心臓帝国主義

お父様を亡くしたかずちゃんからお手紙をいただいた:

昨朝3時57分、父は死にました。午前中に病理解剖をして、午後帰宅いたしました。深夜までの弔問客の相手で疲れ果ててはいますが、妙な安堵があります。少ない睡眠時間であっても結局は朝早く眼が覚めます。昨日のこの時間父はもういませんでした。一昨日のこの時間には確かに生きていました。いまもそこに父の体はあります。死は本当に人生の一大事なのでしょうか?

そのお返事:
まず,生の多様性があります.つまり,生まれついての重度心身障害で,辛うじて,自分の口から物を食べることはできるけれども,寝たきりで,一言も言葉を発しない生.かと思うと,乙女十八で精神分裂病が発症し,その後何十年も座敷牢まがいの病院の一室に閉じこもったままの生もある.働き盛りので妻子持ちの40歳が,頭部外傷でずーっと植物状態で医療費ばかりやたらとかかる(それでも日本は健康保険でカバーされる)生.はたまためでたく定年退職を迎えた直後の脳卒中による片麻痺と失語,あるいは痴呆・・・

上越の片田舎に限っただけでも,これだけバラエティに富んでいるわけです.そして,本人や周囲の受け止め方でまた大きくバリエーションが生じる.これだけ,生の多様性があるのに,心臓が止まることが,何ぼのもんでしょうか.

しかも,本人の心臓が止まってから,かえって,周囲の人への考え方や行動への本人の影響が大きくなってしまう場合さえある.諸葛 亮やマルクスとまではいかなくても,はたまた,葬儀委員長を誰がやるかなどどいう問題はさておき,子供や孫達の頭(心?)の中には,ご本人の心臓が止まる前より大きな影響が及びます.

脳修正主義は心臓帝国主義へのアンチテーゼとして存在する点に意味があるのであって,そこでとどまっては,エセ唯物論の堕落からは抜けられません.もう一歩進めば,飯を喰らい,排泄し,喋り,手足を動かしていた肉体への執着をどう扱うかという古典的な問題に行き着きます.

その肉体が失せても,その肉体が歩んできた歴史,残した記憶が消えてしまうわけではない.むしろ影響が大きくなることすらある.だったら,死がそれ程一大事だろうかという疑問が生じるのは当然だと思います.
 

ルビコン川の向こうへ