読書感想文3つ:岩田・上野・内田

先日(20110/1/10)、公演定席となっている岡山にお邪魔した時、私は岡山に初めて上着にネクタイ姿で登場しました。その成長した私の姿に、真っ先気づいてくれた安田英己先生から、本を3冊お借りしました。下記はその感想文ですす。

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岩田健太郎 「頭が毒入りリンゴになったわかものと王国の話」

プロフェッショナルと称している人の資質の善し悪しは、非専門家や一般市民が心から納得できる説明ができるかどうかを見ればわかります。その意味で、一番難しいのが、自分の家族への説明です。自分の家族に対しては、「甘え」という強烈なバイアスが入ります。

「ねえ、おとうさん/おかあさん、インフルエンザって、どうしてみんなあんなに大騒ぎしているの?」と自分の娘に訊かれて、「今忙しいから、あとで」「横着しないで自分で調べなさい」「厚労省が悪いんだよ」。あなたは、以上の3つの答えをいずれも回避できる自信がありますか?

家族を持つ意義は、最も厳しい審査員を自分の身近に置いて、自分が常に試される環境を確保し、大切な自分の品質が継続的に向上していくことによって、自分が幸せになることにあります。

その最も厳しい審査員から、本質的な査問を受けた感染症専門医が、審査員=愛する家族に向かって真摯に説明責任を果たした。その記録が本書です。
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上野千鶴子 「ニッポンのミソジニー」
ミソジニーmisogyny:一番適切な訳語は「女性蔑視」なんだそうです。昨年の10月16日に第一刷で、11月25日に第五刷というのは、凄いですね。上野さんは「マザコン少年の末路」で、「自閉症は母親の過保護が原因」と決めつけた前歴もあって(今出回っている「マザコン少年の末路」には、その反省の弁が載っているそうです。その責任の果たし方は立派です)、とても自分から彼女の書いたものに手を伸ばす気にはなれなかったのです。今回手に取れたのは安田先生のお勧めがあってこそです。そうでなければ、この高名な作家の著書を手に取ることはなかったでしょう。

新聞の社会面を賑わした記事を、「女嫌い」の立場から解説するという手法を使っていることもあって、フェミニズム・ジェンダー論のオヤジ向けの入門書であり、確かに私にもわかりやすく書けています。見識のある女性にとっては、ここまで言語化しなくても、すでにわかりきっていることばかりなのかもしれませんが。

ただし、論旨を展開するにあたって、いつもの(?)の上野さんらしく、セクシュアリティと関連づけて男女の関係性を論じることに異常なまでの拘りを持っている点に、男性でも辟易としてしまう人がいるのではないかと思いました。これは、おそらく、上野さんが不倶戴天の敵としてきた同じ団塊の世代、あるいはそれより上の世代の爺どもが、男女の関係性を性行為と関連づけてしか論じることができなかったので、彼らとの対峙関係から抜けきれない上野さんの立場を反映しているのでしょう。春画、永井荷風を持ち出してきたのは格調を高めんがため(?)と百歩譲っても、もう誰も読まなくなった吉行淳之介を冒頭に持ってきた意図はどうかと思いました。これでは私より下の世代はお引き取りくださいと言わんばかりです。吉行なんて、今年五十五になる私でさえ、高校時代に数編斜め読みして、もう二度と読まないと決めている通俗小説家ですから。

非モテ系は、性行為の対象としてしか女性を認めない蔑視が形を変えたに過ぎないという議論などは、確かに、「新たな視点」なのかもしれませんが、ミソジニーというものは、モグラ叩きのモグラのようなものです。この本はモグラ叩き名人の自慢話を聞かされているようで、男性よりもずっと狭い道を歩まざるを得ない女性が、より生きやすくなる知恵がこの本に見いだせるようには思えないのでありました。

結局、上野さんは「団塊の世代とそれより上のジジイ達との五十年戦争は本当に大変だったの」という愚痴三昧を誰かに聞いてもらいたいのでしょう。しかし、上野さんより後の世代の女性達は、彼女たち自身が男社会で生きていくために、上野さんの愚痴を聞いている余裕はありません。だったら、団塊の世代とそれより上のジジイ達に散々迷惑を被ってきた我々の世代の男性が、上野さんの愚痴の聞き役に回るということなのかなと思いました。
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内田 樹 「武道的思考」
私は武道の心得がありません。しかしこの本を読んで、武道の目的は、自分の体や相手の体との対話を通して、より幸せに生きていくことだと理解できました。そうやって武道を理解できると、コミュニケーションは自分の心や相手の心との対話を通して、より幸せに生きていくことだと理解できます。そして医療面接は、OSCEで高得点を上げるためにやるのではないこともわかります。医療面接は、より幸せに生きるための訓練法の一つであると悟れます。

考えたことはたくさんありますが、以下、ごく一部。読みながらのメモです。まとまった文章ではありません

測定・可視化・定量・評価への依存→強迫への重症化。測定・可視化・定量・評価しないと不安になってしまう。測定・可視化・定量・評価しただけで安心してしまって、思考停止となる。
「身体技法は、人間の身体能力のうち、計量可能なものだけを選択的に発達させようと考える時に衰微する」
「大切なものは目に見えない」(星の王子様)

測定できるものでしか評価できない悲しさ
測定できるものでしか評価しない危うさ
測定できないもので評価する面白さ
測定できないものはないと考える傲慢さ
測定できないものがあると考える謙虚さ
測定できないものを見つける面白さ
(池田正行)

レヴィ=ストロースが、「野生の思考」で、野生の人々の行動をブリコルール(bricoleur:そこにあるありあわせのものでなんとかする)と呼びました。これはまさに、病歴・身体所見による徒手空拳の診断学(例:救急外来での昏睡の診断)です。ブリコルールの能力は文明の発達により組織的に破壊されていきますが、それはちょうど、画像診断の発達によって、病歴・身体所見を大切にする診断学が破壊されていくのと同様の風景です。

だから、なにか芸事を始める前には、なるべく「明確な理由づけ」をしない方がいいと私は思っている。
「なんとなく」始める方がいい。
できれば、まわりから「やめろやめろ」と言われたことや、本人も「これは向いてないよな」と思うことをやるのがいい。(「なんとなく」の効用

自分は医者には向いていないと思ったからこそ医者になり,自分は医者には向いていないと思ったからこそ医者を続け,卒後30年近く経って,やっぱり自分は医者には向いていなかったと気付く。

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