中澤 晶子 山口大学医学部微生物学教授・山口大学遺伝子実験施設長
1997年、イギリスのロスリン研究所におけるクローン羊ドーリの誕生で、クローン動物の研究は新時代を迎えた。一九九八年になると、日本でも各地でクローン牛誕生のニュースが報じられ、細胞発生工学が非常に身近な出来事となった。クローン牛は、卵細胞の核を別の牛の筋肉などの体細胞の核と置換し、人工的に受精卵をつくる技術(これを体細胞の核移植という)と、従来からの、受精卵を分割して人工的に同腹動物を作る技術とがドッキングして可能となった。クローン牛の遺伝子は、ミトコンドリアの遺伝子以外はすべて細胞核を提供したドナー牛に由来する。今後、霜降り肉細胞に、病気抵抗性遺伝子や成長促進遺伝子など、商品価値をより高める遺伝子が導入され、ドナー牛の性質を越えたスーパークローン牛の誕生を聞く日も遠くないであろう。畜産分野におけるクローン動物の応用は、今最も期待されているバイオテクノロジー分野である。クローン動物に医薬品を作らせたり、ヒトの臓器そのものを作らせる研究も行われていると聞く。さらに、絶滅寸前の動物種をクローン技術で保存することも期待されている。
さて、体細胞の核移植によるクローン動物の誕生は、細胞核の初期化(固有の組織を作るようにセットされた信号を、あらゆる細胞に分化できるとこるまで戻す)の方法と、移植核と卵細胞の細胞周期(遺伝子複製と細胞分裂のタイミング)を同調させる方法が開発されて可能となった。ところで、本来細胞の分化は不可逆的であり、一定回数分裂すると死ぬようにプログラムされている。体細胞初期化の技術は、生物の原則である死を操作する不老不死の技術であろうか。人工的にプログラムをリセットされたクローン牛、すなわち有性生殖の原則からはずれて誕生したクローン牛は、果たして普通の牛と同じような一生を終えることができるのだろうか。あるいは思いがけない将来が待っているのだろうか。クローン動物の成長は、このような生物学や医学の根本的な疑問を解明するのにも大いに役立つ。さらに、脳や精神の発達において遺伝因子と環境因子がどのようにかかわるかなど、従来困難であったより高度な問題についても、貴重な情報が得られるであろう。動物個体を用いて得られる情報は、細胞レベルで得られる情報とは比べようもなく貴重なものである。羊や牛などのクローン個体作製のニュースは、社会的に大きな衝撃を持って迎えられた。それは、ヒト・クローン個体の作製が、単にSFの世界の出来事ではなく、現実のものとなるのではないかという恐怖である。現在のクローン動物作製は、理論的にも技術的にも多くの問題があり完全ではない。しかし安全性の問題はいずれ解決されるであろう。ヒト・クローン個体の作製が技術的に可能となったとき、われわれは、人間の尊厳や人権問題など倫理的・社会的問題に直面することになる。欧米諸国ではすでに、法律的にヒト・クローンの作製を禁止し、あるいは立法化の検討を行っている。一方、わが国においては、クローン研究が特殊であり、人類の福祉に貢献する側面も多いとの考えから、法律で禁止するのではなく、省庁の指針によって規制する方向で検討されている。
現代医学は、病気を治療することを目的として発展してきた。最先端医療では、心臓・腎臓・肝臓をはじめ、脳以外のほとんどすべての臓器移植が現実のものとなりつつある。現時点での問題は、適当なドナーが得られないことと他家臓器移植によって生じる拒絶反応である。もしクローン技術が発達して、ヒトのスペア臓器あるいは個体を作ることができれば、より安全な臓器移植を行うことが出来、人類の福祉に大いに貢献すると考える人が出ても不思議ではない。
クローン臓器(あるいは個体)の作製は、核を提供するドナーとともに、卵細胞を提供し、また人工受精卵を胎内で養育する雌が存在しなければ成り立たない。雄はドナーとはなりえても雌の役割を代行することはできないのである。女性はその生物学的特性故にクローン作製に利用される可能性があり、社会的な要因によってそれが現実のものとなる日がこないとは言えない。現在のヒト・クローンに関する議論には、生まれてくる子供の人権に関する議論は聞かれるが、ジェンダーの問題とする議論はあまり見受けられない。
クローン研究をはじめとする最先端の生命科学は、巨額の予算を必要とする国家プロジェクトとなり、国際間の競争もますます熾烈になっている。研究プロジェクトの多くが男性にゆだねられている日本の現状では、ヒト・クローンとジェンダーの問題はなおざりにされる危険性がある。女性研究者が主体的にこれらの研究プロジェクトに参加し、あるいは見識を持って批判し、その行方を監視する必要がある。