっかかるって?大丈夫.時間軸と空間軸を導入 すればいい.どんなに嫌な奴でも,距離も時間も無限大に取れば,慈悲の心が生じる.
出会う人がその人にとっての世界.出会う人全てを愛せるようになれば,それがその人にとっての世界平和.僕流の表現では世界征服.
この戦略の最大の魅力は,効率性.自分を愛することの素晴らしさがわかれば,自分の家庭も含めた世の中で,如何に馬鹿馬鹿しい争いごと,葛 藤,非難攻撃の数々が,それも,アウトカムを全く考慮せずに,生じているか,そしてそこから背負い込まなくてもいいストレスの数々が生まれて いるか
それがわかる.
愛 は家庭から始まります。まず家庭の中で不幸な人を救いなさい。(マザー・テレサ)
本間さんは,決してマザー・テレサの本を読んでいないと思う.そんなもの読まなくたって,行きつくところは誰でも同じってことさ.
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キャリアブレインニュース【第53回】 独りで抱えず、誰かに助けを求める 本間清文さん(「介護支援所ファイト」運営、独立ケアマネジャー)
東京都中野区で独立型のケアマネジャーとして奮闘する本間清文さんは、個々の利用者に「尊厳のあるケア」を提供する方法に思いを巡らしてい る。それでも、「わたしたち、ケアマネや介護職は、利用者本人や家族以上に当人の問題を背負えない」と言う。また、自分の力を超えるような問 題は、独りで抱え込まず、誰かに助けを求めることも大事と、介護の現場にさまざまなアイデアを持ち込む本間さんに、「教科書が教えてくれない ケアマネジメント」について聞いてみた。(大戸豊)
■世界平和よりも家庭の平和が大事
?どうして介護の世界に入ることになったのですか。
「世界平和よりも家庭の平和が大事」というのが、わたしのモットーです。子供のころ、家では今でいうドメスティック・バイオレンスがあったり して、そのことは今でも記憶の底にこびり付いています。虐待を受ける高齢者などは自分の記憶と重なるように思えます。大学で演劇をしていたの ですが、卒業して地方の新聞社に入りました。そこではコミュニケーションが取れず、自分も他人も信じられない人間不信の状態でした。かなり追 い詰められて、「他人を信じることができる」ためには、「まず、自分で自分を信じられる人間になろう」と思いました。
?そこで会社を辞めたのですね。
新宿の路上で独り、前衛の舞踏みたいなことをしていました(笑)。やるところまでやったと思ったころ、人に優しくすることが、今の自分にでき ているのかと考えました。そこで福祉に進もうとしたんです。どうせ行くなら、一番大変そうな特養に。当時は、「社会の果て」みたいなイメージ がありましたね。
?訪問介護を「ジャングル」と言っています。
施設は仲間が周りにいますが、在宅はそうはいきません。“促成栽培”のヘルパーが行ける場所ではないのです。といっても人が定着しないので、 いきなり放り出されてしまいますが…。今の介護報酬体系では常勤で雇えないので、非常勤や登録ヘルパーが中心になります。週1回で1、2時間 の仕事だけの小遣い稼ぎ感覚の人も少なくありません。専門性を身に付けている職業なのに、これではプロ意識など持てないし、辞めてしまいます よ。
■現場に「気に掛けている」と伝える
?ケアマネジャーは、訪問介護の現場とどうつながるのでしょうか。
認知症の女性と息子で暮らすケースを持ちました。息子がどうしても自分の時間が欲しいと、ヘルパーに単純な見守りを介護保険適用でない自費で 頼んできました。女性は認知症がかなり進んでいて、会話すら成り立ちません。担当したヘルパーの仕事はただ1、2時間そこにいるだけなんで す。本当に苦痛だと思うんです。ケアマネジャーならば、そのヘルパーがつらくないか想像することが大切だと思うんです。サービス提供責任者に ヘルパーが精神的につらくないか聞いてみる。現場に聞くだけで違います。「気に掛けているよ」というサインを投げることが大事なんです。
?介護は「優しさだけでできるサービスではない」と著書の中で書いています。
家族の関係がどろどろになってしまい、それを解消するためにヘルパーを入れる場合があるのですが、なおさら家族関係が悪化することもありま す。仕事として家族の中に入ることは簡単なのですが、結果的に家族を壊してしまうこともあるのです。人生最後の時間に、頼れるのはやはり家族 ということも多いと思います。安易にわたしたちが手を差し伸べるのではなく、まず様子を見ることも必要だと思います。たとえ、それまで家族関 係が悪かった家庭でも、介護をきっかけに関係が修復されることもあります。ケースによっては、あえて厳しく「ここにわたしたちは入れません」 とサービスを断ることもあります。
?若い人であれば、そのあたりの見極めは難しいのかもしれません。
場数を踏む必要もあるでしょう。精神的に厳しくなることもあると思います。わたしは難しいケースを独りで抱え込まないようにしています。常に チームに情報を流し、共有化していく。親戚やソーシャルワーカーなどにも、「今こんな状況で、こうしたいと思います」と逐一、伝えています ね。
■人は自然現象には勝てない
?チームをまとめるのは大変でしょう。
利用者の家族がしっかりと意見や考えを持っている場合など、ケアマネジャーがチームを編成しなくても、おのずとチームはまとまっていくと思い ます。認知症の独居の人や老老介護など、“中心”がはっきりしない場合はしんどくて、ケアマネジャーが真ん中にいる必要があります。それで も、解決できないケースはあります。それはそれとして受け止めています。そこで無理をしても、チームはうまく回りません。ケアマネの力がない というのではなく、利用者の生命力が老化や認知症によって落ちる結果だと考えます。こま回しと同様、芯が安定していなければ全体がうまく回ら ないのは当然のことです。人は自然現象には勝てません。
?それでも、頑張り過ぎてしまうこともあるのでは。
一度仕事で“燃え尽き”かけました。本当につらくて、自分だけでは何にも解決できないと悟りました。自分の力を超えてしまった問題は、誰かに 助けを求めるか、必要な人を紹介していくようにしています。
?独立型のケアマネジャーとして心掛けていることは。
フリーになると、無理はできません。つぶれてしまいますから。自分を生かすためには、自分ができることとできないことを知るように心掛けてい ます。独りでやっていますが、大勢の仲間に電話で頻繁に相談していますよ。上から物を言っても、ケアチームが動いてくれませんし。
?現場で働く介護職にメッセージをお願いします。
介護に向けられる世間の目が冷たい中、現場で戦っているだけでも誇りと自信を持っていいのではないでしょうか。自分を愛せないと、他者に対し ても尊厳を持てないと思います。もちろん、生活のためには割り切りも時には必要です。自分なりの理念と現実生活との着地点をどこで見いだすか は、極めて個人的な事柄です。ただ、個人的には、このように閉塞感に包まれた介護業界だからこそ、非常に大きなチャンスが内在していると感じ ています。
【略歴】1969年兵庫県生まれ。特養ホーム、デイサービス、社会福祉協議会などを経て、専任の介護支援専門員になる。東京都中野区に独立 型の居宅介護支援事業所「介護支援所ファイト」を設立。著書に「教科書が教えてくれないケアマネ業務」(雲母書房)がある。ホームページ 「ファイトほんまの介護支援!」も運営する。
(岡山道場に来てくれた卒後9年の精神科医からの手紙への返事)
> 卒後9年ほど経っているのですが、恥ずかしながらアカデミックな勉強があまりできておらず、実戦主体に偏っておりました。
現場の娯楽性・劇場性がわかっていらっしゃるからだと思います.
> 1年前より今の職場に移り認知症を診療するようになってようやく論文を読むことなどの大切さが身に染みてきたばかりです。
実は,現場の娯楽性・劇場性への興味と,アカデミックな勉強とは,排他的ではありません.現場の娯楽性・劇場性への興味が深まって,初めて 論文を読む動機が形成されるのが,医師としての正統派の発達過程です.何かというと異端派の私は全く逆でしたが,異端派もまんざらではないと いう結果を示すことが言い訳になると思って仕事をしています.
> 先生の御講演で論理的思考、言語化の面白さを体感させていただきました。
認知行動療法を「裏から見る」と見事に言語化してくださってありがとうございます.これから,どんどん使わせていただきます.どうぞ,「糖 尿病食が健常人にとっても,バランスのとれた食事であるように,認知行動療法は心の病を負っていないと思う人にも役に立つ」という喩えも使っ てください.
最近は医療のbiologicalな側面には興味がなくなりつつあります.最新医学とやらの効率の悪さには辟易です.新しいものほど,すぐ 腐ってごみになって消えていってしまう.かといって銭勘定や行政・政治批判にも興味がありません.そちらは好きな人がたくさんいますから,お 任せすることにしています.
世間では,老後の心配とか言いますが,老後があると思うなんて,暢気なものです.老い先があるかないかもわからないのですから,好きなこ と,面白いことに集中したい.それが岡山で御覧になった,(生物学的年齢は関係なくて,気持が)若い人たちとの活動なのです.
タイトルは,「神経診察なんかいらない!?ー神経症候学マッシー池田流ー」としてください.
紹介文は以下です.
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またまた私に相応しい物騒なタイトルですが,なあに,ご心配には及びません.あれもやらなければいけない,これもできなくてはいけない.でも 本当にそうなのでしょうか?どういう場面で,どの診察手技が,どのように役立つのか?そういう素朴な問題を一緒に考えましょう.「○○しなけ ればいけません」と言われれば,誰でも気分が重くなります.「○○しなくてもいいですよ」と言われればだれでも気分が軽くなります.それがこ のセッションの目的です.身体神経診察に関する様々な悩み,疑問を,どうぞお持ちよりください.このセッションが終わった後の晴れ晴れとした 気分をお約束します.
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「可用性ヒューリスティック(availability heuristic)」
> 何かを判断するときに、そのための情報を広く集めるのではなく、身近な情報など、利用しやすい事例だけに頼ってしまう傾向のことを「可用性ヒューリス ティック」と言います。
可用性ヒューリスティックは,sampling
biasの典型例ですね.一般市民のliteracyの向上とよく言われますが,具体的にどういう戦略を取るかというレベルになると,議論が はたと止まってしまう.そういう時にこういうキーワードが出てくると,また議論が進みだすことがあります.たとえば,可用性ヒューリスティッ クの典型的かつ日常的事例を挙げて,なぜこういうことが起きるのか?
可用性ヒューリスティックを,「面白く」回避するためにはどういう工夫があるか?と議論するのです.こういう教育を小学生の時からやる.学校 でやらなければ,自分の家庭で,自分の子供に対してやる.
可用性ヒューリスティックが個人のレベルにとどまらず,社会集団のレベルで起きると,パニックになります.典型的なものは,狂牛病 (BSE:牛海綿状脳症)パニックです.日本ではゼロリスク探究症候群の嵐が起きました.BSEが感染して亡くなった人は,地球上で200人 にもなりませんが,今だにパニックを引きずって全頭検査という公共事業が続けられています.
参考:「食のリスクを問いなおす」(ちくま新書)
(2008年1月の岡山公演に来てくれた卒後9年の精神科医からの手紙への返事)
お手紙ありがとうございました.
> 卒後9年ほど経っているのですが、恥ずかしながらアカデミックな勉強があまりできておらず、実戦主体に偏っておりました。
現場の娯楽性・劇場性がわかっていらっしゃるからだと思います.
> 1年前より今の職場に移り認知症を診療するようになってようやく論文を読むことなどの大切さが身に染みてきたばかりです。
実は,現場の娯楽性・劇場性への興味と,アカデミックな勉強とは,排他的ではありません.現場の娯楽性・劇場性への興味が深まって,初めて 論文を読む動機が形成されるのが,医師としての正統派の発達過程です.何かというと異端派の私は全く逆でしたが,異端派もまんざらではないと いう結果を示すことが言い訳になると思って仕事をしています.
> 先生の御講演で論理的思考、言語化の面白さを体感させていただきました。
認知行動療法を「裏から見る」と見事に言語化してくださってありがとうございます.これから,どんどん使わせていただきます.どうぞ,「糖 尿病食が健常人にとっても,バランスのとれた食事であるように,認知行動療法は心の病を負っていないと思う人にも役に立つ」という喩えも使っ てください.
最近は医療のbiologicalな側面には興味がなくなりつつあります.最新医学とやらの効率の悪さには辟易です.新しいものほど,すぐ 腐ってごみになって消えていってしまう.かといって銭勘定や行政・政治批判にも興味がありません.そちらは好きな人がたくさんいますから,お 任せすることにしています.
世間では,老後の心配とか言いますが,老後があると思うなんて,暢気なものです.私には老い先があるかないかもわからないのですから,好き なこと,面白いことに集中したい.それが岡山で御覧になった,(生物学的年齢は関係なくて,気持が)若い人たちとの活動なのです.
後期研修中の方とのやりとりを紹介します。地名、施設名など、一部改変してありす。
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池田先生
お久しぶりです、お元気ですか?TFCなどのメールで、先生がお元気に活躍されている姿を拝見しています。さて、メール上にて失礼ではありま すが、先生にご報告があります。3月、京都にて挙式を行うことになりました。
先生は現在長崎におられ、しかもご多忙と存じます。何分遠方におられ、無理にとは決して申しません。ただ、やはり自分の医者としての礎をつ くった亀井道場、そして道場を通して出会うことができた先生には、感謝の意味をこめて是非来て頂きたいと思うのです。
特に亀井先生ご夫妻や先生には、自分が今よりももっと未熟で、危うくて、一方でものすごく純粋にまっすぐに何かを求めていた時期にお世話に なっています。きっと色々なご心配をおかけしたことと思います。
決して無理にとは申しませんが、ご都合が合いましたら、来ていただければ幸いに思い、ご連絡をいたしました。またよろしければ、後日案内状 をお送りしますので、ご住所をお教えいただければ幸いです。
お忙しいところ申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。それでは、お返事をお待ちしております。
追伸:
現在私は、N病院(整形のN先生がおられるところです)で内科医をやっております。N大総合診療部の後期研修医の肩書です。
先生のおかげで、病歴・身体所見からParkinson症候群がわかり、MRIで多系統委縮症の診断がつき「やっと病名がわかった」とお礼 を言ってくださった80歳台の女性がおられまた。(その方は、無洗米は使っておられませんでした。娘さんが米を洗っておられました。でも狭い ところは歩きたくないと言っておられました)
N病院は当地域唯一の病院であり、へき地医療を支えている現実があります。
何度も潰れてしまいそうになりました。でも、先生のホームページにある「医者辞めたい病」「自己攻撃性と自動思考」の話、そして昔話して下 さった「旭中央病院の日々」の話は、潰れそうになった自分を支えるものになりました。
今もなお、先生の存在は、自分を支える一つの要素になっています。
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嬉しい手紙をどうもありがとう.差出人名と題名を見ただけで,何の報告かはわかったよ.
東京にいると,いろいろな人がやってきてくれて,自分からは動くことは少なかったのだが,長崎へ来てからは,福岡や東京・大阪はもちろん, バンコク,沖縄と飛び回っているから,長崎と京都という距離は,全く苦にしないのだが,当日は,すでに北大に出張予定が入っている.
しかし,僕自身は君達の結婚式に出られないことは苦にしない.僕が結婚式に出なくても,僕の影響力は十分君達に伝わっている.君の奥様にな る人には僕は直接お目にかかったことはないわけだが,実はそれは大した問題ではない.君を通して,奥様になる人にも,僕は大きな影響力を行使 することになからだ.
僕は吉田兼好に会ったことはないが,徒然草には多大な影響を受けている.
そして今後の君達の歩みに,僕が影響されるだろう.これも,君達が僕に影響を及ぼすためには,僕に直接会う必要があるというわけでもない. すでに我々はこれまで,お互いに出会ったいろいろな仲間を介してつながっている.岡山で,名古屋で,そしてTFCで.
そもそも,亀井道場一期生の君が悩み,苦しみながらも立派に成長しているということ自体が,亀井先生や僕を含めた師範代への賞賛の声に結び つくのだから,すでに,僕は君から大きな影響を受けているわけ.
五十を超えて,肉体という存在の,空間的,時間的限界をしきりと考えるようになった.僕を含めて,誰も札幌と京都に同時に存在できない空間 的限界はすでにある.また,僕と同世代の田坂さんや白浜さんは,時間的限界も教えてくれている.
しかし,限界から先は無というわけではない.肉体がこの世に存在した時とは別の形で影響を与えることができる.肉体が消失して全てが終わり というわけではない.相が変わるだけだ.死とは,存在するとは別の仕方で影響力を行使できるようになるための切符と考えることができる.田坂 さんや白浜さんは,そう教えてくれている.
これから結婚しようとする人に,死者だの幽霊だのと説教する天の邪鬼ぶりは健在だ.4月以降はどちらだろうか?何処で働くにせよ,またどこ かでお目にかかれるよ.
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早速の返信ありがとうございます。先生に連絡してよかった。
先生の思想が時間的、空間的限界を超えていっているところが、先生自身がいろいろな出来事を経験しながら思想を発展させ、自身に磨きをかけ ていかれていることを受け手に感じさせます。
詳しいことはわからなくても、「そこに存在しなくてもすでに影響しあっている」ということが、何となく「分かる!」と思ってしまうところが 不思議です。
ここで一人前の医者のふりをして、色々な人の死に関わらせていただいています。上手に表現できませんが、「死」という身近なような遠いよう な不思議な存在に対する考え方が、自分の中で少しずつ変化していることを感じています。
「新婚」ですが、同時に「週末婚」です。でもこれも不思議と苦にならず、受け入れられるんですよね。妻になる人の存在が、すでに空間的限界 を超えてきている、ということでしょうか。(もちろん一年限定だから頑張れる、というのはあるでしょうけどね)
実家から自転車で5分ぐらいの診療所で研修します。父が今年いっぱいで定年退職し、自分が実家から通うことが両親にとって経済的にも、精神 的にも支えになる時代になってきました。
時の移ろいを受け入れられない自分がいると同時に、そうやって両親に少しでも役に立てる、と思うことが嬉しいと思う自分もいることを実感し ています。
来年、どこかのセッションでお会いしましょう。結婚をきっかけに先生に連絡することで、先生の思想の「現在地」を垣間見ることができまし た。同時に、先生と一対一の、贅沢な時間を得ることもできました。
本当にメールしてよかったです。
くれぐれも、時節柄ご自愛ください。またお会いできるのを楽しみにしています。
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迷っている時は、まず迷う自分に安心してください。迷うということは、次の2点で、自分がまともな心境であることの証左に他ならないからで す。
1.複数の選択肢が見えている
2.思考停止に陥っていない
決断とは思考停止に陥ることです。決断力とは、思考停止に陥りやすい傾向のことです。
> 進路決め(09年7月に提出義務があります。)
あと半年以上も先のことを今から思い悩む必要は全くありません。それより後半年以上、迷う楽しみを味わってください。メニューを見て、どんな ご馳走にしようかな、デパートで、どんな洋服がいいかな。そうやって、ぎりぎりまで迷えば迷うほど、自分はそれだけ時間をかけて真剣に考えた のだという気持ちが強くなって、後悔が生じなくなるものです。
後悔とは、もっと慎重に考えればよかった=もっと迷えばよかったという気持ちに他なりません。後悔のリスクを最小限にするために最後まで迷 うのです。だからこそ、迷う自分=後悔のリスクを最小限にする自分に安心するのです。こんな簡単なことに気づかずに、決断力とやらを誇る人の 何と多いことか。愚かなことです。
(霞ヶ関のある審議会委員との個人的な面談の様子を,優秀な臨床医に説明し,医学教育に応用してもらうために書いた手紙から)
先日の面談では,こちらからは実はあまり喋らなかった.まず,委員会での彼女の苦労や愚痴を聞くことにしたのね.そこで彼女の頭の中が整理 されて,ああ,やっぱり池田さんは私の話を聞いてくれる,これなら私の疑問にも答えてくれるだろうとという期待と共感が生じる.そうなればし めたものだ.
ただし,僕が彼女の頭の中を変えたんじゃない。彼女がそうありたいと漠然と考えていたものを対話を通して彼女自身の頭の中で具体化したに過 ぎない。誰でもが実はwin/winになりたいと思っている。win/winの枠組みを示し、実行し、その実効性を証明できれば、真のスタア になれるからだ。彼女だって、そのぐらいわかっている。
だから、現行のlose/loseの典型的事例を自覚してもらい(といっても、彼女ぐらいになると、そのあたりは、もうよくわかっているか ら手間はかからない)、lose/loseの発生機序の分析から、win/winの枠組みの作り方を示せればしめたもの。あとは、あなたはで きると保証してやれば、一人でやっていける。ここが結構大事で、信頼されたと思うと、意欲が湧き、動機付けも強くなる。逆に、信用されていな い、子供扱いされていると思うと、やる気が起きない。この、"任せてもらえた"という喜びは学習意欲と成長に欠かせない。
もちろん,これはあなたがたも,これまで,患者さん,医療スタッフ,研修医相手にやってきたことで,手品でも魔法でも何でもない.
厄介な交渉相手ほど,教えてください,助けてくださいというメッセージを頻繁に出して ,相手が自分に対する教育者であることを自覚させ,相手自身の自己評価を高くすると同時に相手の自律性を引き出す(つまり, 自分は先生なんだからみっともない真似はできない).ほら,だから,相手が教育者であ ることを自覚させること が,相手を教育し,成長させることになっているでしょ.
ある医学生から,臨床実習班の中の葛藤について相談された時の返事.嫁姑の争いに巻き込まれそうになった時などにも応用が効く.要するに, 馬鹿は馬鹿同士で勝手に喧嘩してくれ.そのうち飽きるだろうということなんだが,ここまで構造化しないと,学生は理解できないので.
1.できるだけ楽をしようとすること.下手に動かないこと.
自分は神ではない.このような複雑な状況に適切な介入ができるほど優秀な人間でもない.ごく普通の医学生である.自分が介入しても関係者を幸 せにできるとは限らないこと.その証拠に,自分が介入しても事態がここまで複雑化してしまったではないか.だからといって自分は良かれと思っ てやったのだから,自分を攻撃してはならない.自分を攻撃することは神になろうとすることである.
2.問題から距離を取ること
自分の介入が必ずしも良い結果を生まないとなれば,一旦引いて距離を取るのは当然.そこで,お前は班長なのだから責任を取れというの攻撃は受 け流すこと.自分達の葛藤を自分達で処理できないような人間の攻撃など怖くも何とも無い.「無能な班長ですみませんねえ」と率直に認める.
3.何のために葛藤しているのか.葛藤して誰かが得するのか,outcome-baseで考えること
この葛藤では誰も得をしてないないという,至極単純な事実に気づかずに葛藤が継続されている.
4.発言したり行動したりするよりも,考える,相手を理解することを優先すること
相手はわからずや,自分のような冷静で理知的な人間の言うことさえ理解できない馬鹿者という妄想の元に葛藤が生じている.一体何処の誰が,自 分を攻撃してくる相手を理解したいと思うものか,馬鹿者よ.相手を理解し,評価して初めて,相手の気持ちが和らぎ,自分も相手から評価しても らうことができる.
5.今直ぐに素晴らしい解決策が見つかると思わないこと
時間がかかるのではない.時間をかけるのだ.
> 手際が悪くて申し訳ありませんでしたが,
僕自身は何が手際が悪かったのかよくわからないのだけれど,おそらく,君には気になったことがあったのだろう.君は今の僕に比べてかなりの完 璧主義者ということになる.でも,僕も君の年齢にはそうだったような気がする.それが若さのメリット&デメリットなのだろうね.
> 先生にも,最後に"僕も楽しかった"と言っていただけて,ホッとしています.
これも,ホスト側として,かなりいろいろ心配してくれたことを意味している.僕の方は実際に楽しかったし,僕の体から非言語性メッセージとし て,楽しんでいる雰囲気がたくさん出ていたはずだから,言語化しないでもいいかなと思っていたのだけれど,やっぱり,駄目押しで,"楽しかっ た"と口に出すことが必要なのだね.
親しい間柄ほど,わかっているだろう,わかってくれているだろうと,非言語性のコミュニケーションへの依存度が高くなるきらいがある.特に ポジティブなメッセージの時に,この問題が生じやすい.親子,配偶者とのコミュニケーションでも忘れてはならない点だ.
> 私自身,今回のご公演を聞いて,とても元気が出ました.
これは,多分,自己攻撃性が高まるシナリオを具体化,言語化して,日常診療・生活の中で明日から実行可能な自己攻撃性(=他人への攻撃性)低 減法を呈示できたからだと思う.
「それで順調」,「弱さを絆に」 べてるの家のスローガンを思い出す..
> 「棚上げ、後回しは悪いことではない。時が、環境が、周りにいる人が変われば問題は問題でなくなることがある」というお言葉、道場が終わってから、思い出 してはその意味を噛み締めています。以前の僕ならば、そのような妥協は、自分をだめにしてしまうと拒絶していた気がします。
優秀な人に生じがちな自己攻撃性です.亀井道場でも,「適当,いい加減」を強調したのも,自己攻撃性の高まりを抑制するためです.「自分を 駄目にする」のは,妥協ではなく,自己攻撃性です.
> また、「医学に王道なし」とも痛感しました。
素晴らしい.そうです.常に正解が一つと思いこみ,幻の単一の正解をひたすら求める危険性に気付いたということです.
>これまで、僕は自分のことを、教科書的な所見がキレイに並んだ、ど真ん中のストライクしか打てないバッターと思い、なんとかすこし コースが外れたボールでも打てるようになりたい、自分には何が欠けているんだろう
「ど真ん中のストライク」は,幻の単一の正解です.「それしか自分が打てない」と思いこむことが,幻の単一の正解を求め続けること.
世界最大のコンサルテーション会社,マッキンゼーでは,常に5通りの回答を考えろと教育されます.
正しい答えが必ずあって,しかもそれが一つだけだと思いこむと,他の答えに出会った時に,それが答えとわからずに,捨ててしまう危険性が生 じます.そして思い通りの答えに出会ったと思った瞬間に,考えることを止めてしまって,その答えが持つ落とし穴に気づけなくなります.
答えが複数あると思えば,一つ目に出会った後にも,二つ目を探す努力を怠らず,複数見つけた答えを比較検討して,それぞれの答えの問題点を 見つけることができます.随分と探して見つからなくても,どこかにあるんだろうが,今はちょっと見つからない.時間を置いて後でまた探してみ ようという余裕も生まれます.
> この3ヶ月で最も勉強になったのは、指導医・スタッフとの「距離感」ですかね。
距離感によって,こちらに余裕が生まれる.それに時間軸を考慮するとさらに余裕が生まれる.患者と
の面接でも,全く同じ事が言える.接近戦になると,救世主願望によるストレスが酷くなる.救世主に
なれない自分に対する攻撃が,患者側からも自分の側からも酷くなる.そこに,距離と時間の両方の要
素を入れて,ストレス軽減→患者・医者両サイドで正当な自己評価(こんな困難な状況下でよくやって
いる.捨てたもんじゃない)を生み出す.
> それでも、N先生、Y先生、F先生らの指導のもと医学と医療と行動科学とを意識した研修が
できていると感じています。
昔から,どこでも,多くの人が実際にはやっていたわけだけれど,それが意識してできるとできないと
では,研修効率が雲泥の差となる.意識すると,財産となって,教育を通して次の世代に引継ぎ,普及
,発展させられる.その効率性の良さが「文化」を形成し,ついには,知らず知らずの間に,医療現場
以外にも浸透する.デフォルトは無名化するわけだ.
> 最近の一考ネタですが、*患者の期待に応えた診察
問診では,患者から言語性メッセージを引き出す.診察では,患者から非言語性メッセージを引き出す
.いずれも,医師が患者から教えてもらう→自分が医師を教育していることを患者に自覚させる.医師
の権威の象徴であるはずの聴診器を使って,医師が自分から学んでいることがわかれば,自分が医師の
教師となっていることを非常に強く自覚できるだろう.
自分が医師を教育しているという自覚が明確になれば,救世主へ過大な期待(神の手,名医探求)が止
み,診療結果がたまたま悪い物であっても,誤った被害者意識が生まれるリスクもぐっと低くなる.
(離島医療研究所 が主催する第2回 長崎家庭医療集中セミナーへ出席する,私と同学年のおばさんが,若い人達の集まりに参加する不安を率直に話してくれたこと に対して)
五島では,何も難しいことを考える必要はない.勉強なんかしなくたっていいんだよ.勉強はそれこそ
,若い人に任せる.年寄りは,背伸びをせず,分相応に,彼らがのびのびとやっているのを,にこにこ
して見てればいいだけだ.それが,年寄りにとって,一番の勉強になるんだ.手を出すのを如何に我慢
するか.口を出すのを如何に我慢するか.それが何よりの勉強になる
若い人の真っ只中に年寄りが入るってのは,それだけで刺激になるものさ.「あの年になってまで,わ
ざわざここまで勉強しに来るんだ.自分もあのようにありたいものだ」って,思った記憶が,今,蘇っ
てくるはずだ.今や,自分がそう思われる立場になった.そう考えるだけでも興奮するじゃないか.
> しかし実際の臨床ではEvidence(科学)+Clinical Expertise(非科学)=非科学ではないですか!?
このあたりは、私が説明するよりも、「池田清彦著(私は全く面識がありません) 構造主義科学論の冒険 (講談社学術文庫) 」を読んでいただくとわかりますが、文庫なのに1008円と高価なので、以下、私独自の簡単な説明。
そもそも、科学者が科学と呼ぶ(信じる)ものはあくまで科学者が自身が恣意的に決めたものです。データは人間が観察したもの、データの解 釈・考察も人間がするのですから、科学は人間の主観による汚染の塊に過ぎません。と 表現すると、どぎつく聞こえますが、「エビデンスはナラ ティブによって支えられている」と表現すればEBM伝道者にも聞き入れてもらえるでしょうか。
> Evidenceは視野に入れながら、どっぷりとナラティブに浸かる、これが私達のリアリティ。私がいう、ストリートファイト。池田先生、質的研究っ
> てなんですか?
EBMでは「測定できるもの」だけを研究・考察の対象にしている。EBMの世界でだけ遊んでいれば「測定できるもの」だけ考えていればよ い。でも現実では、ほとんどの場合、「測定できないもの」の方の比重がはるかに高い。「測定できないもの」が得体の知れない物だから、目をそ らしたままでいよう。逃げ回ろうという態度も可能かも知れない。でも、比重が大きいのだから、やっぱり逃げずにおこう。もしかしたらとっても 面白いかもしれないじゃないか。「測定できないもの」ってどんな感じなのだろうか?その冒険(=ストリートファイ)トが、質的研究です。
(下記は、谷川俊太郎風、池田正行作です)
測定できるものでしか評価できない悲しさ
測定できるものでしか評価しない危うさ
測定できないもので評価する面白さ
測定できないものはないと考える傲慢さ
測定できないものがあると考える謙虚さ
測定できていないものを見つける面白さ
(下記は岩田健太郎作。2007年6月29日夜。鴨川は笹元(鮨屋)の2階座敷で、研修医の評価について議論している時)
「評価する必要はない。必要なのは”愛”だ」
北米でERの研修に行ってきた若手からのメールへの返事
> 研修医教育の必要性を再認識して帰ってきました。
それだけで充分な成果です。
> 英語はあまり上達しませんでしたが。
語学そのものはどうでもいいことです。というか,こちらの英語が拙ければ拙いほど、相手の集中力を引き出せることを学んだことになります.さ らに,言語性メッセージに依存せずに,英語国民の間で使われる非言語性メッセージを会得できたということにもなります.
逆に英語が流暢に話せるようになると,
○面接の冒頭から,話し相手をわかったような気にさせて安心させてしまい,相手の集中力,理解力が却って低下してしまい,自分が言いたいメッ セージが伝わらないリスク
○自分の言いたいことが相手に伝わっていないことに気付かないリスク
の二重のリスクを背負い込むことになります.
一見逆説的に聞こえるかもしれませんが,日本語が流暢に話せる日本人なら,誰でも思い当たるリスクでしょう.語学はあくまで手段に過ぎませ ん.手段に秀でていることと,意思疎通という目的達成とは全く別です.母国語でやたらと喋りまくっても,何を言いたいのかさっぱりわからない 人間で溢れかえっている構図は,どこの国にも存在します.
後に出る方が,周囲の目がより厳くなっている.そこをくぐり抜けてきたのだから,先に出た物よりも信頼が置けるものだと,私は常々,これか らの医療を背負って立つ若い人に話していますが,みんな,なるほどと頷いてくれます.
>指導医に怒られて凹んでは逆切れる日常
よくある攻撃の応酬だね。自己攻撃性→他人への攻撃性→lose/loseの構図になっている。”駄目な研修医”との指導医の気持ちの裏側に は”教育下手な自分”への攻撃性が潜んでいるし、”怒るだけで教育してくれない指導医”との研修医側の気持ちの裏側には、”指導医をうまくお だてて育てるスーパー研修医になれない自分”への攻撃性が潜んでいる。それぞれ,名指導医、スーパー研修医になれない自分への攻撃性だ。
また、自分が関係する個人・組織への非難は、依存の裏返しに過ぎない とうい図式も覚えておくと、いろいろなところでストレス軽減に役立つ よ。すなわち、
○厚労省はけしからん→厚労省にはもっと働いて貰いたい→厚労省様、御願いします。あなたが頼りです。
○こんな飯、まずくて食えるかと妻の料理を非難する夫→妻がいないと何もできないおじさん
>意識改革を試みようとするものの 中部だったら病 からなかなか脱却できずにいる日々です。
>自分が入れなかった中部病院を理想化することで、自分のいる環境を攻撃的に否定しているのかもしれません。
>医者辞めたい病。の理論にちょっと通じるところがある気もしました。
もう、答えがわかってるね。”中部だったら病”って、言語化→外在化できている。
研修先選びは洋服選びとは違うからね。自分にとって、キャリアのリスク・ベネフィットのバランスが、中部病院と自分の研修病院のどちらがよ かったか?それは誰にもわからない。それが解るのは神様だけ。あなたは神様じゃないよね。
また、自分の研修病院の問題点を攻撃することのアウトカムも、ほとんどは無だろう。単なる攻撃によって改善するぐらいの問題ならば、疾うの 昔に消失しているはずだ。
自分の所属組織を批判するのは、ほとんどの場合、時間の無駄だ。それよりも、その組織の利点を見極めて、利用することを考えよう。その際の ポイントは、良好なコミュニケーションによる人のネットワークの形成だ。良好なコミュニケーションなんて難しいと思う必要はない。好奇心を 持って、教えて下さい。助けて下さいって言われれば、誰でも悪い気はしないものだ。
弁理士を志している2年目研修医と話をした翌日の手紙
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弁理士を志しているということであれば,知的財産権,新薬の特許とその薬に対するアクセスの良さとの間にどう妥協点を見出すか,いつも問題に なることは知っているよね.典型例としてよく引き合いに出されるのが,HIV感染症治療薬.値段が高くて,肝心のHIV感染症が極めて多い開 発途上国の国民がとてもじゃないが買えない現実に対して,どういう妥協策が実行されているのか.多分一つだけじゃないでしょう.
昨日渡した「寝ながら学べる構造主義」で,特にロラン・バルトの項も参考になります.彼は,「作者の死」と題して,一旦作品が世の中に出て しまうと,読み手毎に異なる解釈,異なる価値観,異なる利用法が生まれるので,その多様性に対してい,作者が所有権を主張し,その作品への影 響力や操作を独占しようとしても,無駄,無意味であると論じています.(当然,ロラン・バルト自身の主張も,「作者の死」からは免れないので すが)
「作者の死」と表現すると,随分と悪い意味に感じられますが,大勢の読者や利用者によって育ててもらって,自分の影響力が世の中に広がって いく喜びが,創作意欲になっています.その喜びとお金が必ずしも結びつく必要はありません.「寝ながら学べる構造主義」のロラン・バルトの項 にも,マイクロソフトが独占して利益を出しているウィンドウズと,無料で公開されているリナックスの話が書いてあります.
さて、「電子カルテは誰の・何のため」という根元的な問いに対する回答を裏付けるデータはどのくらいあるのでしょうか?検証研究デザインを 考えると、ちょっと考えただけでも次のような問題点が浮かび上がります。
○まず、介入(電子カルテシステム)の種類が膨大です。診療所でレセプト+オーダリングシステムの電子化だけのものと、大病院で、外来だけ でなく、全ての病棟で看護記録まで電子化されたシステムをいっしょくたにして、”電子カルテ”として議論するのは、「医者という人種は○○ だ」と十把一絡げにして議論するのと全く同じく、時間の無駄に過ぎないと思っています。
○「電子カルテは誰の・何のためなのか」を検証する際の評価者は、患者、医師、医師以外の医療従事者と、少なくとも3通りある上に、それぞ れの群がいろいろな要素(例:年齢、コンピュータリテラシー、働く場所:診療所・病院、診療科・疾患群)からサブグループに分かれるでしょ う。
○評価指標も、いわゆる満足度のような主観的なものも大切でしょうし、時間and/or労力(誰にとっての、どんな?)、お金、、ヒヤリ・ ハット発生率、学術活動(例:電子カルテ導入後、臨床研究が増えた)、診療アウトカム(これも死亡、入院、といったハードイベントから、もっ とソフトな、検査回数のようなものまで無数)など、客観的数値もさまざまなものが考えられます。
○ちょうど,コンピュータを使い始めた頃は,なぜ,こんな機械に使われなくてはいけないんだと,コンピュータを呪っても,慣れてくると,コ ンピュータなしでは生活できなくなるように,電子カルテ導入当初は紙のカルテの便利さを捨てきれずに電子カルテを呪っても,電子カルテに慣れ てくれば,また評価が違ってくるはずです.つまり,上記の項目による評価も,時間経過によって変化しますから、時間軸も考慮に入れたい。
以上の限界を心得た上で調査をすると、非常に面白い研究になると思うのですが、いかがでしょうか。「入院診療録の電子化によって看護師の申 し送りの時間は変化するか?」なんて疑問の答えを誰か出してくれないかな・・・
1.節操のないお医者さん達を矯正する必要があるのか?矯正するとしたら、何のために?おそらく患者さんのためでしょう。それ以外の目的、 たとえば、「勉強熱心なお医者さんが不勉強なお医者さんを懲らしめて優越感を得る」ようなシナリオは、あまりわくわくしませんよね。現実には そういう話はごろごろ転がっているようですけれども。
2.患者さんのためとすると、製薬会社の宣伝をそのまま鵜呑みにするお医者さんから、患者さんが受ける利益・不利益と、勉強熱心なお医者さ ん(そもそも、この勉強熱心という判断基準もどうしようかって話になりますが)から、患者さんが受ける利益・不利益とを比較して評価する指標 が欲しいところですが、これがひどく難しいように私には思えます。私なんぞは、ここで諦めてしまって、「これ以上、”患者様のため”と思って 勉強するのはやーめた。自分が勉強したいと思うことだけやろう。製薬会社の宣伝をそのまま鵜呑みにするお医者さんの方が,自分なんかより, ずっと患者さんのためになっているかもしれないし」なーんて、不埒な(?)考えに至ってしまいます。
3.仮に2で、評価指標が設定できたとしましょう。すると、次は節操のないお医者さんを矯正するためにどんな介入手段があるのかという問題 を考える必要があります。ここでの大きな分かれ目は、自主的に勉強してもらえるような環境づくり=教育をするか、攻撃・批判やアメとムチの強 制力等を使うかです。
4.後者の手段は誰でも嫌ですよね。仲間内や職業集団でも権力を持った人々からの批判だったり、診療報酬操作だったりする。誰でも、自分は プロフェッショナルの自尊心を持っている。自分は責任を持って行動していると思っている。自分は大丈夫だけれど、あいつはダメだ。そんな応酬 が患者さんのためになるとは思えません。仮になるとしても非常に効率が悪い。そんなことは暇な人に任せましょう。我々は忙しいのです。
5.となると行き着く先はやはり教育です。でも君は忙しい。他人のことには構っていられない。そう、それでいいのです。まず、自分に集中し ましょう。貴重な自分の時間と労力は自分に投資しましょう。ランセットに載った論文だからといって、その結果(というより宣伝)を無批判に受 け入れてその薬を使ってしまう,そんな無邪気なお医者さん達にも教育を受ける権利がもちろんありますが、その権利を行使する意志がない人達の ことまで構っていられないでしょう。
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(上記の続き)
>現実的にそれらが甚大な広告力を持って薬が売れ、だからこそ更に同様の広告(RCT)を生み、そして薬価を上げ、医療費増大に貢献してい るのではないでしょうか。
そうだね。問題は、それで誰がどのように幸せになっているか。あるいは不幸せになっているかだね。少なくとも現在の日本では、それで多くの 人が幸せになっていると、多くの人が信じているようだ。ただし、科学的データの恩恵ではなく、公共事業として幸せになっている。(公共事業の 歴史は古く、ピラミッド建設が、洪水の時期に仕事が無くなる農民達のための公共事業だったって知ってた?)
「RCTのabuseは、薬による公共事業で、道路よりはましだろう」 実は意識下では、多くの人は、そんな風に開き直っていると僕は推測 している。ただ、自分の関わっていることが、ただの公共事業だなんて誰も思いたくないから、患者さんへの奉仕だの科学だのと言ってしまうのだ よ。
>まず、私があの場で発言したように、個々の論文のmethod, resultをじっくり読んで、PECOを検証し、統計学的検定も含めて内的妥当性を吟味するのは相当技術的に高いスキルにまで高まっているという印象が あります。私も含めて多くの臨床医が、ちょっと頑張って勉強しても、自分一人の力で一つ一つの内的妥当性を適正に吟味するのは相当難しい話で す。更に、たとえそれができたとしても、日本の臨床医にそのような知的遊戯に拘泥する時間は無いと思われます。
そうね。文献の批判的吟味なんて、まるきり趣味、オタクの世界だから。日本ばかりでなく、世界中どこでも、Up to DateやPIER(ACP American College of Physiciansが作っているやつで、Up to Dateよりも使いやすいって評判だ.ACP会員なら誰でも無料で使える)があれば、一つ一つ批判的吟味なんてやる必要はない。
>たとえば、RCT一つ一つの結果を、Original articleとして学術雑誌に掲載する以外の広告活動を禁止するなどでしょうか。日経メディカルのような商業誌などへの研究結果の掲載法を規制するな ど。。お上に頼らなければいけないSolutionではありますが。現実、テレビなどでの薬の広告はアメリカとは違って日本では薬事法(でし たっけ?)で規制されていますが、あれはやはり市民のリテラシーを信用するよりも役所の良い意味でのパターナリズムで情報統制しているいい例 かなと思います。同じように、全医療従事者のリテラシーが育つ事を規制するよりも、情報統制できないものかなと漠然と考えたりしてしまいま す。
規制当局のコントロール願望・パターナリズムは、政治家、医師、患者、メディア、そして市民の間に規制当局への依存を生んで,その依存はリ テラシー育成を阻害する。
>どうも、あの場にいた多くの先生方は、「臨床研究」「EBM」という専門家集団の枠にはまってしまっているような印象を受けました。なの で、上記のような質問をしても、そういった専門家としての立場からしか返答をいただけないのかなと思いました。
みなさん,本来もっと自由な発想ができるんだけど、君とは、何しろ初対面だったし、率直に疑問をぶつけたから、勉強熱心な若造というステレ オタイプの印象を持ってしまったんだろう。だから、彼らも、ステレオタイプの答えしか出せなかったというわけさ。
外見は若いのに、ひねくれた質問の仕方をする変な奴だなって印象を与えれば、彼からも面白い答えが引き出せたのかもしれないが、あの場でそ こまで演じるのも難しいやね。まあ、この問題については、これからまだまだいろいろな人といろいろな機会に議論できるから、ご心配なく。
線維筋痛症はトリガーポイントブロックの好適応ではないかとあるMLに書き込んだところ,大学病院で研修医をやっている後輩のK君から,線 維筋痛症と鍼灸についてお手紙をいただいた.その返事.
K君、お手紙ありがとう。
> ERでほとんど家にかえっていない
そういう時期も必要なのでしょう。おそらく。一生やるわけではない。それが半年なのか、10年なのか、ごっちゃにするから議論が噛み合わなく なったり、とんでもない勘違いが起こる。
線維筋痛症という病名は、西洋医学の苦肉の策の一つです。”わからないものはわからない”と率直に言っておけばいいものの、「最新医学では わからないものは存在しない」というドグマを維持しなければならないという妄想(最近は、自動思考という、体のいい表現を使うようですが)か ら脱却できない人々が、わからないものに無理矢理病名をつけるのです。ところが、無理して病名をつけると、疾患概念がどうの、診断基準がどう のという、無駄な議論を惹起する。まあ、こういう議論も公共事業になっていて、それで、班研究やら研究費やらポジションやら、いろいろなもの が用意される、それで多くの人が家族を養えるので、まるきり無駄というわけではないのですが。
鍼灸にせよ、漢方にせよ、自分が理解できないものを否定するのは、不安が大きいから、自信がないからです。面白そうだという好奇心、道具の 使い方を理解できるんじゃないかという期待、道具の使い方を理解できて、実際に使えたら、患者さんも自分もとてもハッピーになれる。それが学 習の楽しさなのですが、この楽しさの認知程度は随分と個人差がありますし、加齢・老化の影響も大きいようです。
人を見かけで判断してはいけないというのは嘘である.人は見かけでしか判断できないというのが正しい.( 私の出会ったヘッドハンター より)
ある医師会から,「混合診療と新薬審査」についての講演依頼があった.私の方は,十八番の御題だし,何らためらうことがなかったのだが,先 方から,肩書きが問題となるとご連絡をいただいた.なぜ,知的障害児施設の医者が,混合診療と新薬審査について話すのか,ほとんどの会員が理 解できないので,前職の肩書きがどうなっていたのか,教えて貰いたいというのだ.それに対してのお返事が下記.
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前医薬品医療機器総合機構 新薬審査第二部 審査役です。
英語ですと,PMDA Director Medical Reviewerとなりますが,ますますわけがわからなくなりそうです。
「日本のFDAで、臨床トップとして4年間君臨、新薬開発と認可の裏を知り尽くしている男として、日本の製薬企業幹部で彼の名前を知らない 者はいない」 なんてキャッチコピーを作るのは簡単なのですが、”そんな人間がなんでまたダサイタマ県の郊外で精神薄弱児施設のヒラ医者やっ てるんだ?”ってツッコミがまた返ってきますので、これを説明するのがまた面倒で。
大本営に入っても、途中で投げ出したりしないで、4年間勤め上げて後進を育ててから隠居したところが、細川護照みたいな気まぐれな人間とは 大違いだとでも説明いたしましょうか。原節子、白土三平、岡林信康、山口百恵・・・引退、活動、復活の線引き、定義、使い分けは人それぞれで す。
組織に所属することが目的化してしまうと(手段の目的化という、普遍的な落とし穴)、その組織に対する不満が許せなくなり、出るか留まるか の二者択一になりがちだ。ばりばりの現役医師であることが、自分がハッピーになるための手段ではなくて目的化するのと似た状況だね。
一方、自分が所属する組織は、あくまで自分が面白く仕事をやっていくための手段・道具と割り切れば、その道具をどう使うかと工夫する気にも なるし、ちょっとした工夫で、使い勝手が少しでも改善すれば、では、この道具を使いこなしてみようかという気にもなるもんだ。
(慣れない希少疾病の審査報告書を書かされているかつての同僚への手紙から)
実は、臨床試験を吟味する力をつけるには、それが一番力が付く方法だ。人に教えるのが一番効率のいい勉強法だという格言の意味が、実際にそ うしてみて初めて身にしみてわかるんだ。特に、あなたがたのような、よくできる→つまり、ツッコミのフィードバックをくれて、教える方を鍛え てくれる人に教えると、教える方の学習効率も格段に上がる。一方、あまりよくできない人に教えるのも、教授法を鍛えることになって、実はそれ なりに意義はあるのだが、その領域だと教育上級者の世界だから、今、無理する必要はない。(もっとも時々、治験相談で、できない人たちの教育 を無理矢理させられてるだろうしね)
僕が教えるのが上手くなったのは、学生や研修医相手に紙芝居のおじさんよろしく、地方巡業を始めてからだ。彼らに納得してもらうためには、 それまで同僚相手に習慣的にやってきたことを、どうしてそうなるのか?をいちいち言語化して説明しなければならない。すると、自分で、次々と 新しいことに気付く。それをいつも仕事をしている仲間にフィードバックすると、”目からうろこが落ちる”と驚く。”こいつはよくできる”っ て、専門家仲間からも、教育者として尊敬してもらえるんだ。多くの専門医は、人間生物学的(狭義の臨床的)知識や技術はあっても、コミュニ ケーション、プレゼンテーション、教育といった現場で必須の能力が低いことを内心恥じている→実はうまくなりたいと思っているから、そういっ た能力を備えていると尊敬してもらえるんだよ。
そうなると、しめたもので、日常の診療でも、今まで意識していなかった知恵が見えてくる。それを披露すると、またまた尊敬してもらえる と いうように、いい方向に循環して仕事の質が向上していくんだ。それも、披露して、批判を受ける機会があればこそだけれど、そこは工夫の仕方次 第。僕の場合は、機構での昼セミナーとか、週に一度の外勤先での抄読会(というより、論文を読んだり、診療していて気付いたことなどをパワー ポイントで発表して、仲間のコメントをもらう)で、批判を受ける場を確保していた。
ちょっと臍を曲げればいいだけこちらもお返事が遅れました.まず,連絡係と司会進行ご苦労様でした.戸惑うことが多かったでしょうが,終 わってみると,いろいろなことが学べてよかったと思うでしょう.そして,また次も機会があったらやってみようと思う.その積み重ねが学習効率 もよくしていくのです.
私のような一風変わった考えが出てくるのは,簡単な仕掛けがあります.一つは多数意見,あるいは多くの人が当然と思って全く疑問を持たない ことに対して,果たしてそうかな?と,少しばかり臍を曲げてみることです.そうすると,案外,根拠無く自動的に信じ込んでいることがたくさん あるのです.
たとえば,”最新医学が素晴らしい”という,極めて曖昧,いい加減な観念に対して,最新のものほど危ない事例(例:開業したばかりのモノ レール,新都市交通の類は,開業初日によく故障する,最新の新薬は,世の中に出てから重篤な副作用が判明する)を挙げてみる.また,ある時期 に最新のものとしてちやほやされても,芸人同様,すぐに忘れられてしまうものの何と多いことか.そう考えると,最新医学を学ぶのは,能率の悪 い勉強だということになります.
もう一つは,その裏返しで,多くの人が振り返らない,無視するようなものに好奇心を持つことです.多くの人が面白がっているものには,自分 が新たに面白さを見つけることは極めて難しい.面白さに気づかれないで放置されているものには,面白さが眠っていて,自分がその発見者になれ る可能性があるのです.
> 来年3月8日(土)9日(日)名古屋で総合診療医学会が行われますが、3月9日(日)午
> 前9時から12時の3時間枠を頂き亀井道場スペシャルを行うことになりました。
>
> 講師の先生として是非先生と伊賀先生お二人にお願いしたいということになりま
> した。いつものように患者さんに来ていただく形のセッションです。
光栄です。学会でのライブ中継セッションの術者に選ばれた外科医と同じ気持ちです。正にウィンブル
ドンのセンターコートです。2003年7月に田坂先生に広島に呼んでいただいたのが御縁で亀井道場
に呼んでいただいてから、4年足らずでここまで来るとは、感慨深いものがあります。時代が変わるの
は早いですね。ここまで急速に亀井道場の認知が広がったのは、世界最先端、最高水準を行く医学教育
工房として、臨床はエンターテイメントだというメッセージを発し続けたからでしょう。
あの場の力を考えれば、鍛えられて育つのは当然なのですが、私は、当初、自分がこれほど育つとは思
ってもいませんでした。当初はとにかく、若い人に神経学を面白く伝えようと必死でした。しかし、そ
のうちに臨床そのものが面白いことに充ち満ちているのだから、それをその場で取り上げて一緒に学べ
ばいいことに気付き、あらかじめ用意した材料よりも、その場での発見の方がずっと面白いし、現場で
役立つことがわかってから、さらに伸びる速度が増したようです。
ある医療系メディアの編集者の方との会話から
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> 若手で、他にも洞察力のある、「医療界、トレンドウォッチャー」ってどなたか、注目人、おられます?
やだなあ,「現場からの医療改革推進協議会のシンポジウム」に出るんでしょ.あそこに優秀な若手がごまんと来ているじゃないですか.みんなす ごくよくできるのに、紙媒体にせよ、ネットにせよ、自分の意見を公開していない.彼らに、定期的にどんどん書かせて、peer reviewを受けさせることが,彼らを育てることにもなるんです.社会人として発言できる人間として、書き手としてね。今時、私みたいない五十過ぎのお じさんに頼っている場合じゃありません。”マッシー池田なんか過去の人”をキャッチコピーに仕事しないと、競争には勝てませんぜ。
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ブログの氾濫によって、かえって個人の意見が洪水の中に埋没して見えにくくなっている。危機が叫ばれて久しい既存のメディアの存在意義がある とすれば、ゴミの山から原石を拾い上げ、磨く教育事業だろう。既存のメディアが危機に陥っているのは、人材育成を怠ってきたからに他ならな い。出来合いの人材を外に求めて、その人物に商品を作らせて売ってきた。 そのため、組織内の人間は、自分の仕事に意義や面白さを見出すこと ができず、思考停止のままでひたすら肉体労働を繰り返す奴隷のような人々ばかりになってしまった。この危機は媒体の形を問わない。紙媒体だろ うと、ブラウン管だろうと、ディスプレーだろうと、人材育成を怠れば、どこにでも生じうる。
student BMJがある。 The Lancet studentがある。early clinical exposureがあるのなら、early media exposureがあってもいい。いや、なくてはならない。医療系メディアなら医学生に書かせる、そんな提案を五十過ぎのおじさんからされているようじゃ あ、先が思いやられますなあ。
ある方と医療現場でのリスクマネジメントのサービスについて議論した後のメールから
サービスを売り込む際に,リスク低減とは別に,離職防止,労務管理の問題解消,職員のストレスマネジメントというキーワードも使ったらどう でしょう.リスク低減よりもポジティブな印象を与えられる上に,看護師・医師の離職とその背景にある現場の職員のストレスは,病院・開業医を 問わず,全ての経営者が悩んでいる切実な問題です.
そのためには,クレームのデータを使って,クレームをコントロールすることにより,従業員のストレスを低減できると説明する.その際,従業 員満足度のデータも使う.さらに,離職のデータが取れれば補強材料になるでしょう.
看 護師のストレスマネジメント は多くの人が関心を持っています。もちろん”医 者やめたい病 ”についても,関心が高い.
幸い,離職のデータは,クレームのデータよりも取りやすい可能性がある.なぜなら,ストレスマネジメントと従業員満足度向上により,離職を 防止できる.離職のデータは,離職防止のための重要な基礎データになるわけですから,経営者からも従業員からも協力が得られやすい.
顧客のクレーム→訴訟リスクの上昇という回路を強調すると,縁起でもないと遠ざかる人も出てきますが,顧客のクレーム→従業員のストレス (従業員満足度低下)→離職率上昇という回路は,脅かしではなく,目の前にある切実な問題と捉えて,より多くの人が身を乗り出してくる とい うわけです.
> といろいろ考えられるが、自分の職場環境を「世間が悪い、行
> 政が悪い」と周りを非難するだけで、自分たちから変えようと
> いう団体が少ないと感じる。
「世間が悪い、行政が悪い」=自分自身が悪い ということに気付きたくないから,このキーワードで思考停止してしまうのです. あと,ほんの少し思考を進めれば,自分たちの問題となることがわかっているので,その寸前で思考を止める.
実は,自分の内に問題があると気付くことは,まさに,”身近”に感じられて,実は楽しいことなのだけれどね.魚釣り,ゴルフ,車の運 転・・・それぞれ楽しむ人と嫌いな人がいるように,世の中の様々な問題を自分の内に見いだす楽しさをわかる人とわかりたくない人がいるのだろ う.
(一般市民向けの脳卒中に関する医学記事の校正を頼まれた際に、外来語を極力排した校正をした理由について)
とくに外来語を敵視しているというわけではないのですが、特に私の場合、カタカナ言葉を使うと、文章の意味があいまいになったり、重複表現 が生じるもとになったりします。ちょうど洋服で贅肉を隠そうとするように、詰めが甘くなるのです。そこで、カタカナ言葉を使わないで表現する とどうなるかを意識して推敲すると、簡潔明快になるという経験則に気付いたというわけです。
今回のような一般市民向けの文章の推敲は、自分の文章力が試されるので、結構な手間ですが、それでも鍛えられるので、またご用命があれば、 お申し付けください。
2007年8月号の、”医学のあゆみ”をご覧になれる方は一読をお勧めします。”病院はどう
生き残るか”という特集名で、いくつか面白い記事が載っています。
必読は、千葉県立東金病院 院長 平井愛山先生の、”自治体病院の惨状”です。消滅の憂き目に遭った様々な自治体病院のケーススタディが出 色です。存亡の危機にある病院の院長が、よくぞここまで書けたものだと、その執念に敬服します。それ以外でも、香川大学医学部医療管理学 平 尾智広先生の、”地方の国立大学病院の現状”も、問題点をわかりやすくまとめていてお勧めです。
医学のあゆみ と言えば、人間生物学に関する特集ばかり載せてきた雑誌ですが、その雑誌がこんな特集を組むようになった時代の流れを感じる とともに、すっかり売れなくなっている医学雑誌の編集者が四苦八苦して企画を組んでいる様子が目に浮かぶようです。
ある医学部の6年生と議論した際に、名 郷直樹の研修センター長日記 が話題になった。以下抜粋
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「地域保健医療の実習は暇だと聞いたんですが,どうしてそれを3か月もとるのですか?」
「暇だから3か月もとるのだ」
「先輩に聞くと暇で苦痛だというんですが」
「暇が苦痛とはまだまだ若いな」
「確かに若いですけど」
「確かに若いが,“若い”ほうの話はさておき,“暇が苦痛”のほうの話をしよう」
(中略)
「怠けない時間を作らせないのを洗脳というのだ。暇な研修が苦痛なのは,何かに洗脳されているのだ。もちろん洗脳されたほうがいいのかもしれ ないが。そもそも医学を学ぶとは西洋医学によって洗脳されることなんだから。でも研修は洗脳ではない」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(引用ここまで)
そこでその学生さんは、”総合診療をやりたい”って言うんだな、これが。なぜかというと、”総合診療はなんでもやる=何もやらない=医者本 来の仕事だ”というのだよ。そこで、私は、その1週間前に、家庭医療学会の学生・研修医部会夏期セミナーで行われた、あるセッションを思い出 した。
”医療資源を操る”という題で、亀田総合病院関連の館山ファミリークリニック主催で行われたそのセッションでは、パーキンソン病の事例検討 を通して、医療事務職、ソーシャルワーカー、薬剤師、リハビリテーション、看護師のそれぞれの職種が、どう機能しているのか解説が行われた。 そこで多くの人が改めて気付いたのは、 医者って、何もやっていないじゃないか ということだった。コメディカル各職種の仕事の内容は明確に規定され ている。それに比べて、医者は、各職種にお願いするだけで、自分では何もやっていない。学生の目にも、25年商売をやっている私の目にも、そ れは全く同じように明らかだった。
その日の懇親会では、3年目の研修医と議論していて、次のような話になった。
なぜ、日本の医者は何でもやりたがるし、背負い込もうとするんでしょうかね 患者が死んでからも、家族のグリーフケアとかいって、医者が乗 り込んでいく。あんなもん、坊主に頼めばいいのに、そんなことやっているから、忙しくて過労死したりするんだよ きっと、自分では何もやって いないということが自覚されて、そこに罪悪感を感じて、何かをやってしまうんだよね。
そういう意味では、家庭医療・総合診療=プライマリケア場面では何でもこなせる ってイメージを前面に出す作戦て危ういなあ。家庭医療・総 合診療=何もやらない医者っていうと、誰も来なくなるから、そういう作戦を採らざるを得ないのだろうけど。
特に儒教文化圏では、一般市民の間でも、刻苦勉励が賞賛され、フリーターは非国民とされる。ましてや、医者が”暇してます”なんて口が裂け ても言えない。だから医者辞めたい病が顕在化しないまま重症化してしまう。医者辞めたい病の有病率・重症化率を診療科別ごとに出したら、家庭 医療・総合診療・救命救急部門て、高くなるだろうなあ。
我々が実践しているのは西洋医学。自然科学から生まれてきた学問。西洋の自然科学は、暇と金の両方が有り余っている連中によって支えられて きた学問だ。だから暇が必須なんだ。なのに、儒教文化圏での西洋医学には、暇は許されない。これじゃあ、やっぱり無理が来る。
暇がない=考える暇がない=思考停止の連続を強いられるってことだ。 plan do seeというけれど、doの連続ばかりを強いられたら、誰でも辞めたくなるわな。医者が辞める辞めない以前に、そもそも危ないよな。医者が 清く、正しく、美しく、貧しく、そして、忙しくでは、医者ばかりじゃなくて、患者も病 気になる。
その意味でも、次の職場を選ぶにしても、無理して忙しい職場に目を向ける必要はない。暇な仕事の優先順位を高くしよう。そして、うまいこと 暇な仕事にありついたら、もう、思考停止の連続を強いられることはない、これが本来の自分を生かす仕事なんだと思おう。忙しい仲間から背を向 けて、医者のくせに暇している犯罪人だと決して思わないように。
ある,とても優秀な学生さんとのやりとり
> 今なら「答えを出さないことに対する不安や恐怖に打ち勝つことができる」人はどんな職 業でもとて
も強いと思います。 臨床で働いていくと決めた以上、一生勉強し続けなければならないことは覚悟して
います。
”強い”とか,”一生勉強し続けなければならない”とか,”覚悟”とかって言葉が出てくるうちはま
だまだです.もっともっといい加減で,のらりくらりと逃げまくるような行動感覚が必要です.
> あとはい かに他人との競争ではなく自分を磨くことに集中できるかなのだろうと思います。自分で納
得できる選択ができるようになりたいです。
ここもそうです.”自分を磨く”とか,”集中する”とか,”納得”とか・・・
逃げる,かわす,ごまかす,しらばっくれる,手を抜く,とぼける,忘れる,待つ,さぼる・・・臨床
現場では必須の技ですが,あなたの場合,こういう技の使い方がとても下手です.ですから,学生の今
からこういう技を意識して使うようにしていく必要があります.
私も下手だったからよくわかるのです
Trust Nobodyをもう少しかみ砕いて言うと,他人が提示する仮説を常に批判的に吟味せよ.そうしないと,せっかく提示してもらった仮説があなたにとって役立 たない.という警告だと思いました.他人が提示してくれた仮説は,その人固有の特定の条件下で設定したものだ.だから,あなたは,その仮説 が,自分の,どんな条件下でどう応用できるかを考えなければ,その仮説が役立てることができない.そればかりでなく,馬鹿な仮説だと却下し て,せっかく仮説を提示してくれた人を逆恨みする羽目になる.というわけです.
たとえ
缶切をぽんと与えられて,これは便利な道具だから使ってみなさいと言われても,実際に,1.缶切が必要な缶詰があって(マグロのフレークの缶 詰のように手で開けられるもののある),2.その中身が必要になって(缶詰のパイナップルを食べたくなって),3.かつその缶切の使い方がわ からなければ,缶切の有用性を認識できない.ワインオープナーがあっても,先端部分が栓抜きに使えることに気づかずに,瓶ビールを飲むために 別に栓抜きを買ってしまう.
こう考えてみると,Trust Nobodyという言葉は,仮説を提示してくれる人をないがしろにするのではなく,その人とその仮説を生かす言葉であること,さらには,trustという 言葉の背景にある白紙委任の怖さ,白紙委任が決して相手のためにも自分のためにもならないということを教えてくれます..
(共著者として書いたcorrespondanceがNEJMへアクセプトされたの受けて、筆頭で書いてくれた若い人への返事)
これもPMDAを辞めることを決めて、早めに仕事を整理して半ば隠居状態の余裕ができたからだ。でなけりゃ、五十過ぎの神経内科医が大腸癌 でのCOX2発現に関するNEJMの論文を読むなんてこと、ありえないわな。
この5月後半以降、通勤電車の中で、医学論文ではなく、歴史書を読む時間ができてから、ようやく頭が本来の働きを取り戻した。この感覚は自 分だけじゃなくて、昨日昼休みに2時間ぐらい議論した友人(医者ではないが、研修医にコミュニケーションを教えている)も、4年前に審査セン ターに来た当初の私に戻ったと言ってくれた。まあ、この4年間も、地方巡業の時だけは、本来の自分だったんだけどね。
加 藤大基先生 は病院辞めてQOLがぐっと良くなったそうだし(それでも古文書を読む時間がないからまだまだご不満なようだが)、私の場合は,まずは ADHDやアスペルガーの勉強を、歴史の勉強に置き換えてbrain stormingの余裕を持たせるようにしよう。
”官僚の仕事と異なり、アカデミックな研究は、ぼんやりしている時間がないとよいものが生まれてこない”(佐藤 優。獄中記P443)
(官僚も、いい仕事をするためには,本来はぼんやりしている時間が必要だと思うのだけれど、多くの官僚はそれがわからなくなってしまっている し,わかっている官僚も,そういう人に限って多くの仕事を抱え込んでしまっているから,ぼんやりする時間など夢のまた夢ということなのだろ う)
○非言語性コミュニケーションは恣意的に形成できないが、言語性は可能: マクドナルドに言われるまでもなく、笑顔は無料だが、蜜月時代を 過ぎてしまったら、たとえ金をもらっても、配偶者に納得してもらえる笑顔は作れない。ところが、言葉は、感情とは別の部分で生成されるから、 蜜月時代以降も容易に見栄えのいいものが作れて、相手の心も掴みやすい。その内容も、主観的な感情よりも、目に見える具体的成果(例:自分が 学会発表ができた、自分の実家の難局を切り抜けられた、子供の成長)について、パートナーの貢献によるところが大きいと言うと、説得力が増 す。
○結局は対立構造に基づいたゼロサムゲームではなく、Win/Winの関係を築いた方が、お互いに実利があると、配偶者に気づいてもらうこ とが重要な代用エンドポイントになる。もちろん真のエンドポイントは自分がハッピーでありつづけること。
○たとえ十二使徒であろうとも、肝心の時、男は頼りになりません。そういう時は女の底力を見せましょう。それ以降は、底力を見せつけられた 男の操縦がぐっと容易になります。(イエスの男の弟子達は彼が逮捕された後、逃げてしまう。怖くなったのである(マルコ14・50)。これに 対して、イエスの周囲にいた女性達は逃げなかった。怖かったのだけれども逃げずに、イエスの十字架の上での死を見届け(マルコ15・40)、 埋葬を見守った(15・47))。
> 正岡子規の懐かしい名前が出て、びっくりしました。先生はもしかしたら、松山のご出身でしょうか。
> 私俳句を趣味の一つにしておりますので、趣味の方以外でこのような本を読まれる方は、失礼ながら
> ご年配の方が、多いと思っておりました。
私は、生まれこそ夏目金之助の通った東京都千代田区立錦華小学校の目と鼻の先にある産院ですが、通った大学は、その小学校のある駿河台から 神田川一つ隔てた場所だったため、大学卒業まで東京を出たことはありませんでした。その後の経歴も、英国の曇り空の下で憂鬱な時期を過ごした 経験を除いて、漱石との共通点はなく、残念ながら松山はおろか、愛媛県のどの土地にも未だ御縁がありません。ましてや俳句の才もありません。
すでに半世紀の馬齢を重ねたので、立派な年配者の仲間入りを果たしたと思っており、明日の我が身と思いつつ、床から起きあがることのできな い方々と、お話しするのを糊口を凌ぐ伝手としたまではよかったのですが、なにせ無為徒食を重ねての健康体、実体験の欠如は如何ともし難く、子 規を読むことで何とか取り繕おうとした、単純な思考回路は、「病床六尺」に出会った思春期以降、全く進歩がありません。
さる妙齢の女性から、能率のいい情報収集の仕方を教えてください と問われて、さて、どうしたものかと。きっと、「情報を集めないのが一番 効率的な情報収集方法」なのだろうけれど、随分意地の悪い奴だと彼女に思われたくないばっかりに、無理してそれらしい答えをひねり出した。
媒体
○二次情報誌:ACP Journal Club、Journal Watch
○抄録日本語訳:NEJMの日本語抄録, JAMA日本語版
○目次配信サービス
○耳学問、井戸端会議:口コミ、メーリングリスト
○ネット上の検索
時間
○移動時間の活用:通勤、出張、余暇(臨床のトップジャーナルを娯楽雑誌として読む)
記憶装置とその操作
○記憶の優先順位を厳しく:”覚えないこと、捨てること”を常に明確にして、メモリの安全域を常に幅広く取る
○やはりメモリ領域の確保のため、覚えないかわりに、思い出すきっかけを作る(って、こうやって書いているこのメールも、次の議論の機会に備 えるため)
○他人を記憶装置として使う:メール、おしゃべり(って、こうやって書いているこの文章も、いつか他人に思い出してもらうため)
神経内科の病気は治らないから,神経内科は嫌いだという人がいます.自分が病気を治すと思い込む方が手っ取り早く満足できるからでしょう. その思い込みがずっと続く幸運に恵まれれば,医師として満足な人生が送れるかもしれません.でも,多くの医師は,そんな幸運にはなかなか恵ま れないものです.
自分がそんな幸運だと思えない人には,病を負った人に関わっていく地場産業を医療と呼ぶ との私の主張を裏付ける具体例を御紹介します.
昨日,Discovery Channelで,”カ ンボジアに伝説の獣を探して ”
と題した番組を見ていたら,あるベトナム帰還兵(アメリカ人)のカンボジアでの仕事が紹介されていました.
彼は,思うところあって,クメール・ルージュの手になる地雷の特産地で,義足を作る仕事を始めましが,足を失った者は,足と同時に仕事も失 う結果,地域社会でも厄介者扱いされることに気づくのに時間はかかりませんでした.
そこで彼は,地域に桑を植え,蚕を育て,足を失った者が絹織物の職工となって働けるようにしました.今では,地雷の代わりに絹織物が特産品 となったそうです.
彼のように栄光に満ちた形ではなくとも,自分なりに,病を負った人に関わっていく仕事がしたいと思っています.
神経内科医って、地図がない土地を山歩きすべきではないって思っています。私は、児童精神科医というのは、地図がない土地をあてどもなくさ まようことに不満や不安を持たない無謀な人々のように思っていました。(というより、精神科医全体を、人間の感情・思考・行動に介入し制御し ようとする身の程知らずな集団だと思っています)。それが、15年ほど前に重度知的障害の診療に携わるようになってから、地図がないところを うろつく無謀さを面白さと理解するようになりました。さらに、ここ4-5年は、充実していると思い込んでいた神経内科の地図で、基本情報の不 備が次々と発見できるようになり、あちこちの伏流水に転落し、地図の上になかった洞窟や、樹海に入り込んで迷うようになってから、今まで、こ んないい加減な地図を有難がって歩いていたのかと、自分に呆れている次第です。
この過程を成熟と呼ぶか老化と呼ぶかはどうでもいいことです。私の場合はそれだけ時間がかかったということです。
2007年5月、名古屋で開催された日本神経学会会期中、名古屋市立大学医学部で公演した。出席してくれた学生さんからの手紙への返事。公 演後の懇親会で、例によって、 二種類の病気 についてお話しした
昨日、名古屋市立大学で先生の講義に参加しました。
先生のお話は、かつて亀井道場で伺ったことがありました。
毎回、学生の痒いところに手の届く内容を教えて下さり、
誠にありがとうございます。
昨日も大変勉強になりました。
特に、リカちゃん人形とプラレールのお話は印象的でした。
問診では、患者さんの日常生活の話が大変重要であることがわ
かりました。
今後、問診をとる時にしっかり役立てたいと思います。
その後、食事会で
私は先生の向かいの席に座っていたのですが(笑)
先生が、
「医者は患者さんの病気を治すんじゃない。
患者さんを支えてあげればいいんだ。」
と強く教えて下さった言葉が心に残りました。
今まで私は
「神経内科の疾患は治らない、
だから神経内科医になっても…」
と考えてしまっていたのですが、先生のお話を伺って、
医者の原点を考えさせられました。
本日は、神経内科学会の総会に参加し、
先生の発表を拝見させて頂きました。
とても興味深く「へー!そうなんだ!!」
と思って聞いていました。
レジュメを頂きたかったのですが、品切れでした。。。
残念です。
この2日間、先生のお話を伺ったり、
先生に食事会の席で私達の話を聞いて頂いたり、
先生の魅力を感じっぱなしでした!!
「医者は患者さんの病気を治すんじゃない。
患者さんを支えてあげればいいんだ。」
この言葉を胸に刻み付け、原点を忘れることなく、
今後、より一層学業に励んでいこうと思います。
今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。
公演ばかりでなく、私のポスター発表まで足を運んでいただき、ありがとうございました。レジュメが品切れになり申し訳ありませんでした。添 付ファイルでお送りいたします。パワーポイントファイルになっています。
どんな病でも、それを拒否するだけで満足せずに、さらに”超健康人”という幻影を追い求める人々がどんどん増えています。
昔は、”病を得る”という言い方をしたものです。昔の人は、病んでみて初めて学ぶことがあることを知っていたからでしょう。現代の、超健康 人幻想は、そんな知恵とは無縁のようです。
医者が病気を治すという医者側の考えと、超健康人という患者側の幻想に、共通する傲慢さを感じます。
”神経内科の病気は治らないから”と言う人に対しては、相手が誰であろうと、「あんたは、自分が治すと思いこんでいる”病気”だけを相手に していればいい。僕は”病気”ではなく、”病を負った人間”を相手にするから」と、学生の頃から申し渡していました。
それから、「医者が病気を治すと思いこんでいると、患者さんが自然に良くなるのを邪魔していることに気づかなくなってしまう」ことも覚えて おいてくださいね。抗菌薬の不適切な使用による耐性菌の出現なんてのは、その典型例ですね。
またお目にかかれることを楽しみにしています。
出雲では島根県立中央病院から10人弱、学生さんが15人ほどだったかな。いつものように、さんざん鍛えられた。
”池田先生は、学生の質問に全力で回答してる”と言われたけど、そりゃ当たり前なの。だって、若い人からは、物凄い球が出てくるからね。そ れに対応しようとすると、必然的に必死にならざるを得ない。
球を出した(質問した)本人は、どんなに凄い球を出したのか、よくわかっていないから、あっけらかんとしているけど、脇で見ているベテラン 連中は、あんな球、自分では拾えない、池田はどうやって拾うんだろうって興味津々で見ている。そこで、ただぼうっと突っ立っているだけで見逃 したら、なんだ、池田ってその程度なのか、自分ならもうっちょっとましな処理ができるのにって思われちゃう。そんなことになったら、DVDが 売れなくなっちゃうし、お座敷もかからなくなる。だから必死になるのは当たり前でしょ。
マ イケル・チャン みたいに、コーナーぎりぎりの球を拾いまくるって感じね。
前回の亀井道場では、僕ばかりじゃない、そこへ来てくれた守屋章成君も、学生さんの質問の鋭さに感心して、彼も必死で答えてくれたよ。あそ こがウィンブルドンのセンターコートだってすぐわかったんだね。
思うところがありまして、あれ以来・・今日、?年振りにHPを拝見いたしました。数年前の私のメールは間違いでした。ごめんなさい。
同じ文章を読んでも,年を経ると感じ方が違ってくることはしばしば経験します.私にとって安吾なんかは,その典型です.高校の夏休みの宿題 に選んだ時は,なんだこいつ.いい年して,不良を気取って,どこが面白いんだと思っただけでした.
別に安吾を気取るつもりはありません.何年かたって読んで受け取り方が違うということは,読み手の変化に負うところが大きい.書き手の方 は,その間に文章が進歩したとは思っていませんから.
100%悪とか,100%善という人間が存在しないということはわかっていても,その人間の発する言動,行動は善悪のどちらかに分類したく なります.
実はそれも,白黒まだらだったり,白黒の他に様々な濃度の灰色の部分もあちこち混じっていたりすることが,後になってわかったりします.
もっと後になると,光の当て方,見る方向によって,いろいろな色が混じっていたり,暗闇では美しいと思っていたことが,明るいところへ出る と魅力が失せてしまうこともあります.
かと思うと,目を閉じて触ってみると,感触が気に入って,色合いの気に入り具合がまた変化したりします.
同じ物を見ているはずなのに,昔の見え方,捉え方と違う,そういう変化を訝しく思わず,却って好ましいと思うようになるのは,年老いて自分 が固まってしまうことを恐れるからなのでしょう.
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2007年家庭医療学会研修医学生部会夏期セミナー打ち合わせの連絡メールから:まずは学生さんのメール
グループディスカッションのテーマについて、お伺いしてもよろしいでしょうか。自分と向き合う意味でも、自分の体験や考えを元にディスカッ ションするのは とても大切なことであると思います。
一方で、私や低学年の方はまだ実感が沸かないこともあるのではと心配しております。ディスカッションの題材として医師の働き方を考え直す ケース(僻地医療 に携わる医師、告発されることの多い産科医の現実をとりあげる等)について何か共通のテーマを用いたりは致しますでしょうか。(個人的には、できれば家庭 医療に近いトピックスが面白そうだなと感じてます)
もちろん低学年向けに共通のテーマを設定せず、セッションの対象を絞って、高学年向けにもできます。(内容が濃くなる反面、参加人数が減る かもしれませ ん)少しずつ内容について詰めていけたらと思っておりますが、先生のお考えをお聞かせ頂いてもよろしいでしょうか。
上記に対する返事
> 一方で、私や低学年の方はまだ実感が沸かないこともあるのではと心配しております。ディスカッ
ションの題材として医師の働き方を考え直すケース(僻地医療に携わる医師、告発されることの多い産
科医の現実をとりあげる等)について何か共通のテーマを用いたりは致しますでしょうか。
このところは、全く心配していません。私は、低学年の医学生が、経験不足で議論をする上で置いてき
ぼりになるとは決して考えていません。
低学年の医学生は悩んでいないでのでしょうか?決してそうではありませんよね。悩みはたくさんある
はずです。悩みがないと考えている人でも、実は人に話すのが恥ずかしいから、悩みを無意識のうちに
無視してるだけだったりします。”実感が湧かない”どころではなく、ベテランの医師よりもずっと問
題意識が高かったりします。夏期セミナーに来るような人ほどそうです。
忙しさのあまり、自分が医学生の時のことを忘れている(とくにネガティブな思い出を無意識のうちに封印し
ている)研修医と、将来のことを不安に思っている学生は、相補的にコミュニケーションできるのです
。高学年の人は、低学年の人の話を聞いて、ああ、そうそう、そういうことで悩んでいたっけと記憶が
想起され、共感と対話が生まれるでしょう。
低学年が高学年に、学生が研修医に気づきを与えるのです。教育が双方向と言われる所以です。
そもそも、私がキャリアパス危機管理の問題を考えるようになったのも、ある学生さんから、”池田先
生の失敗談を教えてください”と言われて、”あっ、そうか、失敗談て大事だよなあ、でもたくさん失
敗しているから、どれから話したらいいかわからないよなあ。話すなら、やっぱり一番ひどい失敗談か
ら話すんだろうなあ。医者の一番みじめな失敗っていうのは、やっぱり医者になったこと自体が失敗だ
ったというシナリオだよなあ。” と思いついたからなのです。
医学部4年生が、医師になって25年目の私にキャリアパス危機管理というテーマを私に与えてくれたので
す。低学年と研修医の間に何の溝がありましょうか。
キャリアパスを巡って生まれる共感は、過去、現在、未来の自分自身の問題ですから、僻地医療や産科
医の問題の議論から生まれる共感よりも、より強く感じられるでしょう。
大化の改新一つとったって,勝てば官軍とはよく言ったもので,天皇の目の前で首を刎ねちゃうってんだから,あんな無謀なクーデターがよく成 功したもんだ よ.俺達に逆らうと,あんたもああなるよって,皇極天皇(中大兄の母親)を脅かす意味もあったんだろうけどね.鎌足ってのは陰謀の塊みたいな男だけど,天 智天皇ってのもひどい食わせ者でね,クーデターの首謀者のくせに,長い間,天皇にならなかったんだよね.当時,天皇ってのは,かなりヤバイ仕 事だったみた いで,クーデターの後,皇極天皇が早く辞めたがったのに,天皇の位の押し付け合いが起こって,すったもんだの挙句,ようやく孝徳天皇が就いて,9年間やっ て(この間,孝徳天皇は中大兄からひどい嫌がらせを受けている)死んだ後でも,中大兄はまだ天皇にならずに,なんと,皇極天皇の返り咲き(斎 明天皇).中 大兄が天皇になったのは,クーデターから18年もたってからなんだぜ.
高校の科目では、歴史が一番好きだった。高校時代は、どちらかというと、金の動き、権力争いで割り切って説明してくれる、世界史の方がわか りやすくて好き だった。日本史に興味を持つようになったのは三十半ば過ぎかな。公私ともに、ごたごたがたくさんあって、押し一辺倒でも、引いてばかりいても、だめで、の らりくらりとか、中途半端とか、使い分けとか、それ以前は嫌っていたアナログなキーワードが、自分自身のキャリアパスを大きく左右することが わかってきた 頃。
医者になる気が全然なかったのに,理科I類を蹴って,医科歯科に入ったのは,当時,理Iや理IIを蹴って医学部へ行くのが流行だったことも あるのだけれ ど,人間の思考・行動とその結末の事例検討にはとても興味があって,医学部に入った理由があるとすれば,そこかな.歴史がアウトカムが既に分かっている過 去の事例検討集なら,臨床は,アウトカムが予測困難な事例検討.とても難しいけど,難しいのは面白そうかなと思ってね.実際には,こっちの命 も磨り減る事例検討の毎日で,よくぞご無事でって,自分自身に毎日言ってるけどね.
私を含めて、四十を過ぎると、多くの人は自分の可能性を見限ってしまって迷うことが少なくなります。孔子でさえ不惑になってしまいました。 すると思考を停 止してしまって、自分の頭の中身を自分でよくわかっているつもりになってしまいます。そういう人と議論をしても、ほとんど役に立ちません。効率が悪いので す。その点、若い人は迷っているからいいですね。迷っている限り、考え続けますから。
お手紙ありがとう。ご無事で何よりです。
> 研修医生活もあっという間に9ヶ月が過ぎ、
この、あっという間というのが凄いね。悪戦苦闘だと、あっという間とは思えないものだよ。僕なんか 、一年目は、辞めたいと思いながらの”一番長い日”の連続だった。
> 人生をうまく切り抜けるワザばかりが身に付 >いていくような気がしますが。
いや、これが最も大切なものではないのかな。まず、これを身につけないと。 自分自身への攻撃性(うつ病の主たる病因)、救世主(になりたい)願望(望みが叶えられなかった時 の反動がこわい)といった、医療者自身に内在するありふれたリスクをまず低減できるようにすること だね。診療そのもののリスク低減を本格的に学ぶのはそれからでいい。
> この9ヶ月間、僕にとって最もトラウマというか、不安に思っ
> ていることは、研修医生活が「意外に辛くない」ことなのです
僕もねえ、大学の同級生が食道癌で42歳で死んだ時から、あいつが死ぬのなら自分も明日死んでもお かしくないじゃないかって緊張感を維持してきたかったんだが、それからもう7年も経って、五十まで 生き延びてしまうと、緊張感が薄くなってね。また誰か同級生が死んでくれれば、少しは強化できるん だが、そのうち、いつ死んでもおかしくない年に近づくと、これまた緊張感がなくなる。まあ、自分の 死を意識して緊張することが必要と考えること自体、生きることに執着している裏返しだから、善し悪 しなんだけどね。
来ると思っていた緊急事態がなかなかやってこないと、それもまた不安になるというわけだね。まあい いじゃないか。来ないなら来ないで。そのうちきっと来るから、それまでは、好きなことをやりながら のんびり待てばいいさ。
一見深刻な悩みのように見えるが、案外そうでもないのかもしれない。つまり、あくまで”予想してい た事態”との比較なので、予想していた事態がひどく深刻であれば、現場に入ってみて相対的にはそれ ほどでもなかったということになる。特に今時の学生さん・研修医は、臨床現場の惨状に関しては耳年増になっている からね。
もう一つ、見たくない物、経験したくない事態を無意識のうちに合理的に回避できている可能性がある 。それはそれで目出度いことだ。 いずれにせよ、焦ることはないし、まだ9ヶ月だからね。そちらで道場を開催する5月まで経過を見れば、また違った見方も出 てくるだろう。
学生同士で症候学(って、身体所見ばかりではなく、自覚症状→問診も含めるんですよね?)を学ぶ本ですが、定番過ぎて申し訳ありませんが、 生坂先生の
○めざせ!外来診療の達人―外来カンファレンスで学ぶ診断推論
○見逃し症例から学ぶ日常診療のピットフォール
それから、
Lawrence M. Tierney、 Mark C., M.D. Henderson The Patient History: Evidence-Based Approach
(日本語訳 聞く技術―答えは患者の中にある〈上〉(下):日本語訳は索引が貧しいとの評あり)
は、やはりお勧めです。
また、いろいろな検査が普及する以前の、昔々の症例報告は、病歴や身体所見がしっかり取れているはずなので、そこから病歴と身体所見を抜き 出して、この病 歴からどんな疾患を考え、どんな項目を重点的に診察するか、また、どんな所見を予想するか、なんて問題集が作れるのではないかと思っています。
X線CT(それも頭部だけ)が普及しはじめたのが1980年(私が医学部4年生だった)以降です。そのころ本屋で売っていた神経疾患の問題 集は、CT普及 以前に作られたものばかりで、この病歴からどんな疾患を考え、そのためにはどんな診察をするか、どんな所見を予想するかという設問がずらっと並んでいて、 それは面白かったものです。神経内科の面白さが学生にも簡単に伝わる、いい時代でした。ところが今はどうでしょう。今、私が学生だったら、神 経学の面白さ は理解できなかったかもしれません。本来は、MRIが出現したからこそ、病歴、症候学の検証がしやすくなって、もっともっと面白さを伝えられるようになっ ているはずなのですが、現実の神経学教育は、私の学生時代よりむしろ貧しくなっています。我々の世代の責任です。その責任をこれから少しでも 果たしたいと 思っています。
ちなみに、面接・問診→診察→検査の順に学問が難しくなるのではなく、逆に、この順にやさしくなっていくと考える方が、学習者自身の戸惑い が少なくて済み ます。神経疾患で言えば、MRI画像の読影なんて、数をこなしてパターン化して記憶するだけの作業ですから、幼稚園・小学生からでもできます。ところが、 面接・問診はそうはいきません。
私なんか、職歴20年過ぎてから、ようやく面接・問診の難しさ=面白さに、オシアの皆さんをはじめとする若い人達に気づかせてもらいまし た。それまで、面 接・問診の難しさに気づかずに(=もっとうまくなりたいと思わずに)、自己流で20年以上やってきてしまった自分に気づいて、愕然としたものでした。それ でも、学ぶことに遅すぎることはないと思い直して、週末を利用して、各地に修行に出ているというわけです。おかげさまで、ここ3年、大分、面 接・問診が伸 びましたし、診察もうまくなりました。その証拠に、週に一度、診療している病院でも、若い優秀な神経内科医達が、私のことを褒めてくれる回数が増えまし た。これも、皆さんが私を教育してくれたおかげです。
大学の同級生と久しぶりに会った後の手紙.
解脱とのこれまたもったいないお言葉だが,正しくは離脱、戦線離脱だ。学生時代からの僕を知っているだろう
。もともと線の細い方だ。ストレスに強い方じゃない。そいつがインパール作戦の真っ只中での野垂れ
死にが嫌で,敵前逃亡しただけだ。ただ、逃亡先が大本営という、普通は考えにくい場所だっただけに
,その判断が物珍しく見えるのだけれど、世間様から後ろ指を差されることさえ耐え忍べば、こんなに
安全なところはない。
敵前逃亡は,抜け忍カムイと違って刺客が来るほど偉くないのが残念だ.離脱の結果として解脱に至れ
ばとかすかな望みは捨てていないが,それもこれも,解脱となれば,人畜無害と見誤った若い娘が近づ
いてくるのではないかという,これもかすかな望みを捨てていないがゆえ。解脱というと何やらハイカ
ラな感じがするが、何のことはない、ありふれた加齢現象の一つに過ぎない。つまり、年を取る→死に
近づく→死ぬ準備をする。そういうことだ。
第 7回薬学 生の集い年会 でのタリウム事件をあつかったシンポジウムに呼ばれて,参加できなかったことへのお詫びの手紙.
お手紙ありがとうございました.ドタキャンに近い状態になってのキャンセルで申し訳ありませんでした.タリウム事件を取り上げたのは,悪い ニュース を,自分には関係ないと切り捨てず,明日は我が身と,身近なこととして捉えた点で,素晴らしい発想だったと思います.また,メディアの現場で働く記者さん に,学生の方から働きかけて,実際の仕事の様子を聞く機会を持ったのも素晴らしいことです.なぜって,”マスコミは・・・”というお決まりの 文句で,実情 を知ろうともせずに,切り捨てるような真似をせずに,メディアとの対立構造を解消しよう,それだけでなく,メディアとの関係を建設的な方向に持っていこう というメッセージが伝わってくるからです.
命のやりとりの現場で働く人間には,リスクマネジメント,リスクコミュニケーションは常に切実な問題としてついて回ります.私も,会の活動 に是非と も貢献したいと思っていますので,今回に懲りずに声をかけてください.
(某赤十字病院の若手からもらった手紙への返事.そこの神経内科部長を,以前私が旭中央病院で指導していた)
拝復 大林 宗先生
御手紙ありがとうございました.ここのところ,週末も医学生の寺子屋教育にあちこち飛び回っており
ました.本業も寺子屋教育も忙しく,HPの改訂が遅れ気味になっています.
茅ヶ崎部長とはシドニーの世界神経学会議で久しぶりに顔を合わせました.彼はいつも自信過剰気味ですか
ら,よく教育してやってください.とくに四十を過ぎれば,教育してくれるのは若い人と患者さんだけ
だから,若い人の批判に素直に耳を傾けるようにと池田が言っていたと伝えてください.
”今の若い人は・・・”という言葉が口から出るようになったら,医者の資格はありません.というのは,自分の若い頃がどうだったか,自分
が若い頃,”今の若い人は・・・”と言う年寄り連中をどう思っていたかを忘れた証拠,つまり高度の記銘力障害が発症した証拠ですから.
大切な自分自身のことを忘れてしまう人間が,患者さんの診療なんかできるわけがないじゃござんせんか.
敬具
横井先生,池田です.香川でも,岡山でも,若い人が興味を持つことは同じなのでしょう.大道芸の面
白さとそれを企画する興行師の面白さに気づいたのだと思います.自分自身が,あんな興業を企画して
みたい.そういう気持ちになったのでしょう.大学祭で,歌手を呼ぶ感覚です.
実際,岡山や,この夏,家庭医療学会の研修医・学生部会に呼ばれた時の新潟の学生さんもそういう感
覚で面白がっていました.
そういうふうに学生が面白がって動いてくれる,それを見て,ああ,自分が次の世代を育てるのに貢献
できているという充実感が我々の方に生まれる.岡山の安田先生が学生さんを相手にして嬉しそうな顔
をしているのが目に浮かびますよね.そういう関係が香川でもできつつあることがわかります.
> という意見が出たようで、さっそく「全部面白いから全部やりまし
> ょう!」と返事しました。
そうです.面白いからこそ広がる,継続できる.私もいつもそう言っています.私の地方巡業も,教育
とか,神経内科のノウハウ伝授とか,そんなことはあくまで副産物であって,何よりも,私自身が面白
いからやっています.現場のみなさんがいつもやっていることを,私は多くの人の前でそれを披露する
だけなのに,それだけで,芸人として,やんやの喝采を浴びることができるのです.こんなに面白いこ
とはありません.
学生さんには,どうぞ気軽にご連絡いただくよう,お伝えください.
2005/10/30
池田正行
(カリフォルニアに住む友人から)
池田先生
> media literacyを言う前に,まず,advocacyありきということ
> ね.お互いに相手が何なのか知らずに批判しても始まらない.
車輪の両輪のようなイメージがありますが、米国は生活全てにおいて
リテラシーがない人はどんどん損する社会なので、リテラシーを
追求するのは消費者側の責任というか領分、と思っている
ように米国人を見ていて思えます。そういう意味でも本当に格差の
大きい、極端な国ですね。
一方でadvocacy好きな国民というか、advocacyが発展するのも
米国民らしいのかもしれないですね。
自分で切り開くこと好き・チームプレー好き・異業種好き・なので。
> 議論をする→教育しあう(教育というのは本来双方向:地方巡
> 業でつくづくそう思います.若い人ほど,いろいろ教えてくれ
> る.患者さんはもちろんだけれどね.
> この教育しあうところがまた楽しいんだけれど,この楽し
> さは,mediaを仮想敵と捉えている限り,わからない.
全く同感です。僕がインターンしているHH&Sの所長Vickiも
「苦労は多いけど、うまくいったときはすごくやりがいがある」
「新しい仕事を自分達が創っていっているという実感がある」
と言ってましたし。
> mediaは,役所や政治家と同じで,仮想敵になりがちなのね.
> でも,この仮想敵になりがちな集団は決して均一ではなくて,
> 中に入ってみると,驚くほど優秀な人や面白い人がいる.そう
> いう人たちと知り合って,議論して学んでいく面白さ,楽しさ
> を日本でも広めていく仕事は,これまた楽しいですよ.
NHKのがん治療に関連した番組に対する論文について相談されて、最初に拝見した時は
ご指摘の通りの内容のNHK批判論文でした。そこを超えていかないと本当のメディアの力
を理解したことにはならないし、堂々巡りから抜け出せないですよね。
批判は批判で重要なんですが、それだけではadvocacyという発想に
至らない。むしろNHKの思惑は関係なく、その影響力をいかに
活かして誤解を是正する道具とするか、正しい情報普及の流れにどう載せるか、
という戦略が重要と思います。そういう意味では医療界・行政は全般的に
ナイーブな気がします(言いすぎでしょうか)。
自分にはただ仮想的として敵対するだけでは勿体無いと思えてしまうのです。
混合診療についてわかりやすい解説を書いてくださった雨森正洋先生への手紙
雨森正洋.保険診療+自由診療(自費診療)=混合診療ではない?特定療養費制度廃止の影響について 治療 2005年3月増刊号 Vol.87 増刊号874-9
> 仕事が多すぎて、効果より、患者さんの安全性の
> 評価が最優先されているように思います。
ご指摘の通りです。有効性の厳密な評価までできていない。
> 医療保険自己負担より、健康食品等につかうお金の方が
> 多い患者や消費者が多すぎる様に思います(><)
ここをどう考えるかですね。そこで雇用を生むという公共事業的な色合い、結果的には税収になっている?という考察の仕方ももあります。健康 食品産業 を切り捨てるよりも、鹿しか走らない道路やタバコ産業を撲滅する方が先だと、厚労省の役人は思っています。
>
> そういう意味では、海外で認可されている医薬品として
> 審査して、白黒つけるほうが良いと思うのですが
> おおよそイチョウの葉のような代替医療には
> 治験は廻ってこないのでしょうね(><)
治験をやるには、インセンティブが働く必要があります。商品としてどうなるかは度外視して純粋に科学的に検証しようとする人はいません。イ チョウの 葉の治験をやるかやらないかは、治験をやることによってどれだけ利益が上乗せできるかによります。現実には莫大な金をかけて治験なんかやるより、健康食品 として売った方がずっとコストがかからないし、儲かるから、治験をやらないわけです。
>
> 国民の医療費とは、保険の医療費だけでなく
> 柔道整復師、あんま、マッサージ(一部医療保険ですが)
> 健康食品・器具を含めた総費用と思います。
> その辺も含めた医療費のパイ の適正な配分は
> どうあるべきか?というのを考えるのは
> どこの仕事なんでしょうか??
これはまさに我々一人一人の仕事です。誰かやってくれとみんなが考えていると、誰も考えないか、誰かが考えているふりをして勝手に自分が有利なように取り仕切ります。どちらに転んでも悪いシナリオです。この悪いシナリオを防ぐためには、我々一人一人が考えないといけないのです。先生の今回の原稿も、 先生自身の勉強であり、印刷されたものが、たくさんの人に読まれて、読んだ人の考える材料になるのです。
「ルターの95か条の意見状は2週間とかからずにドイツ全体へ知れ渡り、1ヶ月のうちにはほとんど全キリスト世界にゆきわたった」 高校時代の教科書にはそう書いてありました。
”これはなぜだと思うか?”私の高校時代の恩師はクラス全体に問いかけました。しかし、その記述の後には、カトリックとプロテスタントの争いが書いてあるのみで、彼の問いの答えは見つかりませんでした。
”そのすぐ後には答えは書いてないよ。前にある。2ページ前をめくってみたまえ。そこに答えが書いてある。”
それでもまだきょとんとしている生徒たちを前に、彼は続けました。
”グーテンベルクが印刷を発明したのは1450年、マルチン・ルターがヴィッテンベルグ城教会の扉に95か条提題を貼り出したのが1517 年だから だ。これで君たちは、これら二つの年号を絶対取り違えずに済むようになったってわけだ”
2005年8月23日に東京は代々木の国立オリンピックセンターで行われたアジア太平洋薬学生会議のワークショップに参加して、各国から やってきた 薬学部の学生さん達と、なぜ臨床試験が必要なのか、FDAやPMDAなどの規制当局の役割と意義は何なのか、クスリにつきもののリスクコミュニケーション はどう展開していったらいいのか といった問題提起を行って議論をしました。その後、事務局の学生さんからもらったメールに対する返事です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 参加してみた感想と、「学生へどのような想いを持って参加することに決めたのか」
> といったことにお答えいただきたいです。よろしくお願いします。
私は、”勉強したい”という若い人の要請には、必ず応えることにしています。なぜなら、勉強したいと考える若い人との議論では、必ず自分に 得るもの があることを知っているからです。若い人ほど素朴な疑問を私にぶつけてくれます。その素朴な疑問が、私のような年寄りにはとても勉強になるのです。自分で は当たり前だと思っていたことが、若い人に対して説明できない時に、自分の弱点に初めて気づくのです。この弱点を補強することによって、自分 がどんどん伸 びていきます。この年齢(49)になっても、成長が止まらずに伸びていける。こんな楽しいことはありません。
ましてや、APPSは多くの国から若い人がやってきます。日本人が当たり前だと思っていることが当たり前ではない国からやってくる若い人達 は、私が 思いもかけないようなことを質問してくれるに違いない。その質問に答え、議論することによって、また一層自分が成長できる楽しみが待っていると思えば、躊 躇なく参加するのは当然でしょう。大学でも、職場でも、自分の所属しているところだけに留まっていると、楽しいことが通り過ぎていってしまい ます。私は楽 しいことを捕まえたい。
参加してみて、期待を上回る成果でした。私自身が伸びただけでなく、参加者のみなさんには、PMDAやFDAのような役所の存在意義、なぜ 治験が必 要なのか、自国の実情にあった医療保険制度はどんなものだろうか。そういう問題意識を持ってもらえたでしょう。日本は豊かな国です。人材もお金も豊富で す。その豊富な資源を日本だけで独り占めしてはいけない。その資源を必要としている国がたくさんあることも、日本の学生さんはわかったでしょ う。
拝復 江原先生
PMDAの池田正行です.御手紙ありがとうございました.一仕事終えた後の連休で,ようやくお返事を書く時間ができました.
1.人材を拠点に集中して効率化を図らねばならないのは,先生のおっしゃる通りです.では,それを
実現するための障害は何か,その障害を乗り越えるためにはどうすべきかですが:
まず必要なのは,”私の地域にも白亜の立派な総合病院を”という,各論反対への説明責任と,よりよ
りアウトカムの呈示でしょう.具体的には,拠点への人材の集中化と患者搬送,センターと末端の連携
効率化によって,集約前よりもずっと診療が充実し,医者も楽になったという実例を示すことが急務で
す.これは地域モデル事業で,地方自治体レベルでもできることです.市町村合併が必ずしも住民の幸
せに繋がるとは限りませんが,あのような流れができてしまう実例があるのですから,地域の医療サー
ビスの拠点への集約は実現可能と踏んでいます.
私の部署の仕事は種類が全く違いますが,厚労省の連中の多くも,中小規模の病院を集約しないと,地
域医療はとてもじゃないが持たないと危機感を持っています.
2. 一方,医者の方がどう動くかも大切です.私は,”専門医志向”は自分で自分の首を締めるから,
お止めなさいと言っています.例えば,”パーキンソン病は,専門医に任せろ”というのは,馬鹿です
.私は,いろいろ なところへ 行って
”みなさん,高血圧や糖尿病の患者さんを立派に診療なさっています.パーキンソン病の治療は高血圧
や糖尿病と同じく,慢性疾患を管理し,患者さんを支える仕事です”といって,プライマリケア場面で
活躍する方々に, パーキンソン病の 診断(病歴だけで誰でもできます) や,治療を教える地方巡業をやっています.そうでないと,地方の神経内科の外来は,あっという間にパーキンソン 病で一杯になってしまう.
先週,山口県の自治医大卒業生の勉強会に呼ばれて行きましたが,山間部や離島では,ろくろく歩けな
い高齢者を片道2時間もかけてパーキンソン病の診断を受けに行かせられないので,自分達で何とかしな
ければならないという若手から真剣な相談を受けました.彼らがやってくれれば,数少ない山口県内の
神経内科医も非常に助かるのです.
実際,3年目の人から,”先生の話を聞いて,先日,パーキンソン病の診断ができました”と嬉しそうに
話してくれる時や,25年目 の呼吸器内科開業医の先生 から,私がたじろぐような難しいコンサルテーションを受ける時,教育の醍醐味を感じます.
小児科も同様でしょう.小児科医側から,家庭医療学会あたりに向けて,(臨床のできる)講師を差向
けて,プライマリケア場面での小児科診療の質を高めるための卒後教育に力を入れるべきです.小児の
診療に不安があるので,しっかり勉強したいという若手内科勤務医や開業医はたくさんいますよ.そう
いう人たちを助けることによって,小児科医自身の負荷も軽くなっていくのです.
神経学会は全くそういう動きは示しませんが,組織が動くのを待ってばかりでは,私が生きている間に
は何も起こりませんので,私は個人でその線で動いています.上記の神経内科教育地方巡業が認められ
て,来月の家庭医療学会の生涯教育ワーク ショップ で(学会員ではないのに)話をさせていただくこと
になりました.
”小児科専門医を増やす”よりも,小児科診療の仕事仲間を増やす,助けてもらう人を増やす方向の方
がずっと現実的です.
”感情と医師研修”の別冊、誠にありがとうございました。座談会の記事というと、日内会誌のしょうもないものをつい思い出してしまうのです が、こう いう題で、座談会が記事になるのは、自分のbrain stormingにとっても非常に有効なことに気づいた次第です。座談会の記事を読みながら、問題点を抽出し、対応策を考えるということです ね。
読ませていただいて、2, 3思いついたことを。
米国の軍隊では、イラクから帰国が決まった兵士が、帰国前に(あるいは帰国直後に、自分の故郷に変える前?)一同に会して、恐ろしかったこ と、悲しかった ことなどを語り合う会があることが、いつぞやのテレビ番組で紹介されていました。PTSDを軽減するエビデンスもあるとか。
病院でシステムとして研修医のストレスを軽減する方策を導入するとなると、まずはこういう方向かなと。日本でやるとすれば、月に一度、研修 医をすべ て当直業務から免除して、研修医だけで(指導医や上司は出席禁止)愚痴を言いあう夕食会を、病院の費用で開くなんてアイディアはどうかなと思いました。指 導医や偉い人は個人的に飲みに行ったりして、自費でやっていることを研修医にもやらせてあげるということで。
”そこまでご機嫌取らなくちゃならないのか”なんて声がどこからか聞えてきそうですが、ご機嫌取るとかへつらうってこではありません。自分 の経験か ら言いますと、そういう心配りをしてくれるような職場でなら、働く気が起きてくるというものです。研修医も、そして指導医も、”大切な人間として尊重され ている”という証が欲しいのです。その証があれば、多少給料が安かろうと、忙しかろうと、耐えることができる。
共感と同情の境目は、先生のご指摘どおり、必ずしも明確ではありませんが、外来初診で、共感が同情に変質しつつあることを懸念した時の私の 慌てぶり を描いたのが、添付の別冊です。
それから、医療者の感情に関しては、今週の週間医学界新聞・学生研修医版で、「泣く医者」を鬱陶しいと切って捨てたとの非難へのカ スガ先生の切り返し も秀逸です。
茨木の り子の詩 に はいつも感心させられます。言葉の力を感じるのです。→ 宮崎医院のHP
旧友に,あ かつき戦闘隊の復刻版 を送ったら,それをたまたま読んだ配偶者の方からお手紙をいただき,その方を職場に誘ってみた時の手紙
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僕も,週間マーガレット,少女フレンド,りぼんとか,よく読んでいたよ.小学校の頃読んだ作品では,わたなべまさこのガラスの城とか,長じて は,一条ゆか り,大矢ちき,大島弓子とか,萩尾望都とか,中学生の頃は少女漫画の方をむしろよく読んでいたかな.高校になっても,土田よしこや,花とゆめの,”パタリ ロ”は欠かさず読んでいた.もちろん作品そのものが面白かったからなのだけれど,女の子って,何を考えているのかなあって知りたいなとも思っ ていた.読ん でも結局は何もわからなかったけれどね.
好き嫌いはあってね,アラベスクとか,ベルばらは,絵がけばけばしくて気に入らなかったので,読まなかった.大島弓子や萩尾望都なんかは, 今でも読 んでみたいと思うけどね.僕にとって,本当の意味での休みというのは,紅葉がとっくになくなって,観光客がいなくなった晩秋の信州の温泉で,昔読んだ漫画 本を読むことだ.
怖いもの知らずだった時代を思い出して,いや,今は怖いと思うものが昔は全然こわくなくて,昔は怖かったものが,今は全然怖くない.臨床み たいに, 子供の頃から今までずっと怖くて怖くて仕方のないものもあるけどね.ああいう本が買えるようになったのは,臨床現場にいた頃の傷が少しずつ癒えてきたから だと思う.現場にいたら,生々しくてとても読めないと思う.現実だけでもう,たくさんだと思うんだよね.
それでも,あなたの職場が戦場のようだという,ありきたりのあてつけで,あの本を旦那に贈ったわけじゃない.たまたまネットを見ていて,な つかしい なと思って注文したものだ.だから,読むのは昔の男の子だけで,女子供が読むとは想定していなかった.
僕が戦場に例えなくても,そんな難しい症例に,ポタコールの点滴だけで,何もしないで,経過を見られるのなら,あなたはもう立派な隊長さん だぜ.お 世辞抜きで見事なもんだ.
それだけできるんだから,こちらの医療僻地に来てもらいたい.だってFDAには300人医者がいるのに,こっちはたったの10人なんだぜ. 新薬の品 目は海の向こうとこちらでは変わらないから,こっちは正味30分の1.大東亜戦争の時の戦力比だって,これほどひどくなかったさ.
さる電通の方へ宛てた手紙
今,早く手をつけなければと思っているのが,医療機関とメディア・一般市民の間のリスクコミュニケーションやMedia & Public relationsです.食品なんかと比べて医療サービスはリスクの塊なのに,まともなMedia & Public relationsが全く行われていない.この惨憺たる現状を何とかしないと,医療者にとっても,患者にとっても,不幸はどんどん増すばかり です.いつま でたっても,事故の度に,薄くなった頭のてっぺんをTVカメラの前に晒して謝ることの繰り返し.事故そのものではなく,事故の前と事故の対応のまずさがど んなに病院経営への打撃を大きくしているか,全く理解できていない連中に,Media & Public relationsの大切さを理解させるには,理屈を説いてもだめで,まず,実例を示さないといけません.そのためには,どこか非常に有名な病院で Media & Public relationsのモデル事業をぶち上げて,そのモデルを通して,電通は,未だ顧客として未開拓の病院におけるMedia & Public relationsのノウハウを蓄積できます.そのモデルによって,この仕事の重要性が理解されれば,他の病院はもちろん,医師会のような医療者の職業集 団も,Media & Public relationsの大切さに気づき,電通の持っているノウハウに魅力を感じるようになるでしょう.
(とても面白い提案だと思うのだが,その後お返事は無い)