医者と「わからない」の関係
「皮疹を見ただけで、それが薬疹かどうかなんてわかるもんか。占い師じゃあるまいし」
この言葉を聞いたのは、学生時代、薬疹はどのような形の皮疹も取り得るという文脈の中であったが、そのメッセージの核心は、「医師たる者”わからない”という事に対して謙虚であれ」という戒めだった。
一方、多くの医師は常に「わからない」を忌み言葉として回避しろという圧力を感じる。あの圧力は、一体、誰が、どこからj発しているのだろうか?
多くの医師は「患者だ」と言うだろう。しかし、本当にそうだろうか?患者は本当に「どんな状況でも、お前は”わからない”と決して言ってはならない」という無言の圧力を発しているのだろうか?それを検証する方法はある。
まともに診療をしていれば、「わからない」としか言い様のない状況はいくらでもある。その時に実際に患者の前で「わからない」と言ってみればいい。ただし、表現には工夫が必要だ。たとえば、
「私にはわからないけれど、あの人ならわかるかもしれません」
「今はわからないけれど、少し時間が経てばわかるようになるかもしれません」
そうすれば、他者や時間の助けを借りる、謙虚なあなたの姿が患者にも見えてくる。
そこで、患者が「こんな藪医者はもう御免だ」とばかりに立ち去れば、「どんな状況でも、お前は”わからない”と決して言ってはならない」という圧力をあなたにかけていたことになる。。もし立ち去らずに、あなたの提案を受け入れてくれたり、音声言語で「どこがどうわからないのか?」と訊き返してくれたりすれば、引き続き関係を続ければよい。
この時、「わたしにはわからない」と明言せずに、「MRIを(あるいは遺伝子検査を)やればきっとわかります」と決して言ってはならない。なぜなら、そこに見えるのは高額な医療機器という、虎の威を借る狐としてのあなたの姿しか見えないからだ。その言葉では、「どんな状況でも、お前は”わからない”と決して言ってはならない」という圧力をあなたにかけ続けている患者も決してあなたの元を立ち去らない。
虎の威を借る狐としてのあなたに向かって、お前は虎だろう。虎なら虎の鳴き声をしてみせろ=お前にわからないことないはずだ、わからないと言ったら、狐汁にしてやる と言って圧力をかけ続けるだけだ。
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