アフターコロナという嘘八百
コロナが暴いた「この人は無理」という人間性。(真鍋 厚 東洋経済オンライン 2020/6/6)
いわばコロナ禍は「人間性を判定するリトマス試験紙」であったのだ。コロナ以前であればごまかすことができていた「不都合な真実」が次々と露見し、経営者や上司、パートナーや友人たちの化けの皮が次々と剥がれていった。しかし、恐らく大多数の人々は日頃から薄々感づいていたことばかりだったのではないだろうか。これまでは実害がさほど大きなものではなく、またそれを解決するにはあまりに困難なことを理由に、肝心の問題を棚上げにしたり後回しにしたりしていたのだ。(以下略)

真鍋氏は「アフター・コロナ」について長々と書いているが、実はコロナ禍の前も後も本質的なことは何も変わっていない。アフター・コロナとやらに実体はない。学会とか専門医資格とか、どうでもいいことを効率良く暴いてくれた。その点ではコロナの功績は一応認めるとしよう。さりとて、どうでもいいことに煩わされずに生きていくことの妙味は、コロナ禍の前も後も何ら変わっていない。文中にある「遊動者の知恵」とやらだって、現代でも多くの人が既に身につけている知恵だ。決して定住生活によって失われたものではない。持っている人間は持っているし、持てない人間、つまり馬鹿は、その知恵の存在にさえも気づかずに死んでいく。

馬鹿とそうでない人間、その2種類の人間がいるだけ。そして馬鹿が圧倒的に少数派であり、多数派を占めるのは馬鹿でない人間である。そんな状況は人類が定住生活を始める前と後で何ら変わってはいない。もちろん、コロナ禍の前と後でも変わっていない。あたかも変わったように見えるのは、そう見る人間が、あたかも自分は賢者であるかのような錯覚に陥っているからだ。これもまたコロナの罠である。思い出すがいい。コロナ祭りの真っ最中、メディアに盛んに出ていた露出狂は全て馬鹿だったではないか。あなたはそれを繰り返し見せられて、ついには馬鹿馬鹿しくなってテレビを見るのを止めてしまった。そんなあなたも、サイレント・マジョリティの立派な一員である。

コロナのデマに飽きた人へ
二条河原へ