2007年11月17日、三重大学で地域医療再生プロジェクト・特別シンポジウムがあった。そこで、例によって、一般医(総合医、ジェネラリスト、まあ、呼び名は何でもいいんだが)と専門医云々の議論があった。私の立場は、一般医と専門医という色分けがどんな時にどのように役立つのか、何のためにあるのか?それを常に意識しないと、無駄な議論を重ねることになる というものである。一般医、専門医といっても、それぞれ雑多な集団から成り立っていて、その雑多な集団同士のどんな関係、どんな相違、どんな相互作用を、何を目的として議論するのか、いい加減なまま、口角を泡を飛ばしている人々のなんと多いことか。議論の目的が、ただ、”我々は他の集団とは違って素晴らしい”と主張するだけなら、カスの役にも立たない。そんな議論は、ジャイアンツファンとタイガースファンがやることであって、職業人のやることではない。
下記は、週間医学界新聞 第2757号 (2007年11月19日) クロスする感性(1)(宮地尚子)からの引用である。
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自然科学と社会科学,理系と文系,日本とアメリカ,心と身体,理性と感情,思考と直感,女と男,病理と創造性……。様々な境界線をクロスし,異なる感性が合流と離散を繰り返す。
時がたつといろんなことが変化する。けれども同時に変わらず残り続けるものもある。その二つは矛盾するわけではない。私自身の受けとめ方のほうが変化していることもあるだろう。何年もたってようやく気づくこともあるだろう。その場所に戻ってみて初めて甦る,ささやかな記憶の群れ。それらへの新たな意味づけ。
開くことと閉じることも,実は必ずしも矛盾しない。クロスする姿勢は,閉じられながら開かれている。たとえば,足を組む。片方の手で反対側の身体に触れる。防禦しながら,挑発する。移動する時と,ひとところにとどまる時。人に会う時と,一人でこもる時。クロスとはねじることであり,交差して触れ合うことであり,橋を渡すことであり,超えることでもある。
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