日本で初めてBSE(牛海綿状脳症,俗称 狂牛病)が発生してから間もなく一年が経とうとしている.私とってBSEと切っても切れない縁にあるのが,異端の国,スコットランドである.この国で最大の都市,グラスゴーに私が住んでいた1990年から92年にかけて, スコットランドでもBSEが大流行していた.
ウィスキーで有名なスコットランドだが,その位置を正確に知っている日本人は少ない.ただ,サッカーのワールドカップゆえに,今年になって多少は知名度が上がった.イングランドなる名前のチームが出場したからだ.多くの人々は,イングランドとはどこの国だと素朴な疑問を抱いた.そのチームは日本でいう“イギリス”という国に所属するのだが,チームの旗は間延びした赤十字であって,おなじみのユニオンジャックではなかった.
“イギリス”なる国家が,大ブリテン並びに北アイルランド連合王国という,世界一長たらしいの正式名称を持っているのは,イングランド,スコットランド,ウェールズ,北アイルランドの4つの国から構成されているからだという社会科の教科書の記載に,ワールドカップを契機にはじめて気づいた日本人が多かった.この四カ国は,素人スポーツの祭典,オリンピックでは一応ユニオンジャックの旗の下に,“統一チーム”を作るのだが,ことサッカーに関する限り,4カ国連合の“イギリス”チームが成立することは,これまでも,そして今後もありえない.あなたが野球を少しでも知っているならば,なぜだと尋ねるべきではない.阪神タイガースのファンが読売ジャイアンツを応援しないのはなぜかと,尋ねはしないだろう.ましてやサッカーは,自国の誇りがかかっているスポーツなのだ.
もともと別の国だったイングランドとスコットランドは,18世紀の初め,同君連合を形成した.属国になったわけではないから,金融,司法,立法,行政の各分野で,現在でも,スコットランドはイングランドと異なる独自の面を持っている.とは言っても,国土の面積,人口,経済力の面で圧倒的な力を誇るイングランドは,ことあるごとに,自らを正当とし,スコットランドを異端扱いする.少なくとも,スコットランド人にはそう思える.
BSEに話を戻そう.まれながらBSEが人間に感染した病気と言われている変異型クロイツフェルト・ヤコブ病の人口あたりの患者数は,スコットランドでは,南イングランドの6倍である.同じ英国内で,なぜこれほど発生頻度の違いがあるのか,科学的に説明できないとされている.しかし,私には,思い当たる節がある。一つは,異常プリオンが蓄積する脊髄の混入の可能性が高かった機械的回収肉(MRM)と呼ばれる安価なくず肉.もう一つは1980年代後半から1990年代初頭のBSEの大流行期に重なる英国の不況である.特にこの時期のスコットランドの経済状態はどん底で,失業率は10%を超えていた.
当時の英国では,普通の肉の10分の1という値段ゆえに,ビーフバーガーを始めとした安価な加工肉の材料としてMRMが使われていた.
MRMの製造は 90年に禁止されたが,95年までは,英国内市場に流通していた可能性がある.収入の道が断たれれば,そんな安価な肉製品をたくさん食べることになったとしても不思議はあるまい.日本と違って,英国では,牛肉は値段の面からも,一番手ごろで人気の高いタンパク源なのだ.
イングランドの人々よりもずっと貧しいスコットランドの人々が,安価なMRMを大量に摂取したために,変異型クロイツフェルト・ヤコブ病の犠牲者が多くなってしまったとしたら,貧しさゆえにいつも損な役ばかりやらされてきた異端の国に,また悲劇の1ページが加わることになる.失業率が5%を超えて大騒ぎしている日本には,幸いなことにもともとMRMは存在しないし,輸入もされていない.
(池田正行 内科医)
ちくま 2002年9月号 No.378 p4-5