テロ対策と称して,首都圏の駅からごみ箱が消えても,あなたはあまり不便を感じないかもしれない.しかし,なくなってはじめてその大切に気づくごみ箱もある.
“大学の医局”は諸悪の根源のように言われる.しかし,本当にそうなのだろうか.教授という名の組長に嫌々従う腑抜けの医者の集まりなのだろうか?そうとばかりは言えないことを下記の日医のニュースは示している.私自身,泥沼の中で、もがくような研修を続けてきたゆえに、自治医の長谷川先生の“上澄み”という言葉の意味がよくわかる.そればかりではない.”大学医局が何とかしてくれた”というコメントにもいたく共感した.
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ついてこられない研修医が出てくる、という懸念はある。日本医師会のモデ
ル事業として02年からスーパーローテート方式の臨床研修を行った栃木県医
師会では、受け入れた研修医2人のうち1人が“脱落”した。開始1か月で「
耐えられない」と飛び出してしまったのだ。
指導医はどこまで面倒をみるべきなのか。モデル事業で指導医を勤めた長谷
川剛医師(自治医科大)は、脱落していく様を見て力の限界を感じたといい、
「落ちこぼれ(研修医)はいっぱい出てくる」と警告する。「今は、優秀な学
生ばかり集まる研修有名病院や留学した“上澄み”だけを見て臨床研修を語っ
ている。だが全員がそこまでできない。これまでは大学医局が何とかしてくれ
たが(医局に属していない)これからは厳しい」
行き詰った研修医、トラブルに巻き込まれた指導医はどうなるのか。研修医
用の相談窓口を設ける病院や医師会は出てきたが、指導医の悩みの受け皿はま
だない。リスクを負う指導医を支える仕組みもまた、整える必要がある。
(JMA Press Network)
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教授の専有物というだけだったら,なぜ,百年以上も続いているのだろうか.医局が教授を頂点とする上意下達のピラミッド組織であるという認識は,それこそ”白い巨塔”的な滑稽きわまりない時代錯誤であり,医局に対してそんな古典的な観念しか持てない医者は,かの番組を夢中になって見て医学界の実情を知ったと勘違いしている人々を決して馬鹿にできない.
教授先生とて,実は,人事なんて面倒なものには関わりたくないと思っている.それより,研究費をとってきて,ネイチャー,サイエンスを目指すことに教室の力を集中させなくてはならないのだ.表立っては言えないが,”人事なんて真っ平御免だ,ボクは,もっと高尚な研究に邁進したい”というのが本音だろう.
リスクの高い,どうにもならない医者を抱え込み,最低限のお医者さんごっこができるまで辛抱して居候させ,医師免許を持っている人間なら誰でもいいから廻してくれと,標榜欠如の瀬戸際の関連病院からの懇願に応える.そういう貴重な緩衝剤兼手配師兼ハローワークが全国各地にあったからこそ,地方の弱小医療機関にも,もちつもたれつで人事が循環していた.それでも医者が足りなくて名義貸しまでやっていた.医局がなくなれば,晴れて日本国憲法の擁護のもと,労働の自由,移動の自由が保障される.誰がどこで働こうと勝手だ.その結果は明白である.すでに日本各地で起こっている.人はおろか,名義を貸してくれるところさえもなくなるのだ.
“箸にも棒にも掛からない馬鹿だけど,あいつが大学に帰るまであと3ヶ月の辛抱だ.それまで,あいつが事故を起こさないように,なるべく仕事をさせないようにしよう.本人も楽になったといって素直に喜んでくれるに違いない”
その一方では,
”こんど,あいつをローテで外に出さなくちゃならないなあ.毎度のことだけど,大学の恥を晒すことになるなあ.またあそこに頭を下げて,2年ほど置いてもらえるように頼んでみるか.嫌な顔するだろうけど,背に腹は替えられまい.”
あなたはこれまで何度こんな苦労をしたことだろう.しかし,そういうごみ捨て場が,今後なくなるかもしれないのだ.大学医局は、やくざ組織なんていう上品なものではなく、再生工場とはとても言えないにしても,ごみ収集者,産廃場,そして稀には解体業者として,立派に機能していたことに,大学医局がなくなってはじめて気づくだろう。
他人のことばかり悪口を言っている私自身,本人は今も新たな職場で研修中のつもりでも、他人から見れば、現場から役所へ追い出された”歩く医療廃棄物”なのかもしれない。病識のない廃棄物を嫌と言うほど見てきた自分が,今やゾンビ医療廃棄物か,やれやれ,年はとりたくないもんだ.