(かずちゃんの手紙から)
今日は嫌なものを見てしまいました。いくらかは雨の降っていた夜、信号の少し手前で、私の一つ二つ前の車が小猫を轢いたのです。足の先を轢かれたのか、或いは撥ねられたものか、それは倒れるのではなく苦しさで跳ね回っていました。咄嗟にかわしてその場は過ぎましたが、暫く先の目的地に着いてからも、もう、或いは間もなく来る彼の死を繰り返し想っていました。
何年か前に読んだ柳田邦男さんの本に「犠牲」というのがあります。自ら命を絶った御子息について書いた本です。その洋二君がガルシア・マルケスの小説をめぐって父に訴えた「絶対的孤独」について思ったのです。やはり子猫の死に遭遇した洋二君は書いています。
何度も何度も轢き直されて消えて無くなる子猫は、もし自分がその記憶を失えば歴史からも消えてしまう。だからこの子猫を忘れてはいけないとの強迫観念にとらわれる。と。
すぐに獣医さんへ連れて行けば助かっただろうか、いや無理に決っている。もしあそこで抱きかかえれば、彼は苦しさのあまり私の手に深く牙を立てただろうとも思いました。しかし私の目の前で彼が断末魔の苦しみに転げていたのは確かだ。帰り道、やはり動かなくなった子猫は雨に濡れた黒い肉片となっていました。彼が全身で苦痛を訴えていた時と同様、私がしたのは避けることだけでした。
(私からのお返事)
野ざらし紀行にこんな場面があります.
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富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣く有り。この川の早瀬にかけて、浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
いかにぞや汝。父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け。
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Triage(死傷者分類)という作業があります.こいつは助からない,あいつは助かると色分けすることです.大規模災害の救急場面で非常に大切な医者の仕事です.この仕事は何も震災の時に限ったことではありません.
医者の仕事は人を助けることではありません.助かる人は天が助けてくれます.医者の仕事は,こいつは天が助けてくれないと,天に代わって自分の判断で勝手に患者を見限ることです.これが医者が神とあがめられる所以です.
神々の姿態も様々です.学生時代にこの罪深い事実に気づいたがゆえに,最初から臨床医にならない賢い者も,一旦職についてもこの作業に耐えきれず臨床医を辞めていくやさしい者も,忸怩たる思いで,いつか下るであろう天罰におののきながら日々の糧のため臨床医を続けている平凡な者も,あるいは天罰のことなど思いもよらず一生を臨床医で終わる幸せな者もいます.