都河 明子 ICWES-11 事務局長(東京大学理学部講師)
私が科学の道を歩むことになったのは外科医であった父の影響が大きい。ICWES-11 医療分科会が作成するエッセイ集に加えていただくことになったので、今まで他人に語ったことはなかった父のことを書いてみたい。
父は独会話教室で知り会った母とその当時は珍しい学生結婚をし、25歳で軍医として従軍している間に私が生まれた。戦後すぐに東京大学医学部第一外科に戻り、人工心臓に関する最先端の研究をしていた。私は小学校に入る前から、毎日曜日に父に連れられ大学の研究室へ行き、人工心臓をつけた犬を観察したのを覚えている。沢山の犬がいて、生まれた子犬を我が家にもらってきたこともあった。無給医局員であった父は、東北大学医学部の麻酔学科が新設された際、30歳後半の若さで初代教授として招かれた。当時はコピー機がなかった時代で、母の手を借りて博士論文をまとめ、就任間際に医学博士号を取得したのを思い出す。仙台では精神科病棟裏の広大な敷地にあった教授宿舎に住んだ。宿舎の傍らには小川が流れ、春にはオタマジャクシを取ったり、夏にはトンボの産卵の観察等自然に恵まれた環境であった。
小学校五年生の夏休みに出された理科の自由研究では、父の提案に従い、庭にいたガマガエルを解剖することになった。父は学生時代に使用した解剖器具を我が家に大事にしまっていた。ある朝、妹も交えて解剖が始まった。一つ一つの臓器を説明しながらきれいに取り出し、私が説明文をつけてスケッチをしていったが、解剖だけでは終わらなかった。父自身夢中になり、全臓器を取り出してから、家にあった酢を使ってゴトゴト煮て肉を取り除き、骨格を黒の画用紙に立体的に再構築していった。さらに、まだ英語も習っていなかった私は各骨の学術用語を調べさせられた。全てが終了したのは夕方で、庭でしゃがんだまま一日中夢中になったいる我々に母があきれていたのを覚えている。そんな父は実際に執刀手術をしたいという望みを捨て切れず、若かったから出来たのであろう、東大の医学部第一外科に講師として戻った。その後すぐ慈恵医大第一外科の教授となった。
私はこの父から、科学するのに必要な粘り強さ、一つ一つ理論で詰めていくことの大切さを学んだと思う。この頃から、私はオタマジャクシが何故カエルになるのか、トンボの卵が何故トンボになるのかを不思議に思い続けていた。1960年代にDNA遺伝子が発見され、それが遺伝の本体であることが解明され、分子生物学が誕生した良き時代に、東大の生物化学科に進学した。大学卒業後は国家公務員として東大医科学研究所で研究を続けた。この間、二人の娘をもうけ、仕事と育児で疲れた時、医師になっていたらよかったと思ったことがある。理学士は一度仕事を辞めたら、再就職がほとんど出来なかった時代であったが、医師の資格があれば再就職しやすいのではと思ったからである。しかし、医師も常に最先端の医療を学ばなければならず、これは甘い考えであったと今は考えている。とにかく辞めるのは簡単と自分に言い聞かせながら、今日まで仕事を続けてきた。
研究とは真理を追求するものもあるから、研究成果は客観的に評価され、自らの興味を生かした主体的な取り組みができる。また、成果のあがったときの喜びはひとしおで、大変魅力ある仕事である。しかし、職場での地位は男女平等とはいえず、女性研究者の能力を発揮する機会が男性に比較して少ないのではと感じている。
さまざまな職場の女性にとっても残業や出張はあるが、研究者の場合、夜間、土・日曜にも実験しなければならないこともあり、子供を持つ女性研究者にとっては、育児との両立は深刻で普遍的な問題である。さらに、研究の業績をあげるためには、学会や研究会での発表が必須で、特に海外での学会発表の場合は長期に家をあけるという問題が出てくる。これからの女性研究者の支援策として、まずは保育所の長時間保育制度の充実が必要と思われる。そして、保育所の充実だけではなく、特に海外出張の場合は家族の協力や犠牲がなくてはできないことを痛切に感じている。