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日米合同調査団研究室(昭和20年 三浦巖のアルバムから)


写真の左端の学生服の上に白衣を着ている研究者は三浦巌(1)である。 机上にはツアイスの顕微鏡(ドイツ製)がある。4つのガラス瓶はプレパラートの作製手順のエタノールおよびキシレン系列である。一番手前の机の上のミクロトームでパラフィン包埋標本から薄切片を作る。右奥の机の上の平な板は、染色された病理組織標スライドを並べるマッペである。右側の白衣を着た病理学教室助手の石井先生(2)は前の顕微鏡で標本スライドの最終チェックをする。奥の3名の女性は赤十字病院から派遣された看護婦である。病理組織標本の染色作業を手伝うのみならず、東大から派遣された研究者の着物の洗濯までしてくれた。

1945年当時、三浦巌(当時24歳)は東京帝国大学医学部4年生であった。太平洋戦争末期の医師不足から、医学部の卒業が半年繰り上げて9月に卒業できるように、8月にはすべての医学部の講義と実習は終了するカリキュラムに修正されていた。ところが8月15日に終戦となり、繰り上げ卒業させる理由がなくなった。そこで従来通り1946年3月の卒業予定に日程だけ戻った。卒業式まで講義予定はない。三浦巖はその父(三浦大蔵)と同じ第一外科学教室に入局しようと大槻菊男教授の門を叩いたところ、臨床に携わる前に三宅仁教授の病理教室で基礎研究するように指示を受けた。病理学教室に配属されたのとほぼ同時に、広島に原子爆弾が投下された。現地の壊滅的な状況を救済するために、臨床医学と基礎医学共同で広島に医師団を派遣することになった。三宅仁教授は原爆の影響を病理学的に調査するために、研究員を選抜する必要に迫られた。病理学教室に加わったばかりの三浦と若い石井助手の二人に、宇品の大和人絹会社社宅地区内に研究所を設置することを命じた。二人は1945年8月20日ごろに広島へ赴任した。

1945年10月13日にマッカーサーの指示で日米原子爆弾影響合同調査団が正式に誕生した。リーボウ先生(Prof. Averill A. Liebow、エール大学医学部病理学教授)が軍服を着て研究所に訪れ、三宅仁(東京帝国大学教授)と英語で議論していたのが印象に残っている。アメリカ人の発音は、日本の学校教育で習ったBritish Englishの発音とまったく違って奇妙に感じた。自分たちも奇妙なアメリカ人の発音を真似しながらアメリカ軍人と意思疎通をした。研究の合間に松茸狩りに出かけた所、原爆の被害を直接受けなかった山影の斜面の赤松林には松茸が驚く程大量に生えていた。収穫できた量があまりにも多かったので地面に凹みを作って松茸を入れて、その上に薪を載せて焚き火を作り、蒸し焼きにした。味付けは米軍レーション(行動食セット)に入っていた粉ジュース応用して、ちょっと酸っぱい付け汁を作っで食べたエピソードがある。加藤周一(堀辰雄の主治医)も血液内科医師として、日米原子爆弾影響合同調査団の一員として広島に赴任し、臨床と研究に携わっていた。

上記、2014年8月三浦巖(93歳)の思い出話を三浦裕が記録した。

2015年9月4日

三浦裕(みうらゆたか)
Yutaka Miura, M.D., Ph.D.
Associate Professor at Molecular Neurosciences
Department of Molecular Neurobiology
Graduate School of Medical Sciences
Nagoya City University
名古屋市立大学大学院医学研究科分子神経生物学准教授


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(Last modification June 2, 2015)