2008/8/9-11に,南魚沼市で開催された第20回医学生・研修医のための家庭医療学夏期セミナーで,家庭医療の教育と題したパネルディスカッションに参加した.そこで一番印象的だったのは,若い人達の率直な不安感だった.家庭医の専門医資格はどうなる,他の総合診療・プライマリケア系の学会や内科学会の専門医資格も一緒に取れるのか,研修プログラムはどうなるのか・・・
今も昔も,多くの人が,どこかに正解が一つだけあると信じて,それを追い求める行動を是とする.あるいは自分のやっていることを正解だと,「誰か」に担保してもらいたいと必死で承認をくれる相手を求める.すでにそこには権威への依存→神格化の危険性が生じている.
医者の場合,その誰かとは? 昔は「医局」という特殊な共同体が,医師のキャリアの様々なフェーズで承認を乱発してくれていた.医局教信者であれば,牧歌的な,いい時代だった.しかし,医局が消失した今,誰を頼ればいいのか?
多くのさまよえる研修医は,承認を出してくれる権威を常に求めている.医局が消失した今,その相手は,時には指導医だったり,時には学会だったり,時には厚労省だったりする.
依存された指導医や学会や厚労省は,依存されるのが自分達の仕事だと固く信じているから,自らのコントロール願望に基づき,依存者達の仕事を承認する.依存者達は偉大な権威者のお墨付きをもらって,ほっと安心して仕事に励む.そこに陥穽がある.そこには,"何をすべきか"という,自己や他者への攻撃性への導火線となる問い掛けはあっても,「○○をやりたい」という欲望,すなわち,自分の頭の中にこそ幸せが見つかるという自信はない.
一生懸命仕事をすれば,承認がもらえる.承認がもらえれば幸せになれるとの考えは妄想以外の何物でもない.どんな権威者から承認をもらっても,そのアウトカムは,しばしば惨憺たるものとなる.そんな時,承認をくれた権威者を恨むことはできないはずなのだが,自らの判断を棚に上げて,神と崇めたはずの権威者を悪魔と呪う不幸が待っている.
一方,承認の結果が,たとえ他人から見て素晴らしいものであっても,他者の承認に依存している限り,幸せにはなれない.不確定性を自らが引き受け,自分の未来についての開放度を高められる者(*)こそが幸せな気分を味わうことができる.幸せという承認された正解が山のあなたにあるのではない.幸せな気分は自分の頭の中にしか存在しない.
数倍以上の高い倍率を突破して,憧れの一流研修病院に目出度く採用され,良質な研修プログラムを修了し,後期研修もこなして専門医資格を取得する.他者による承認に次ぐ承認で,難易度の高いゲームを次々とクリアしていくようなキャリアでは,とても幸せにはなれない.そう危惧しているからこそ,パネルディスカッションで,多くの若い人たちが不安を口にしたのだろう.
そこで,毎度おなじみのスローガン.「不安がある時は安心せよ」.
リテラシーとは,不確定性と付き合う力だ.そもそも臨床は不確定性と付き合う商売だ.研修とは,不確定性を隣人として仕事をする訓練に他ならない.不安とは,そんな厄介な隣人を意識していることに他ならない.その隣人を意識できない人間は,リテラシーとは無縁で一生を終えることができる.
*参考:未来の未知性について