最初のは、ウールの着物だった。
生物部で一つ上の先輩が落研もやるといった。興津要先生の選書は持っており、笑いを判らなくても人情噺は何とかなると「己惚れて」動員に応じた。
弟の同級生の家が横須賀で呉服屋さんをしており、母が頼んで仕立てて貰った。
痛々しいが、童貞で「明烏」を文化祭でやった。興津本の明け烏より、小松左京の明烏の方が身近な頃だった。
大学に入ると選択肢がないので文化部の中の消去法で茶道部に入った。母親の裏千家と同じだった。ちなみに薬学部は表だった。
ウールの着物は重宝した。茶道部と言っても下男や箱屋さんなので、パリっとしないウールのお召しは、かえって重宝した。
宗匠が長崎にお出ましになったときは、保父さん役というか、茶道を教育に取り入れている幼稚園児の付き添いで、そのお召しで「幼稚園児の箱屋さん」をやったのが、茶道部のクライマックスだった。
研修医から大学院と着る機会はなく件のウールは「箪笥の肥やし」だった。
結婚式の羽織袴はレンタルだった。自分で着付けたというのは「芸は身を助けた」のだろう。
2015年の3月に久しぶりに引き出した。
硫黄島周遊という、にっぽん丸クルーズに繰り出して、件のウールをセミフォーマルとして持って行った。
動脈硬化学会が広島であった。
デニム産地の井原に行く機会が出来た。
身分制度の下では、木綿の藍染は作業着である。Gパンという言葉の前に、インディゴのワーククローズというのが、児島にしても福山井原にしても、野良着が繊維産地の素地である。
青木被服のデニム着物は面白そうだったので寄ってみた。
本当は、藍染無地しか男物はないのだが、懇願して女物の柄物の生地で、男物を仕立てて貰った。
これも2つばかり、呉服屋さんや着付けポリスが青筋立てるような細工がある。
縫い方が「Gパンそのもの」
それを塩之入が「スナップボタン」を増設して、腰紐が要らないように改造した。着崩れても開け難くした。
普段使いの、「作業衣」を容認し無い「着付けポリス」がどれだけ窒息させるかというののアンチテーゼである。
次は、宮古上布である。通販で買った。リネンというと大麻由来の他に苧麻がある。沖縄の宮古島の苧麻の夏の着物である。
苧麻が欲しかったのだが背広より安く手に入った。通販で配送された後、回送がてら、神奈中グランドで行われた皮膚科部会の勉強会に着て行った。
その三は、伯父が亡くなった。
浅野ドックで石綿を吸って、心臓の裏の肺がんが心嚢水を貯めてから見つかった。
伯父が祖父から引き継いだ大島が自分のところに来た。80年前かそれくらいの(戦前で統制前の)反物で仕立てた形見分けである。
伯父はそれなりに身丈はあったが、流石に塩之入が着るとツンツルテンである。祖父から伯父に渡った段階で随分無理して丈を出しているので、袴を着けて胡麻化すことにした。
男は袴にせよ羽織にせよ、帯を雑に締めても隠しおおせるのは、女性に申し訳無い。それだけ、「着付けポリス」が和服を窒息させているのである。
古墳時代にはバックル(帯金具)があった。蒙古の着付けにはまだ有る。帯をベルトで済ませればもっと和服が身近になると思うが「着付けポリス」が立ちはだかる。
それやこれやは、兎も角、男物の古着の和服は安い。
反物が良いものでもツンツルテン。
女物ほど需要が無い。
千円二千円で購うことが出来るので、ユニクロより安い。
学会会場で迷彩服のようにネイビーやチャコールのブレザーで匍匐前進していた頃と違って医局のしがらみも無いので、和服は安上がりになりつつある。
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