日本の裁判所で生きている.盗品陳列でおなじみの,ルーブルなんぞに行かずとも.
李 啓充著〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第8回 No-fault compensation system(無責救済制度)(週刊医学界新聞 第2497号 2002年8月5日)より抜粋
(前略)特に日本の場合,たまたま事故の当事者となった医療者に対し「業務上過失致死・障害」などの「犯罪」責任を問うことを最優先するシステムを運営することで,「隠す文化」はさらに助長された。4000年近く前,バビロン王朝は「手術に失敗した医師は両手を切り落としてしまえ」とハムラビ法典に定めたが,日本の社会は,4000年前と変わらぬ発想で医療事故・過誤に対し刑事罰で臨むという対処を続けてきたのである。
「医療の場に事故があってはならない」というドグマが幻想にすぎないのと同じように,「医療事故に対して刑事罰で臨めば『一罰百戒』の効果があり,医療事故がなくなる」というドグマもまた幻想でしかない。 なぜならば,医療の場で起こる「誤り」とは,多くの場合,「誤り」の当事者が根本原因となって起こるのではなく,システムそのものに内在する根本的な「欠陥」が顕性化するに過ぎないからである。
例えば,経管栄養のチューブを点滴ラインにつなぎ間違えるという誤りだが,根本の原因はつなぎ間違えが起こり得るようなチュービング・システムを使うことにある。経管栄養も点滴も共通のチューブでつながるシステムをユニバーサル・システムというが,米国では何十年も前にユニバーサル・システムの使用を止めているので,経管栄養を点滴につなぎ間違えるという事故は消滅していた。しかし,日本では,過酷な労働条件のもとで,たまたまつなぎ間違いをしてしまった医療者を責め刑事責任に問うということを繰り返すだけで,システムを根本から改善することには目をむけようとはしてこなかった。
米国では類似事故がとっくに消滅したというのに,数十年もの間,漫然と類似事故による犠牲者を出し続けてきたのである。 スリーマイル島の原発事故でも,スペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故でも,事故原因が科学的に分析された場合に得られる教訓は,「システムに内在する欠陥を正さなければならない」ということであり,医療に起こる事故についてもこの原則があてはまることは共通である。起こった事故のフロントにたまたま立つことになった医療者を責め,排除するだけでは,類似の事故の再発を防止する効果は望み得ないのである。
(後略)
東京大学大学院工学系研究科化学システム工学教授の飯塚悦功は,医療プロセスにおけるエラー防止ーシステム工学の立場から(クリニシアン No.510 p104-112)の中で,”患者取り違え事件地裁判決に失望する”との見出しのもと,1999年1月の横浜市立大学での患者取り違え事件に対する横浜地裁判決を,単に個人を責めてシステムの改善に何ら言及していないとして非難している.
この判決では,病院の管理体制については”改める点はあったが,本件では過大視できない”としている.ここでも,システムの欠陥を無視し,個人の間違いに全てを帰するハムラビ法典の態度が生きていることになる.