教授と言う肩書きがついてから、教授ばかりの会議に参加することが多くなった。こんなところを読んでいる方々の多くは、教授会なんて、魑魅魍魎が顔を揃えて、腹の探り合いばかりしているんだろうと思うだろう。私もそう思っていた。しかし現実は全く違っていた。
魑魅魍魎は、言語性と非言語性のコミュニケーションを巧妙に操る。場の雰囲気、相手の表情、振舞い、そして行間が読めなければ、腹の探り合いなんかできない。自分が、どう発言したら、どういう行動をしたら、相手はどう考えるのか?そういう想像力がなければ、交渉は成り立たない。
しかし、コミュニケーションと言えば、言語性が全てだと思い込んでいる多くの男性にとって、非言語性コミュニケーションの重要性など思いもよらない。よほど外的環境に恵まれない限り、非言語性コミュニケーション能力がゼロのまま、一生を終わる。本来ならば、家庭、配偶者とのタフな交渉が、非言語性コミュニケーション能力を獲得する絶好の機会になるはずなのだが、ほぼ全例で、それも叶わぬ夢と終わる。
日本の大学で医学部の教授になるほどの人ならば、自分は日本語には不自由しないと思っている。ここまでキャリアを進んできた自分にコミュニケーションの障害などあろうはずがないと思っている。相手の話が理解できないのは、相手が馬鹿だからか、自分の専門外だからかのどちらかでしかありえない。そう思い込んでいる人間に対して、どんな忠告も無駄であると、周囲の人間はわかっている。だから、コミュニケーションの教育を全く受けずに、コミュニケーション障害の修正を受けずに、医学部教授になっていく。
だから、非言語性はもちろん、言語性のコミュニケーション能力も欠如しながら、特定の分野で素晴らしい才能を発揮できる男達が医学部教授となる。だから、医学部教授が発達障害者の雇用枠であり、医学部教授会が、発達障害者集談会、耳の聞こえない者同士の会話、であるとの私の主張は、皮肉でも、冗談でもないことに、あなたは納得してくれる。