親しい人の禁煙支援がなぜ難しいのか?

「親しい人の支援がなぜ難しいのか?」という難しい(しかし面白い)御題を、2008年4月に千葉市で行われた全国禁煙アドバイザー講習でいただきました。みなさんが、これから先もずっと考え続けていく問題でしょう。私は禁煙支援の経験は全くないので、当を得ていない部分も多々あるかもしれませんが、自分の頭の中を整理するために、問題点を書き出してみました。

喫煙者の恥の意識
禁煙への関心を率直に表現できないのは、喫煙者であることが恥ずかしいと思っているからです。嘲笑の対象になることを恐れるのです。喫煙者は時代に取り残され、小学生でも理解できるタバコのリスクも理解できずに滅びていく恐竜のように扱われる状況が、とても残念なことにあちこちに存在します。そんな中で、意を決して禁煙しても、失敗したら、「意志の弱い落伍者」として扱われ、またもや嘲笑を浴びることを恐れている。だから禁煙に無関心を装って自分を守ろうとするのです。

喫煙医療者での恥の意識の増幅
この嘲笑に対する恐怖感は、医療者の場合に、余計に強くなります。今時、医者のくせに、タバコが止められないなんて、なんてだらしがないんだ。どんな立派な専門医資格を持っていても、医者として失格だとの烙印を押される。それが悪夢でなくて現実なのです。さらに、医療者であって、お手本を示さなくてはならない自分が禁煙を宣言して、成功しても当たり前としか思われない。一方、もし失敗したら、末代までの恥だと思ってしまう。医療者の場合、このように、恥の意識が異常に強くなるだけに、一般の喫煙者に比べて禁煙支援が極めて難しくなります。

恥の意識の転移と医療職支援者の中での恥の増幅
医療者が、自分の配偶者や親、子供など、親しい人の禁煙を支援する場合は、上記の、支援対象者の恥の意識が支援者に転移し、その転移した恥の意識が医療者である支援者の中で、増幅されるので、非常にやっかいなことになります。

支援対象が赤の他人であれば、喫煙に伴うストレスは対象者の中に限局され、支援者には及びません。しかし、配偶者や親や子供といった大切な人との間には一体感があります。その一体感によって、喫煙者である大切な人が覚える恥の感覚が、支援者にも乗り移ります。さらに、支援者に自分は禁煙支援のプロであるという誇りが強ければ強いほど、支援者の心の中で、この恥の感覚が、増幅され、支援者としての誇りが傷つけられるように感じるのです。

愛する人が喫煙で傷つけられていく悲しさ、喫煙の害に気づけない(実は気づかないふりをしているだけなのに)相手に対する苛立ち、禁煙支援のプロであるはずなのに、大切な人を喫煙の害から守れない自分に対する苛立ち。親しい人の禁煙支援では、このような自己攻撃性が、支援対象者と支援者の双方に生まれるので、支援がきわめて難しく感じられるのです。

さらに、親しい人ならば、自分の意見を聞き入れてくれるはずだという思い込みも大きな障害になります。うまく行って当たり前と思い込む。つまり初めからコミュニケーションの目標設定が異常に高くなってしまう。現実には、親しい人の間ほど、ささいなことで意見の対立が生じやすく、妥協も生じにくいことは、嫌というほど経験しているにもかかわらず。

こうして、親しい間柄ほど、禁煙がどんなに面白いかを説明して、こちらは穏やかな春の日差しのつもりでも、「今時、喫煙なんて時代遅れの悪癖をどうして止められないのか?早く進化しないと恐竜のように滅びてしまうぞ」との砂漠の太陽のようなメッセージにしか感じられなくなっていきます。

こうして考えてみると、親族の禁煙支援ができたら一人前どころか、超人ですね。禁煙支援を真剣に考える方ほど、自分はいつでも発達途上と思う謙虚さをお持ちですから、自分を一人前、ましてや超人とは決して考えないでしょう。ならば、親しい人の禁煙支援は、第三者に任せましょうか?でも、まるきり任せてしまうのもせっかくの機会がもったいないですね。でしたら、いつもそばに居られる利点を利用して、脇にそっと寄り添うような支援はいかがでしょうか?愛する人が「禁煙してみようかな」ってぼそっとつぶやいてくれる日をじっと待つような。