アメリカで科学者として暮らした二十余年

山口(藤田)陽子 米国シティーオブホープ研究所

 ボスドクとして、アメリカはカリフォルニアにやって来たのは、一九七七年の八月末のことであった。ポスドクとは自分のラボを持つ前の修行期間のことである。普通、日本人は、これを留学と称して、二年から三年海外のラボへ研修に行く事と、心得ている。よく言われてきたように、短期の滞在は、お客様として扱われる為、本当の意味での、独立した一個の研究者として、生活しているとは言えない。永居を決めた段階で、独立した一個の研究者としての葛藤が、始まるのである。私の場合は、三年目に入った時に、ボスから出ていけと言われ、それ以来アメリカで独り立ちする為の、また、独立した一個の研究者としてのステータスの維持の為の、絶え間ない緊張と努力を続けているのである。  結論から先に言えば、研究の面で、私は運が良かったので、独立してラボを持つことも、アメリカ人並にそれ相応のポジションを得ることもできた。女であることで損をしたという意識は全然ない。専門職での女性の地位は、アメリカは少なくても二十五年、日本より進んでいるかと思われる。

 しかし、アメリカでボスドクの次のテニアトラックのポジションを得ることは、特に日本人には、男女を問わず、アメリカでドクターを取った人達と比べて大変なハンディがある。ボスドクの間にうまく研究成果をあげて、ボスの仕事から独立した研究方向を確立しなけれぱならないからだ。テニアトラックのポジションを取れれば、独立したラボを持てることになる。これに反して、もしノン テニアのAssistant Professorになった場合は、誰かの下で研究するということで、独立した一個の研究者としては認められないのである。独立した後は、研究費を取ってこなければならない。最初の二~三年の大学か研究所からの約束された経費を使っている間に、自分に必要な研究費と人件費を、NIHや他の機関からグラントとして、取ってこなくてはならない。グラントを取って、人を雇い研究をして、グラントでプロポーズした仮説を証明し、publishして、成果を公表しなくてはならない。その成果を元手にして、グラントを取り続けなくてはならない。自分のラボが安定し、仕事が国際的に認められるようになった段階で、五~六年目に、テニアのAssociate Profesorにならなくてはいけない。グラントを取り続けて、もっと成果を出して、さらに上のFull Professorにならなくてはならない。Full Professorになったからといって、身分が保証されるわけではない。グラントが取れなくなれば、研究ができなくなり、一線の研究者では居られなくなる。グラントは若い人に取れやすくなっているので、Full Professorがグラントを取り続けるのは、並大抵の努力ではだめである。グラントプロボーザルは、日本でのそれ(科研費)と異なり、論理的かつ詳細で、書くのに大変時間がかかる。グラントを書く訓練を受けていない日本人には、アメリカでドクターを取った人達と比べて大変不利である。この難関を乗りこえれば、若くして自分の思うような研究ができるようになる。一国一城の主となれる。このシステムは、日本やヨーロッパのシステムとは異なり、若手研究者を育てる土壌となっている。

 さて、最後にこの拙文を読んでこられた若手の女性科学者の方への助言として、たとえ数年ではあっても、是非とも″留学″する事を奨めたい。外国で研究に打ち込むことが、また外国人と日常的につきあうことが、視野を国際的に、また研究のみならず、人間の幅を広げるまたとないチャンスになるからである。