”医師の裁量権”という言葉は時代錯誤の象徴になったが、”言論の自由”はまだまだ健在だ。
”どう治療するかは医者(病院)の自由で、外部からの干渉は許されない”とは今時言わない。でも”記事・番組にするしない(あるいはどういう記事・番組にするか)は報道する側の自由で、外部からの干渉は許されない”という主張はまだまだ一般的に受け入れられている.
大多数の人々が、王様や皇帝の良心に期待しなくなったのは、何百年前からだろうか?役人や政治家の良心に期待しなくなったのは何百年前からだろうか?医者の良心に全面的に依存するのはやめようとみんなが思い始めたのは何十年前からだろうか? 警察官は?裁判官は?
学校の教師は?そして新聞記者は?これだけでも歴史の本が一冊書けるが、今を生きる我々には、別にやらなくてはならないことがある。その鍵は、”ユーザー側からのアウトカム評価”だろう。
外部から仕事のプロセスを批判・吟味しようとすると、プロフェッショナリズムの側から抵抗が大きいし、批判・吟味の仕方も難しいが,アウトカム評価から入ると、ユーザーの側からもわかりやすいし、プロセスの批判・吟味の仕方もわかってくる。
アウトカム評価といってもさまざまな指標とその組み合わせがあり、正解はないわけだが、まずは、個々のケーススタディによって、その症例がたどったプロセスとアウトカムを検証するという地道な仕事から始めるのが常道だ。
たとえば、夢の新薬との報道が溢れていた抗がん剤のイレッサが、その半年後にはメディアでどう扱われるようになったかという歴史の検証や、医療過誤とされた件に関するでたらめな判決(下記*)の検証に、より多くの一般市民に関心を持ってもらうといった仕事だ。医者が間違えるのなら、報道記者だって,裁判官だって間違える。医療事故があれば当然司法事故がある.
問題は、”専門家””外部からの干渉を受けない自由”といった言葉の壁に守られて、外部からのチェックが入らない権威・権力の世界では、その内部の職業人が犯す間違いをチェックし、その間違いから学ぶ仕組みがないことだ。
さて,裁判所・検察・警察と,病院と,どちらが外部批判を受け入れやすい体質だろうか.
下記は判例すなわち司法事故の記録という好例である.
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*ケアネットのリスクマネジメントのコーナーで、長野
展久 先生の連載終了にあたってのコメント(別ウィンドウなので、上記ページからもう一つクリックしないと読めない。なお、ケアネットのこのページを読むには無料登録が必要)
第1審判決(東京地裁)では医療ミスと断定されましたが、第2審(東京高裁)では医師側が逆転勝訴し、最高裁も上告を棄却して医療ミスではないことが確定しました。東京地裁の判決文を読むと、地裁の裁判官があまりにも低次元の判断ミスをおかしていることがよくわかります。
おそらく、昨今のマスコミ報道の影響を強く受けたのでしょう。事実関係の認定が非常に甘く、裁判所版の「判決ミス」なのですが、不条理なことに彼らの過ちは誰からも咎められません。
高裁の判決文には、「裁判所(東京地裁判事)も自戒を要する事例である」と書かれながら、ミスジャッジをおかした裁判官3名にはいっさいペナルティはありません。これは都内の大学病院で発生した医療事故でしたが、ミスジャッジした判決は新聞沙汰になり、その風評被害により大学病院は相当な打撃を受けたと思います。
ところが、逆転勝訴の記事はどこの新聞社も取り上げませんでしたし、最高裁判所のホームページにはミスジャッジの判決文は掲載されても、医師のほうが正しいと判断した高裁、最高裁の判決文は(裁判所の過ちを認めることになるためでしょうか)掲載すらされませんでした。この
ような不公平な取り扱いに対しては、声を大きくして反論していくべきだと思います。