矯正医療における総合診療
(成人病と生活習慣病 47巻3号)
高松少年鑑別所 医務課長 池田正行
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総合診療なる言葉の由来
「総合診療医」なる名称を冠したテレビ番組に毎年出演している身ながら、実を言うと教育、診療、研究いずれの面でも、総合診療という名のついた仕事に一度も携わったことがない。私が卒業した1982年当時、大学には今のような研修制度はなく、入局したのも、当時(今もそうかもしれないが)口さがない同級生から、「わからない。治らない」と度々揶揄され、変わり者が行くところとされた神経内科だった。そして,「総合診療」という言葉を初めて耳にしたのは,すでに神経内科専門医資格を取得した後だった.そんな経歴を持つ身が、何の因果か「矯正医療における総合診療」というお題をいただいたのをきっかけに、改めて「総合診療」という名称の由来を調べてみた。
今日使用されている総合診療という名称の嚆矢は、奈良県の天理よろづ相談所病院における総合外来と総合診療方式によるレジデント制(卒後研修制度)の設立(1976年)に求められるとのことである [1]。ところが大学に最初に総合診療部ができたのはそれから5年も経った1981年に川崎医科大学に、国立大学最初の総合診療部が佐賀医科大学(現佐賀大学医学部)に開設されたのは、さらにそれから5年経った1986年だった。そのような草創期から30年以上を経て、今や老いも若きも総合診療を論じる時代になった。中でも若い人たちが流行語に飛び付くのは分かるのだが、今まで何十年も「総合診療」をやってきたはずの、おじさん、おばさんと、それ以上の世代の方々までもが熱い議論に加わっている。では、今年卒後35年,神経内科専門医取得後30年を迎えようとしている私は,一体何をやってきたのだろうか?
私にとっての総合診療事始め
医学部に入り、臨床の厳しさを目の当たりにした私は、総合診療どころか、医師としての自分の適格性に大きな疑問を抱いていた。かといって、基礎研究で生き残る自信があるわけでもなく、臨床の片隅に居場所を求めるべく、二つの理由で母校の神経内科に入局した。
第一の理由は、「分からない。治らない」と敬遠される診療科ならば入局希望者が少なくて競争しないでも済むからだった。第二の理由は、教室の教育方針にあった。当時、教室主任であった塚越廣先生(東京医科歯科大神経内科初代教授)は、「神経内科医は一生神経内科を勉強するのだし、患者さんは神経疾患以外の病気も持っているのだから、せめて初めの2年間ぐらいは、神経内科以外のことを勉強する必要がある」との信念を持っていらっしゃった。これが私にとっては、将来ばりばりの臨床医を断念するようなことがあっても「潰しが効く」教育に見えた。
ところが、当時の大学では、各教室・診療科の垣根を越えたローテーションシステムなど全くなかった。そこで塚越先生は、第一、第二、第三の各ナンバー内科の教授にそれぞれ掛け合って、各教室の研修医が神経内科にローテートできるようにするのと引き替えに、神経内科の研修医が卒後2年間、各ナンバー内科の臓器別診療チーム、さらには大学外の各ナンバー内科の関連病院にまでローテーションできるように教育システムを構築してくださった。こうして今から35年前、私の研修が始まった。神経内科では嚥下に関わる筋力低下による誤嚥から肺炎を起こしやすい病態、呼吸管理を必要とされる疾患には頻繁に遭遇するから、私はまず、第二内科の呼吸器チームで研修することにした。
そうして新人研修医として働き始めて2カ月も経たないうちに、20歳代の男性が肺炎で入院してきた。190cm近くある長身が非常に印象的だった。なぜ若い男性の肺炎を、市中病院ではなく大学病院で診るのだろう思って話を聞くと、1ヵ月以上も熱が続いているが、抗菌薬を処方されてもなかなか治らないからとのことだった。しかも、その間、生活費を稼ぐため、毎日新聞配達を続けていたというのだ。1年目の研修医ながらも、そんな経過をたどる肺炎なんてあるのだろうかと思いながら、聴診器を取り出した途端、見事な漏斗胸を見て、あっと思った。
「高身長・漏斗胸→マルファン症候→floppy valve・腱索断裂による僧帽弁の閉鎖不全、長く続く不明熱」と、まるで3カ月前に受けた国家試験問題がそのまま目の前に現れた感じで、私の頭の中では感染性心内膜炎(当時は亜急性細菌性心内膜炎[SBE]と呼ばれていた)の事前確率が100%となり、聴診器を彼の凹んだ胸に当てたところ、紛う方なき汎収縮期雑音が……。すっ飛んで行った先の第二内科の研究室にたまたまいらしたのが、当時循環器グループサブリーダー格の白井隆則先生(現 九段坂病院内科)だった。
「あのう、今日、肺炎という触れ込みで入ってきた患者さんが、どうもSBEらしいんですが……」神経内科からやってきて呼吸器病棟に配属となった新入生の見立てに、一瞬けげんな表情を浮かべた白井先生だったが、むしろ私のような新米が血相を変えて飛び込んできたことに、理屈抜きでことの重大性を感じ取ってくれたのだろう。
「分かった、とにかく行こう」と言って、呼吸器病棟まで行く道すがら、発熱が1カ月も続いていること、マルファン症候群を思わせる体型と収縮期雑音のことを話すと、白井先生の表情が見る見る変わっていくのが分かった。そして、病棟に到着、聴診器を当てるや否や「そうだね」と言って、取って返して持ってきたエコーで、これも教科書通りの腱索断裂・僧帽弁閉鎖不全と疣贅(ゆうぜい)を確認し、血培2セットを取り、ペニシリンGを開始した。
翌日に臨んだ教授回診・カンファレンスでの新患紹介が終わり、患者さんは循環器病棟へ移ることになった。そこで白井先生が、「受け持ちはS君(私と大学同級で第二内科に入局、循環器グループで研修を開始していた)でいいでしょうか?」と一同の同意を取り付けようとしたところ、「ちょっと待った」と声が掛かった。「受け持ちは変えない。そのままだ!研修医を甘やかしちゃいかん」声の主は、当時肝臓グループを率いていた医局長の加来裕先生(現 慶徳加来病院院長)だった。そして加来先生は、私がそのまま患者を受け持つ理由を次のように説明してくれた。
「もし、池田が第二内科の研修医だったら、呼吸器病棟と循環器病棟を掛け持ちさせ、受け持ちを変えるようなことはせんだろう。池田は神経内科に入局したとはいえ、本人が希望し、塚越先生の了解も得てうちに来ているんだ。我々にはうちの新人と差別せずに教育する責任がある。だから続けて池田に持たせろ」 当時の第二内科の教室主任は、名著「内科診断学」(南江堂)を著した武内重五郎先生だった。その武内先生は、加来先生の言葉を聴きながら、いつものように黙ってにこにこしているだけだったから、一同異論があろうはずがない。その後、患者さんはペニシリンアレルギーなどの予想外の出来事もあったものの、感染性心内膜炎が治癒した上で僧帽弁置換術も終えて無事退院した。
「そうかなあ、そんなことあったんかなあ。わしゃー、覚えとらんがなあ」
四半世紀経って、加来先生にお膝元の熊本市でお目にかかった際、在学中から才色共に学年で一、二を争っていた誉れ高き奥様(私より一級上)と共に、飛び切り上等のお寿司とお酒ごちそうになりながら、あの時の思い出話を持ちかけても、加来先生はすっかりお忘れになっているようだった。
肝臓チームリーダーが医局長を務め、神経内科から来て呼吸器チームで1年目の研修を始めて2カ月にもならない新米だった私に、感染性心内膜炎の患者さんを受け持たせる。そんな教育が、加来先生にとってだけではなく、当時の東京医科歯科大学にとっても、いや、あるいは日本全体で至極当たり前のこととして行われていたからなのかもしれない。「総合診療」なんて言葉は、当時の私の周囲には影も形もなかった時代の話である。
総合診療医・専門医論争を離れて初めて見えてくること
「仕事をする」というのは「私のもっているどんな知識を求め、私の蔵しているどんな能力を必要としているのかがわからない他者」とコラボレーションすることである。相手構わず、「私はこれこれのことを知っています。これこれのことができます」というリストを読み上げても意味はない。「私はあなたのために何ができるのですか?」そうまっすぐに問いかける人だけが他者とのコラボレーションに入ることができる。(内田樹の研究室「キャリアを考える」 [2] より)
医師ではない初対面の相手に対し,勤務先だけ告げて診療科に触れないと、お決まりの「御専門は?」という問いが返ってくる。「特にありません」と答えると、これも決まって「お前は本当に医者か?」とでも言いたげな表情を見せつけられる。もちろん、「自分はどんな病気でも診られる“神”である」と宣言していたわけではない。「御専門は?」という問いに対して「神経内科です」と答えようものなら、それまで患者さんに教えてもらい、育ててもらった自分の歴史を語れなくなってしまう。そんな思いから、私は「御専門は?」という問いに対して明確な答えを避けることにしている。
「御専門は?」との問いに対しての回答は通常、「○○ができます」となる。「ララはできません」とはならない。こうして医師の職業意識は専ら、自分ができる「○○」に集中することになり、自分ができない「ララ」は意識の下に沈んでいく。神経内科医に対して、パーキンソン病の診療について尋ねることはあっても、鼠径ヘルニアの手術の話題を持ち出す人はいない。職場での医療者同士や、学会のような職業集団内でのやりとりでは、さらに「自分ができること」に限定して語る傾向が強くなる。
しかし、実際に患者さんに対峙している時は全く事情が違ってくる。「○○ができます」は自動車運転の際の運転免許と同様、意識する必要もないほどの必須要件である。それに対し、実際の診療では、患者さんは目の前の医師が専門としない無数の「ララ」も考慮することを求めてくる。一介の臨床医を自認する医師は、診療に際して目の前の患者さんに集中する。そうすることによって初めて、専門診療と総合診療が相互排他的ではなく、相補的であることが分かってくる。
私が進行期にある筋強直性ジストロフィーの患者さんを受け持った時のことである。患者さんは白内障、不整脈、心筋症、糖尿病と様々な合併症を抱えていた。これは筋強直性ジストロフィーならば当然のことである.咽頭筋・呼吸筋の筋力低下も進行していたから、嚥下障害・誤嚥・肺炎もしょっちゅう起こした。こういった病態一々全て専門医が常に張り付くなんてぜいたくなことはもちろんできなかった。私は毎日、時々刻々と変化する数多くの病態に対して、自分が何をどこまでできるのか、何ができないのか、そしてその時々の「自分の職場あるいは地域での利用可能な人的資源(医師以外の医療職や家族も含む)は何か」を、常にリアルタイムで考えた。
患者さんが咳き込んだ時、私は「喉の動きが悪いようだから耳鼻科へ行ってくれ」とは言わなかった。嚥下性肺炎を起こした時に、「では呼吸器内科に行ってください」では済ませなかった。胸部レントゲン写真の読影を放射線科医に任せたりもしなかった。私だけではない.日本中の神経内科医が私と同じように,筋強直性ジストロフィーの患者さんをそうやって診療している.
私は、脳卒中の患者さんが寝たきりになって褥瘡ができても、皮膚科病棟へ送ればいいと考えたことはなかった。細菌性髄膜炎の患者さんを受け持った時、抗菌薬の使い方を必死になって勉強した。もし運良く自分の職場に感染症専門医がいれば、そこへすっ飛んで位って教えを請うた。
患者さんたちはそうやって私を育ててくれた。患者さんの笑顔を見たいと願う私に対して、内分泌代謝科、呼吸器科、リハビリテーション科、循環器科、放射線科、皮膚科、整形外科、感染症科…これまで私の相談に真剣に乗ってくれた全ての診療科の医師は、私と、そして私を通して患者さんに対し、「私はあなたのために何ができるのですか?」と申し出て、私を教育してくれた。そこでは専門医・総合医の二項対立はなんてものは一切存在しなかった。
矯正医療における総合診療
私は矯正医官として働き始めてから4年になろうとしているが、矯正医療という特殊な医療も、総合診療という特殊な診療もないと実感している。「矯正医療における総合診療」という大層な御題をいただきながら、それまでの市中病院における神経内科医としての診療体験を綴ったのも、三十余年携わってきた一般社会での診療とそれ以後の矯正施設での診療の間に、明確な相違を感じない、むしろ還暦になって臨床の原点に帰れる喜びを感じるからだ。それは決して「痩せ我慢」ではない。私は現在、高松少年鑑別所では思春期医学を、併任がかかっている高松刑務所では、ご多分に漏れず高齢化が進行しているがゆえに老年医学を学べる、非常に恵まれた環境で診療している。それだけでも嬉しい上に,今の職場にはさらなる魅力がある,思考停止に陥らずに済む環境にあることだ。
経済的に余裕がある患者さんが,高度な診療機器を備えた医療機関を受診すれば,患者も医師も共に何も考えずに,より新しいより高価な診療手段に走る。今この瞬間,何をどう考えてどう行動するのが,患者・医師双方の幸せにつながるのか?その根本的な問いかけは,限られた手段・設備の中でこそ発生する。矯正施設は常にこの臨床の原点を意識させてくれる場所である。そして矯正施設は一般社会の縮図ゆえに,そこでの学びは必ず一般社会で役立つ。それを実証することが自分の務めと思える毎日が幸せである。
文献
1. 小泉俊三: 総合診療の必要性:歴史的・社会的背景. 日内会誌 92:2319-25, 2003.
2. 内田樹: キャリアを考える. http://blog.tatsuru.com/2008/04/30_1630.php.
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