王羲之と本草
95L1089N 戸井田 学
 
目次
第一章 序論
第二章 王羲之という人物
 (一)史書が描く羲之
 (二)書家・王羲之
  @王書と模本
  A本稿における羲之の書簡の有用性
第三章 王羲之の本草・医学知識のルーツ
 (一)道教と寒食散
 (二)寒食散副作用の症状とその療法
 (三)天然有用物・薬物に関する記述から
第四章 考察と総括
 (一)皇甫謐と羲之
 (二)葛洪と羲之
 (三)范汪と羲之
 (四)陶弘景と羲之
 (五)総括
注および参考文献

 
王羲之と本草
95L1089N 戸井田 学


第一章 序論

 「蘭亭序」という書道史に残る逸品がある。その序文は、シチュエーションによって高められた芸術家の霊感と、酒の勢いも手伝って一気呵成に書かれた。筆は鼠髭で作られた固めのもの、紙は蚕繭紙というきめの粗いものだったという[1]。これは現代でも書の最高傑作とされる。その作者とは、東晋の高級貴族・王羲之である。

 王羲之に関しては、書道関連の研究が多くなされている。同時に、道教の信者だったことも知られている[2]。本稿ではその分野も含めて、羲之をはじめとする魏晋の文人・貴族層の本草・医学知識の程度を考察していく。その際に『王羲之全書翰』(以下、『全書翰』と略す)に収められている書簡と、そこにある天然有用物・薬物・疾患とそれへの対処法の記述を研究材料とする。それらと本草書・医方書との比較・対照を行うのが主眼である。詳細は第三章を参照されたい。それに先だって第二章では、羲之の人物像やその書簡を使用する理由などを述べる。

 第三章と第四章がメインであるが、そこではできるだけ羲之と年代が近い人物や文献との対比で論を展開していきたい。具体的にどのような資料を用いるかは、その都度例示する。

 なお本稿での羲之の書簡はすべて『全書翰』から引用し、人名の敬称は略した。漢字はJISコードにある常用漢字・人名用漢字に従い、それらにないものは正字に改めた。短い引用は訓読文を「 」に入れ、「 」がないものは現代語とし、それ以外はすべて訓読とした。

 
第二章 王羲之という人物

 王羲之は東晋建国の三一七年前後、この世に生をうけた。正確な生没年については諸説がある[3]。『晋書』王羲之伝には「年五十九にして卒す」とあるが[4]、『王羲之伝論』(以下、『伝論』と略す)によれば、生まれたのは三〇三年ということになる[5]。字を「逸小」といい、また後に右軍将軍・会稽内史になったことから、「王右軍」や「臨川」という名でも『世説新語』のいたるところにみることができる[6]。彼が名門貴族の出身で、東晋王朝を支える官僚の一人だったこと、また在世中からあまりに有名な書家だったことなどが理由だろう。羲之の家系は「琅邪王氏」とよばれ、第四房にあたる。伯父の王導(第一房)と王敦(第二房)らが、司馬睿の第一の側近だった。

 四世紀初頭は、相反するふたつの要素が絡む時代でもある。ひとつには、華やかな六朝文化の幕開けがあるだろう。士大夫層をはじめとして、人々の価値観や芸術・文化・風俗などにおいて、新たなムーヴメントが起こりつつあった。もうひとつは戦乱である。この大乱は「永嘉の乱」とよばれ、大きく分けて匈奴・{氏+一}・羌・鮮卑の諸族との争いに、西晋の内乱(八王の乱)が加わり、三一一年には洛陽が廃墟と化した。その後の三一七年には、司馬睿が建康に東晋王朝を建国する。このような混迷の時期に、羲之は東晋を支える官僚のひとりだったわけだ。

 『世説新語』にみるかぎりでは、識見があって剛直な人物として描かれている。また、阮光禄阮裕)・殷中軍(殷浩)・{广+臾}亮など東晋の幹部たちは、そろって羲之を高く評価していた[7]。

 羲之の官僚としてのキャリアは、一九歳で秘書郎として出仕したのを皮切りに、征西将軍・{广+臾}亮の参軍や、江州刺史、護軍将軍を歴任する。最後は四九歳で会稽内史となった後、五三歳で隠遁した[8]。これは当時の貴族層の間では、最低限の医学知識を持つことと同様に、ごく一般的なことだった。

 しかし、隠遁には別の理由もあったようだ。『晋書』『世説新語』から推定するに、王述(字は懐祖、太原王氏の出身)との確執がそれだろう。羲之は普段から王述を疎んじていたが、その述が揚州勅使となってしまう。当時、羲之のいた会稽郡は揚州の傘下だったため、そのふたつを切り離すよう朝廷に願ったものの、使者が失敗してしまい、聞き入れられなかった。そのため、病と称して職を去ったという[9]。

 羲之隠遁までの過程をおおよそ述べたが、本稿のテーマの舞台はこれ以降のことである。それは本人の書簡によれば、「被髪佯狂し、或いは身を汚し迹を穢す」(『古之辞世者帖』)[10]ようなものではなく、目前にひろがる会稽の景色や、その空気を楽しみ、孫を抱いては果樹を植えるという日々だった。

 書道史において王羲之は現代でも「書聖」とよばれ、その名声はゆるぎない。書に関する文献に目を通せば、どこにもその功績の偉大さが述べられている。しかしここでは、そのような書に関する技術論や評論は行わない。そうではなく、本稿のメイン・テーマである魏晋南北朝の文人・貴族層の医学・本草知識の程度を考察する。その材料として、特に羲之の書簡を用いる理由を述べてみたい。

@王書と模本
 古代の名人の書といえば、「模本」「拓本」の問題を避けて通れない。羲之ほどの偉大な書家となると、それはなおさらである。では模本の作成とはいかなる手段であり、どのような過程を経るのだろうか。『書道芸術』王羲之・王献之によれば、四つの方法がある[11]。

:読んで字のごとく、真蹟に臨んで写す。原本の傍らで文字の大小・濃淡をよく観察するのはもちろん、本人になりきる心持ちが大切といわれる。

{(募−力)+手}:薄い紙を原本の上に被せ、その曲折に従って婉転して写す。専門の技術者が行う。

硫黄:紙を熱した熨の上に置き、黄蝋を一面に塗りつけると、紙が透明になり透けて見え、これを覆って写す。原本が変色している場合に適している。

響搨:暗室の中に坐し、窓に茶碗大の穴を開け、そこに原本と写し紙をあてる。日光に透かして写す。

:古人の名書を、その文句だけ写し取って、文字は自分の書体で書く。

 現在に伝わる王書(羲之・献之の書)は、多くが内府での臨模によるもの、または民間に散在していたものが多い。唐代の{衿−今+者}遂良や歐陽詢などが王書臨模の有名なところである。

 さらに具体的には、王僧虔の『論書』によれば、張翼という人物が王書の上表文を書いたが、それは真蹟と見分けがつかないものだったという[12]。

 また張翼の『書断』によれば、康という人物が草書に巧みであり、羲之の甥にあたる恵式ととも二王を学び、人々はその書を羲之のものと見誤ったといわれる[13]。

 権力者たちは、羲之・献之の書をひろく世に購求した。たとえば劉宋の考帝は王書一〇巻をまとめて収蔵し、同じく明帝は呉地方に散在していた王書を集めさせ、編次を加えて装飾させたという[14]。これらは劉宋の滅亡と運命をともにするが、他には斉の高帝や、梁の武帝などが王書を好んで蒐集している[15]。

 唐代には太宗・則天武后が愛好した。特に太宗は、『蘭亭序』を手に入れ、その死に際して他の王書とともに自らの墓に埋めるよう指示した。これにより王書の真蹟は地上から消えたともいわれ、また墓荒らしにより再び世に出たともいわれている[16]。

A本稿における羲之の書簡の有用性
 @でも触れたように、残念ながら現在に伝わる王書の真蹟は皆無である。しかし、その書を模倣することは羲之在世中からさかんに行われた。そこでは細心の注意が払われたため、細かい運筆や強弱の違いこそあれ、少なくともその内容においては真蹟に忠実だったはずである。羲之から書簡を送られた人物もまた、その筆跡を書の修行に用いたことだろう。こうして、羲之書簡中の物の名や体調・疾患に関する記述までもが、出土文献のごとく現代に伝えられたわけである。

 一方、『夢渓筆談』第一七書画・六には以下のようにある[17]。 

晋宋の墨迹は多く是れ弔喪問疾の書簡。唐の觀中前世の墨迹を購求することだ厳。弔喪問疾に非らざる迹、皆内府に入る。士大夫の家に存する所当日の朝廷取らざる所のもの、流伝して今に至る所以
 要するに、唐王朝が弔問や病気見舞いなどの書簡を集めなかったため、それらが民間に多く残る結果となった。もちろん全てにおいて、そうだったとはいえない。

 だが、このような過程で羲之の書簡に多くの天然有用物や薬物、または疾患に関する記述が残ったのもまた事実であるといえよう。
 

第三章 王羲之の本草・医学知識のルーツ

 本章は、羲之の書簡にある天然有用物や薬物、または病気・体調に関する記述の中から、できるだけ具体的な内容のものを抽出し、それらと医方書や本草書とを比較・対照する。その際には、できるだけ羲之の年代より前のものを用いるよう努めた。

 たとえば、『医心方』(九八四年、丹波康頼撰)・『外台秘要方』(七五二年、王Z撰)所引の『葛氏方』『范東陽方』(三七〇年以前)や、『神農本草』(一〜二世紀頃)、『名医別録』(三〜四世紀頃)、『肘後備急方』(三一七年頃、葛洪撰)などがその主要なものである。

 それらの他に『晋書』皇甫謐(二一四〜二八二)伝や、『医心方』に引用される『皇甫士安解散説』『皇甫謐曹歙寒食散方』などもあわせて検討対象とした。羲之以後のものは、『本草集注』(五〇〇年頃、陶弘景撰)・『新修本草』(六五九年、蘇敬撰)・『本草拾遺』(七三九年、陳蔵器撰)・『開宝本草』(九七四年、劉翰撰)などの本草書や、『諸病源候論』(六一〇年、巣元方撰)『千金要方』(六五〇年代、孫思{(辷−一)+貌}撰)『千金翼方』(六五〇年代〜七五〇年代、孫思{(辷−一)+貌}撰などの医方書も参考とする。

(一)道教と寒食散

 王家は代々、道教の信者だった。そのことについて、よく述べられることがふたつある。

 ひとつは羲之が道教の経典『黄庭経』(外景経)を書写していることで、これは山陰の道士の依頼によるものだったという[18]。本書は当時流行していた服気・行気などの道術を反映した書物であるから、ここから羲之が情報を得ていたこともあり得る。

 もうひとつは、羲之の次男である凝之にまつわる話である。『世説新語』言語篇・注に引く『晋安帝紀』によれば、孫恩が会稽を攻めた時、凝之は「吾已に大道に謂う、鬼兵を遣わし相助する許すと。賊自ずから破れん矣」[19]といい、防備を怠ったために殺されてしまったという。

 本人の書簡中には道教関係と思われるキーワードがいくつもある。それらは頁を改めて示すとして、『晋書』本伝には、羲之は道士である許邁と連れだって山に入り薬を求めたとある[20]。書簡に度々みられる「先生」とは、おそらく許邁のことだろう。

 このように羲之は道教の中でも、特に神仙思想や服食養性・服餌などにたいへん熱心だった。道教のそのような要素と関わりがあり、この時代に爆発的に流行していたのが寒食散である。

 寒食散とは鉱物薬を服用することにより、神仙の境地に達しようとする思想の手段だった。英気を養い、病を治す目的もあっただろうが、実際には麻薬のようなものだったらしい。服用後の高揚感や幻覚症状から、副作用のおまけつきで錯乱していたともいえる。

 その起源とでもいうべきものは、『世説新語』言語篇に次のようにある[21]。 

何平叔(何晏)云う、五石散(寒食散)を服すれば、唯だ病を治すのみに非らず。神明開郎なるを覚ゆ。
 何晏は三国・魏の人だが、その注には「秦承祖『寒食散論』に曰く。の方、漢代に出ずると雖も、而して之を用いるもの寡なり。靡に伝有る。魏の尚書の何晏、首めて神効を獲得し、是に由りて世に大いに行わる。服す者、相尋する也」[22]とある。秦承祖とは劉宋の人であり、ここから、漢代から寒食散が行われていたとみることができる。

 寒食散の「散」とは本来は粉末状の剤形のことである。この鉱物末を酒で服用すると、身体が熱を帯びてくる。そして注目すべきは、酒以外は温かいものを服用してはならないこと。冷たい物を食べ、風にあたるなどして熱を冷ますことである。このようにして効果を得ることを「節度」といった[23]。また寒食散の作用自体を「散」ということもあった。すると頻出する「解散」という表現は、(寒食散の)毒を解くという意味ではなく、むしろその効能を引き出すための手段、といったほうが近いのではないだろうか。

 それでは、いったいいかなる鉱物を用いていたのだろうか。『道教事典』には紫石英・白石英・赤石脂・鍾乳・石硫黄の五種を調合して作られる散薬とあり[24]、余嘉錫『寒食散考』によれば『金匱要略』中の紫石寒食散と候氏黒散が起源であるという[25]。つまり寒食散の処方はケース・バイ・ケースで、口伝による場合も多いので、正確なところは分からない。

 一方、同様に鉱物を服用する丹薬との違いは、大がかりな装置や特殊な技術が必要なく、加えてストイックに仙道を修行することもなくて済んだことである。換言すれば、暇と金さえあれば手軽に行うことができた。それゆえ丹薬よりも広範囲に流布し、多くの著名人が副作用をそれと認識できずに苦しんだのである。

 以下は羲之の書簡から、寒食散関連の記述と前述した医方書・本草書の内容を比較・対照していく。その際に特に有用なのは、羲之と時代が近い皇甫謐や、同時代の范汪による『范東陽方』、葛洪の『葛氏方』『肘後備急方』となろう。繰り返しになるが、羲之は服作用をそれと認識していない。したがって書簡には、ひたすら体調不良や疾患を嘆く内容のものが多い。それゆえ、まずはできるだけ具体的な部分から考察に入り、そののち、その他も含めて項目別に例示する。

(二)寒食散副作用の症状とその療法

 寒食散の服用後に現れる症状は、実に多岐にわたっていた。羲之やその友人・親戚にもその様々な様々な記録がある。

 その第一例を示そう[26]。

安石は定めて目絶えん。人をして悵然足ら令む。一たび爾らば、恐らくは未だ卒かには散ずる理あらん(「安石定目絶帖」)。
 この「安石」とは羲之の友人であり、また書の道にも通じていた謝安のことである。その謝安が何らかの疾患を患い、「きっと目が見えなくなるだろう。一度このようになってしまったなら、すぐによくなるはずがない」と誰かに告げている。この記述からすると、羲之は謝安以外にも目が見えなくなるような疾患を知っていたようにうけとれる。ここでは謝安の症状に対する療法などはないが、同じく「目が見えなくなる」をいっていると思われるものは、他書にもある。

 たとえば『医心方』巻二〇・治服石目無所見方第六には釈慧義『寒食散解雑論』を引き、「発熱の気、目を衝き、目漠漠として見る所無しを治す方」とあり、細かくした黄連・干姜・細辛・{艸+麦+玉}核を綿で包み、それらを銅の器に入れ、酒五升で二升半を煮取って目の中に垂らす、と詳しい処方が出ている[27]。また『世説新語』規箴篇では、「殷覬、病に苦しみ人を看るに政に半面を見るのみ」[28]とある。「殷覬」とは『殷荊州要方』という医方書を著した 殷仲堪の従兄弟で、羲之よりもやや前の時代の人である。

  『宋以前医籍考』によれば、『寒食散解雑論』『殷荊州要方』とも梁代には存在していた[29]。しかし目が見えなくなる症状に羲之は具体的な療法をいっておらず、また『殷荊州要方』も現存しないため、双方に関連性は見いだせない。

 謝安・羲之の時代より数十年前にも似た例がある。『医心方』巻一九・治服石得力候第三に引く「皇甫謐薛侍郎『寒食薬発動証候四十二変並消息救解法』(今検有五十一変)」では、「其の節度を失うと、目瞑くして見る所無し。坐して飲食し、居る処温の故なり。衣を脱し、自ら労し、洗し、冷飲食を促せば、須臾して自から明なり」[30]、とある。が、ここでも具体的な対処方法は述べられていない。

  第二例には、次の書簡がある[31]。

鄙は故より勿勿たり。飲むこと日に三斛なるも、小行は四升。至って憂慮すべし(「鄙故勿勿帖」)。
 この書簡は殷浩の北伐失敗後のことといわれるから、羲之がまだ会稽内史だったころである。「鄙」という人物が誰かは分からない。「飲むこと」というのは、水のことだろう。何のために三斛も水を飲むのか。恐らく寒食散服用による身体の熱を冷ますために違いない。しかし尿量が四升しかないので、憂慮すべしというのだろう。『医心方』巻一九・二〇の服石部は皇甫謐を引用し、「冷飲」により熱を冷ますという記述が多くある[32]。また『皇甫謐薛侍郎』には、「十石焦炭、水二百石にて之を沃す。則ち炭減す。薬熱甚だしと雖も寒石人を殺す」ともある[33]。寒食散の熱を冷ますという対処概念では、西晋の官僚である裴秀も同じようなことをしていたようだ。

 『医心方』巻一九・服石節度第一に引く『発動救解法』には、次のようにある[34]

又云う。河東裴秀彦、薬を服すも節を失う。而して三公の尊に処す。已に之を錯す後、己復た自ら知らず。左右又た之を救解せず。救解の法、但だ冷酒を飲み、冷水にて之を洗じ、水数百石を用いる。寒益甚だしく、水中に于いて絶命を遂げる。良に悼む可きなり。夫れ十石焦炭、二百石水にて之を沃す。則ち炭滅さん乎。薬熱気、甚しと雖も、夫れ十石の火なり。之を沃すを已めば、寒人を殺すに足りる。何ぞ薬を怨しる乎。
 『発動救解法』とは、その文の前に「皇甫謐『節度論』」とあり、「又『発動救解法』に云う」とあることから、同じ皇甫謐が著したといわれる『皇甫謐救解法』のことではないだろうか。寒食散服用後の注意事項は、歩き回ること(行散)の他に、冷たいものを食べ、衣服をうすく温かいものは酒以外は飲食してはならない[35]。裴秀は冷酒を飲んで熱を冷まそうとしたために、死亡したことになり、このことは『晋書』裴秀伝にも述べられている[36]。皇甫謐・裴秀とも、熱を冷まそうとしていたことは分かる。『医心方』には「冷飲」の他に、皇甫謐の書から「冷食」「冷洗」「寒床に坐す」「冷石を熨す」[37]、という対処方法を引用する。

 以上から、寒食散による熱を冷ますため西晋から東晋代に行われていた手段が、おぼろげながら浮かんでくる。「鄙」という人物は、やはり水を飲むことにより、熱を冷まそうとしていたのだろう。羲之は「冷やす」ことについて「十九日帖」でも、敬倫(王導の子。羲之の従兄弟)が動気(のぼせに近い状態)を起こした際に、「冷やせば良くなるだろう」[38]と述べている。

 冷やすことに関して、羲之には次の書簡もある[39]。

服食するも故より、可ならず。乃ち冷薬を將う。僕は即ち復た是れ之れに中る者なり。腸胃の中、一たび冷ゆれば、如何ともす可からず。是を以て要ず春・秋には輒ち大に起こり、腹中の調適せざること多し。君、宜しく深く以て意と為すべし。君の書を見るに、亦た此ろ之を得たりと。物養の妙、豈に復た言う容けんや。直だ其の人無き耳。許君験を見れば、何ぞ煩多と云うはん矣(「服食故不可帖」)。              
 「服食によっても良くならず、冷薬を用いたが、胃腸が弱いので、すぐに調子が悪くなる」とあるが、「冷薬」とは一体何のことなのか。やはり、寒食散により生じる熱を冷ます薬全般のことなのだろうか。この書簡の宛先人は冷薬を手に入ており、許君(許詢)も冷薬の効果があったらしいことが分かる。ちなみに『肘後備急方』巻三・卒上気咳嗽方第二三は「附方」に『劉禹錫伝信方』を引き、「(前略)人嗽を患うに、多くは冷薬を進す。若し此の方を見、熱の燥たらば薬を用いる。即ち肯えて服さず。故に但だ薬を出だし、之を試して効多ければ、之を信ず」[40]とある。ただし、これは「附方」なので金の楊用道による『証類本草』からの抜粋で、葛洪の文章ではない。
  
 次に、第三例として「月終帖」から羲之が紫石散について述べた書簡を挙げたい[41]。
昨の示を得て、弟の下の断えざるを知る。昨の紫石散、未だ佳ならず。卿は先ごろ羸るること甚だし。羸るること甚だし。好く消息せよ。吾は此日、極めて快ならず。眠るを得ず。食は殊に頓勿なり。陽を合せ令め、当に佳なるべきことを願う。力不一一。王羲之報ず(「月終帖」)。                                 
 紫石散とは紫石英を用いた(寒食散)の処方のひとつだろうか。それを下痢止めに使用したが、効かないのは疲れがたまっていたせいであるという。また自分は体調が優れず、睡眠不足や食欲不振であるが、「陽を合せ令め」具合が良くなることを願う、と陰陽説の思想ともとれる記述がある。

 余嘉錫の『寒食散考』によれば[42]、紫石英を用いるのは寒食散処方の起源のひとつで、『金匱要略』の紫石寒食散方がそれであるとしている。これは同書巻下にある傷寒病を治療するための処方で[43]、他に白石英・赤石脂・鍾乳・乾姜・附子などとともに酒で服用する。なお『神農本草』『名医別録』ともに、紫石英が下痢に効くという記述は見あたらない[44]。

 『本草集注』紫石英項の陶注には次の記述がある[45]。

会稽の諸曁石、形色は石榴子の如し。先時は並びに雑用す。今、丸散家採択す。惟だ太山が最も勝なり。余処は丸に作し、酒で餌すべし。仙経正しくは用いず。而して、俗方重き所と為す。
 これによれば、まず会稽の諸々の曁石は石榴子(ざくろいし。南方に産出する馬脳の一種。石榴のように明るい赤色の鉱物)のような形色をしている。紫石英は丸散家が採取するが、最も上質のものは太山(泰山のこと。山東省泰安県の北)に出る。仙経はこれを使用しないが、その他の俗方が珍重する、という。

 『図経本草』には次の記載がある[46]

紫石英。泰山及び会稽に生ず。欲せば、削の紫色頭に達するが如き、{(打−丁)+(樗−木)}蒲(さいころ)の如き者にせ令む。(中略)会稽、嶺南の紫石英、之を用いること亦た久し。乳石論に紫石を単服する者の無きは、惟だ五石散之を通用す。
 これによれば紫石英は、やはり会稽・泰山に産出する。紫石英を単服することは、五石散に通じることでもあるという。

 以上を整理すると、羲之の考えは「紫石英が下痢に効かないのは、疲労が蓄積しているためである」ということになる。しかし医方書・本草書ともに、下痢に紫石英を単服するいう処方は見つからなかった。とすれば羲之は寒食散の処方のひとつとして紫石英を考えていたことになり、その理由として『本草集注』『図経本草』の記述内容が挙げられるのではないだろうか。この書簡がいつごろのものかは分からないが、東晋の首都は建康であり、会稽は羲之が官職に就いていた土地である。泰山にしてもそう遠くはない。紫石英を手に入れ、寒食散に用いていたと考えてもおかしくはないだろう。

 第四例として、「服散」と陟釐の使用方法がある[47]。

大は近ごろ復た服散せざるを以て、当に陟釐を將てすべき也。此の薬の益となること、君の告の如し(「想大小皆佳帖」)。
 「大」とは、羲之の伯父・王導の子である王劭のことである。その王劭が服散をしないのなら、陟釐を使用しなければならない。この薬がよく効くのはあなたのおっしゃるとおりである、という内容である。この書簡は、妻の弟である{(郤−谷)+希}惜か{(郤−谷)+希}曇に宛てたものといわれる。{(郤−谷)+希}家もまた道教には熱心だった。『世説新語』術解篇によれば[48]、{(郤−谷)+希}惜が道教の札を飲み過ぎて腹の具合が悪くなり、于法開という医者が煎じた薬を飲み、その札を吐き出したという。

 では、なぜ服散(粉末状のものを服すること)の代わりに、下痢止め薬で紙の材料にもなる陟釐を使用するよういっているのか。陟釐とは水苔の一種であるが、『名医別録』には「方家惟だ下を断すに、薬と合わせて之を用いる」とある[49]。また『新修本草』の注文は、『范東陽方』を引いて「水中石上に毛の如く生ず。緑色は薬対す」ともいう[50]。これらによれば、陟釐を道士や仙道修行者が用いることもあったと分かる。羲之は道教に熱心だった{(郤−谷)+希}惜ともども、そのことを知っていたのだろう。とすれば、ここでいう「服散」とはやはり寒食散のことではなかろうか。

 以上の四書簡が、寒食散・道教関連の具体的なものである。他には自分や家族・友人の体調が優れないのをひたすら嘆くだけのものや、道士・許邁に宛てたもの、また服食養生に対する考えを述べたものなどがある。しかし治療法や処方らしきものが述べたものはない。それらのうち代表的なものを、以下に一括して紹介するにとどめる。

《寒食散の副作用症状を述べたもの》 
「州将十五日告帖」:徐州刺史だった人物が、大きな腫れ物をふたつ患っているのを治してやりたいと述べているが、「疾源此の如くんば憂怛すること尚深し」ともある[51]。

「未得安西問帖」:友人である許詢の身体が急に腫れだしたことを憂慮し、「疾候は自ら恐らくは難からん」と嘆いている。その後、許詢は羲之が訪ねた時に死亡していた[52]。

「昨見君歓帖」:誰に宛てたものかは不明だが、相手の脇の具合を尋ねている[53]。

「発動脇腫帖」:これも宛先は不明。ただ、その人物の脇の下の腫れ物が王延期の症状と似ているので、治療法は分からないが次第に快方に向かうだろうと告げている。脇の下の腫れ物・できものは寒食散副作用の代表例である[54]。

「得里人書帖」:郷里の誰かに宛てものであり、相手の顔が腫れていることを心配し、同時に自分は脛を患っていることを告げている[55]。

「足下各如常帖」:誰に宛てたかは不明。羲之自身が、どこかから帰ってきた直後に疲労がたまり、痰が出て喘ぎ、同時に口の渇きと吐き気があり、食も進まないと嘆いている[56]。

「累書想至帖」:羲之自身が下痢が続いて弱っており、また身体は腫れている。良くなったり悪くなったりで治療法が分からない。ずっと穀類を食べていたのだが、気力が出ず、別の病気も患ってしまった。そこで穀類から麺類にしたが、相変わらずという[57]。

《五石散について述べたもの(「散力」とある場合は省いた)》
「五色石膏散帖」:宛先は不明。誰かに処方してもらった五色散(五石散)を服用したところ体が軽くなり、飛んでいるかのようなので、さらに七服分を分けてください、と寒食散の効果があったことを喜んでいる。「五色散」ということは、五つの鉱物薬による処方だったのだろう[58]。

「想諸舎人帖」:袁妹(誰かは未詳)に、大いに寒食散の効果があったことを「石散の力を得たり」と述べているが、それでも快方に向かわず、長く患っていることを嘆いてる[59]。

「郷里人択薬帖」:郷里の人間が夢のお告げで見つけた薬は、今まで見たことがないもので、これを服用すれば仙人になれる、と述べている。 鉱物薬であるかどうかは分からないが、「形色は故より小しく異にして、則ち嘗て見る者莫し」とあることから、珍しいものだったことは分かる[60]。
 
《服食養性について述べたもの》
「追尋傷悼帖」:誰かの死に際しての書簡。悲しみのあまり、朝に服散(何を服用したかは分からないが、おそらくは寒食散だろう)したが、ますます気力が萎え、同時に自らの疾患や、老いてしまったことを嘆いている。また服薬して何の利益になるものかとは思うが、それによって少しずつでも病を治していきたい、と告げている[61]。

「安復後問不帖」:自分は病気が長引いて重く、全く食欲がない。寝返りすら一人ではうつことができない。「小妹」(誰かは未詳)という人物もまた薬の効果がなく、苦しみのあまり眠れないでいることを嘆いている。後半部分には「頤養之功」という言葉で、服食養生というものがいったい何になるだろうと憤り、ただ病気が良くなることを願うのみであるのに、ともある[62]

《道士に宛てたもの》
「玉潤帖」:王献之の娘・玉潤の持病が悪く、また頭にできものができてしまった。その後、できものは潰れたものの、依然として良くはならない。最近、こんな厄介な病気は見たことがない。これはすべて自分が家長でありながら、その責任を果たしていないためで、誠心誠意から罪を待つのみで、先生(玉潤の治療を頼んでいた道士)には恥じるのみです、と告げている[63]。

(三)天然有用物・薬物に関する記述から

 ここでは寒食散関連以外の、羲之の天然有用物・薬物に関する知識のルーツを探る。さて『王羲之全書翰』には、計六九五の書簡が収められている。そこには天然有用物の名称が全部で五三あり、それらによる服食養生などに羲之をはじめとする当時の貴族・文人層が、いかに関心を持っていたかが分かる。もちろん羲之はそれらすべてにおいて、具体的な用途や服用の体験を述べていない。多くはそれら有用物のやりとりか、もしくは嗜好を述べるにとどまる。それらを、できるだけ具体的、かつ何らかの書物との共通点がみられるものから考察し、最後に項目別に分けて例示したい。

 まず第一例は、{豆+支}と純酒による「{豆+支}酒」について述べたものを取り上げる[64]。

又囗焦なり。小しく{豆+支}酒を服するに、至って佳なり。数々用うるに験有り。直だ純酒を以て漬たすのみ。汁をして濃くせ令め飲ませ使む。多少は意に任す(「{豆+支}酒帖」)。                                 
 『全書翰』では{豆+支}を味噌としているが、現代日本の味噌とは違う。豆類から作ることに変わりはないが、「豆{豆+支}」といったほうが正鵠を得ているだろう。『斉民要術』『食療本草』には「作{豆+支}法」があり[65]、豆を煮たり炒ったりして発酵させている。また『証類本草』米穀部には、その際に使用する豆類や方法が多く出ている[66]。「{豆+支}酒」は多くの本草書や医方書がその効能を論じており、古くから広範囲に流布していたことが分かる。羲之より前代ないし同時代では、『医心方』に多く引用される『葛氏方』がある。

 そのうち、もっとも羲之に近いのではないかと疑われるのが、『医心方』巻八・脚気虚弱方第七の所引文である[67]。

脚気、疼痺し、屈弱して不仁、時に冷、時に熱するを治す方。先ず好{豆+支}一升を取り、三蒸三暴干し、好酒三升を以て之を漬けること三宿、便ち可。飲は人に随いて多少あり。滓を以て脚に薄く。其の熱、小退するを得る也。又方、酒を以て{豆+支}を煮、之を服す。
 これは脚気のための処方だが、『千金要方』巻七・風毒脚気論の論風毒状第一では『諸病源候論』を引用し次のようにいう[68]。
論曰く。諸経方を考ずるに、往往にして脚弱の論有り。而して古人此の疾少なし。 永嘉の南渡自り、衣纓の士人、多く遭う者有り。
 「衣纓の士人」とは朝廷の役人を指す。古人には脚気が少なかったが、東晋の南渡以降に脚気を患う人が増えたという。南方に移った東晋王朝の官僚たちが白米と塩辛の味を覚え、ビタミンBが欠乏したためだろう。羲之の書簡にも、脚気症状ととれる記述が少なくない。

 『肘後備急方』巻三・治風毒脚弱痺満上気方第二一にも、{豆+支}と酒による処方がある[69]

好{豆+支}一升を取りて三蒸三暴乾し、好酒三斗を以て之を漬けること三宿、飲すべきなり。人に随いて多少あり。預防せんと欲せば必ずしも時を待たず、便ち酒と{豆+支}を煮て之を服す。其の小しく愈ゆるを得、及び更労すべし。
 他には『医心方』巻一二・消渇並大小便に、『葛氏方』から引用の{豆+支}酒があった[70]。「{豆+支}酒帖」を書いた時、羲之が何を患っていたか分からない。しかし{豆+支}酒には様々な効能があることから、それにより体調が良くなったことを告げているのだろう。

 なお寒食散の副作用対策らしいが、『医心方』巻二〇・治服石心噤方第三には「秦承祖」(『世説新語』言語篇・注にある秦承祖『寒食散論』のことだろう)として、服石後に心痛や心噤があった場合、美{豆+支}を熬して香りを立て、清酒三升の中に入れ、一煮立ちさせてから濾過し、温かいまま飲んで汗を出すのがよいとある[71]。{豆+支}酒やはりこの時代、ひろく流布した方法なのである。
 
 第二例として、石脾(岩塩の一種)と独活(ウド)について取り上げる[72]。

石脾は水に入れれば則ち乾き、水より出だせば便ち湿る。独活は風有るも動かず、風無きも自ら揺く。天下の物理、豈に以て意もて求む可けんや。唯だ上聖のみ乃ち能く理を窮む(「石脾帖」)。                           
 石脾については、まず芒消・消石との関係を述べねばならない。『証類本草』では、「有名未用総百九十四種二十六種玉石類」と「三十五種陳蔵器余」に石脾が載る[73]。しかしより詳しく石脾について考察するには、『本草集注』陶注の芒消項が妥当だろう。その部分を整理すると、以下のようになる[74]。

 『本草集注』陶注:『神農本草』には芒消はなく、消石がある。『名医別録』によれば、どちらも効能は同じであるから、芒消と消石は同じものである。芒消を煮ると、「真消石」となる。「石脾」「石肺」は本草にはなく、それを知る者もいない。ただし皇甫謐はこれらを分けている。

 『本草集注』陶注所引『皇甫士安解散説』:消石は山の陰に産出し、塩の苦いものである。石脾と消石を水一斛で煮て、そこから雪のように白い三斗を得る。それを水に入れれば消えることから、消石という。

 『新修本草』蘇敬注:晋宋代の古方は消石を多く用い、芒消は少ない。近代の諸医は芒消を用いる。芒消・消石の味が同じなので、古人は両者を区別していなかった。

 以上で注目すべきは、陶弘景が皇甫謐を「安定人」称し、医薬に明るい人物で、芒消・消石などを煉すのに詳しかった、ということである[75]。「三十五種陳蔵器余」における石脾の記述と、『皇甫士安解散説』のそれはよく似ている。

 羲之の「石脾は水に入れれば則ち乾き、水より出だせば便ち湿る」という記述だが、明確に一致するものはない。ただ「水より出だせば便ち湿る」というのは、皇甫謐のいうところを喩えているのではないだろうか。独活は『名医別録』に「一名独揺草。此の草、風を得て揺れず。風無くして自ら動く」とあり[76]、『本草集注』陶注にも同じ内容の記載がみられる[77]。

 つまり石脾・独活とも通常とは正反対の挙動をするものだった。それゆえ羲之も書簡に記したのだろう。
 
 第三例は、{盧+鳥}{(−心)+鳥}(鵜の一種)の生態について述べられたものを紹介する[78]。

{盧+鳥}{(慈−心)+鳥}の糞の白きは、{黒+干}{黒+會}、瘢黶を去き、人をして色態あら令む。此の禽は卵生ならず、口より其の雛を吐く。独り一異と為す耳(「{盧+鳥}{(慈−心)+鳥}帖」)。
 {盧+鳥}{(慈−心)+鳥}とは鵜の一種で、その糞は蜀水花ともいう。また『名医別録』には「面の黒{黒+干}・黶誌を去る」とある[79]。ただし、羲之がいいたいのは、その効能ではなく、{盧+鳥}{(慈−心)+鳥}の生態であろう。『本草集注』陶注には、「此の鳥、卵生ならず口より其の雛を吐く。独り一異と為す」とよく似た記述がある[80]。時代的には王羲之が陶弘景より先であるが、これもまた珍しい生態のため古くから知られており、羲之が書き残したのだろう。

 同じようなことが『医心方巻四の治鼻{査+皮}方第一六に『葛氏方』から引用され、「面及び鼻に酒{査+皮}宿るの方。{盧+鳥}{(慈−心)+鳥}矢を末し、朧月の猪膏を以て和し、之を塗る。鶴矢亦た佳なり」[81]とある。他には、梁・簡文帝の命で編纂された『如意方』が『医心方』巻四の治面{皮+干}{黒+(繩−糸)}方第一五に引用され、治{黒+干}{黒+(繩−糸)}術、{盧+鳥}{(慈−心)+鳥}白屎、之を貼る」という治療法がみられる[82]。

 第四例には、石首魚(イシモチ)の珍しい生態について記述がある書簡を取り上げる[83]。

石首{(巻−己)+魚}、之を食らわば瓜を消し、水と成す。此の魚、脳中に石有りて碁石の如し。野鴨も亦た有り。此の魚の化する所と云う。乾蝸・青黛は風{(打−丁)+畜}搦を主りて良し(「{艸++斤}茶帖」)。
 「石首」は石首魚のことで、{(巻−己)+魚}は魚を干物にした状態をいう。乾蝸は乾燥させた蝸牛(カタツムリ)、青黛は薬草の名である。風{(打−丁)+畜}搦はよく分からないが、{(打−丁)+畜}搦は痙攣なので、風邪による急性痙攣だろう。「石首{(巻−己)+魚}、之を食らわば瓜を消し、水と成す」という部分だが、この「瓜」はいったい何だろう。
 
 石首魚を初収載した宋代の『開宝本草』に次の記載がある[84]。
石首魚、味甘く、毒無し。頭中に石有りて碁石の如し。石淋を下すを主る。石を磨して之を服す。亦た焼きて灰と為し末して服す。蓴菜と和し羮を作せば、胃を開き、気候を益す。乾して之を食す。名を{(巻−己)+魚}と為す。炙りて之を食せば瓜を消し、水と成すを主る。亦た、卒に腹張し食を消せず、暴かに下痢するを主る。初めて出ずる水は能く鳴く。夜に視るに光有り。又た、野鴨頭中に石有り。是れ此の魚の化する所と云う。東海に生ず
 「乾して之を食す。名を{(巻−己)+魚}と為す。炙りて之を食せば瓜を消し、水と成すを主る」の部分は確かに共通している。が、やはり「瓜」が何を指すかは分からない。瓜類全般の果肉ないし種子か、あるいは石淋(尿路結石)のことかもしれない。

 頭の中にある石については、「頭中石有りて碁石の如し」と「野鴨頭中に石有り。是れ此の魚の化する所と云う」の部分が共通する。これらを総合すれば、羲之の石首魚に関する記述と『開宝本草』のそれとは断片的に一致する。羲之は物珍しい部分を書き残したのだろう。

  なお『医心方』巻一二・治石淋方第五は『葛氏方』が引用され、次のようにある[85]。

石淋の者は、石首魚頭中石一升、見歯一升を合わせて搗き、細篩し、苦酒を以て和す。分けて三服と為し、宿して食せずば、明旦に服すること一分、日中に服すること一分、暮に服すること一分、明日旦、石悉く下る
 つまり『開宝本草』以前でも、王羲之と葛洪には石首魚に関する共通の医学知識があったことになる。では、このように耳につく内容であるのに、なぜ東晋の王羲之から宋代の『開宝本草』まで間があき、『本草集注』や唐政府編纂の『新修本草』に記載されなかったのだろう。その間ずっと民間伝承していたといってしまえばそれまでだが、理由は不明である。

   第五例は、痔瘻について述べられた「鷹嘴帖」を取り上げる[86]。

鷹の嘴爪、灰にして麝香を入れて煎じ、酥酒一盞にて之を服すれば、痔瘻を治すに験有り。十七日、羲之頓首(「鷹嘴帖」)。
 鷹の嘴と爪を焼いて灰にし、麝香を入れて煎じ、さかずきいっぱいの酥酒(乳酒)で服用すれば、痔瘻によく効くという。唐・陳蔵器の『本草拾遺』によれば、「嘴爪、五痔、狐魅を主る。焼きて末と為し、之を服す」[87]とあり、確かに鷹の嘴爪が痔瘻に効くという。ところが羲之がいうような処方は、医方書に見いだせなかった。麝香にいたっては痔瘻に効くともなく、唐の『新修本草』には麝香の記載さえない。酥は『本草拾遺』にあるが、やはり痔瘻の記述はない[88]。

  つまり羲之がここで挙げた三物に共通するのは、『本草集注』『新修本草』に関連記載が認められないことである。また鷹の嘴爪にいたっては、「鷹屎」の項が『名医別録』『本草集注』『新修本草』にあるものの、鷹の嘴爪は前述のように『本草拾遺』ではじめて言及があった。以上の検討結果を表1に示す。なおの○はその書物に注も含めて項目があり、●は羲之との一致点があることを示す。
  
表1
 石首魚鷹嘴・爪 酥麝香
神農本草    ○
名医別録   ○ ○
王羲之  ○  ○ ○ ○
本草集注    ○
新修本草   ○ 
食療本草   ○ ○
本草拾遺  ○  ● ○ 
開宝本草  ●   
図経本草   ○ ○
  
 各々の情報や知識が以上のように伝承された理由は不明であるが、『神農本草』『名医別録』における病理や療法、薬の使用方法と、『新修本草』におけるそれとが食い違うことは稀にあることだという。羲之が挙げている石首魚・鷹の嘴・爪の使用方法がそのまま『本草拾遺』や『開宝本草』に取り入れられたとは思えないが、東晋代にはそれが通用していたことはうかがえる。

 第六例は、狼毒を求めた内容の書簡を用いる[89]。

狼毒を須む。市に求むるも得可らず。足下、或いは有ら者、三両を分かてよ。停りて須つ。故に示す(「狼毒帖」)。
 狼毒とは毒草の名である。羲之はそれを市に求めたが、手に入れることができなかった。『本草集注』狼毒項の陶注から、関連の記載を抜粋してみよう[90]。
(前略)蝮蛇、其の根(狼毒)を食す。故に得難しと為す。(中略)防葵と同根類なり。怛(但)だ水中に置きて沈むは便ち是れ狼毒なり。浮くは便ち是れ防葵なり。俗用は稀なれば、亦た得ること難し。
 このように狼毒は陶弘景の時代でも、なかなか入手しにくいものだったらしい。

 第七例は、どこにも関連記載が見いだせなかった「天鼠膏帖」を取り上げる[91]。

天鼠膏は、耳聾を治すと。験有りや否や。験有ら者、乃ち是れ要薬なり(「天鼠膏帖」)。
 天鼠膏とは天鼠(伏翼・蝙蝠、コウモリ)の脂肪だろう。これは友人であり、蜀地方(益州)の刺使だった周撫に宛てたものである。「天鼠膏が耳聾に効く」ということは『証類本草』の伏翼・天鼠屎いずれの項にもない[92]。ということは、『神農本草』から『証類本草』にいたる本草書にない、ということになる。明代の『本草綱目』では巻四八・天鼠屎の「附方」に、耳だれを治すのに陳蔵器『本草拾遺』から麝香と夜明砂(天鼠屎の別名)の処方を引く[93]。しかし、耳聾についての記載はない。

  『全書翰』には「王弘の『十七帖述』に、凡そ鼠胆は能く耳聾を治す」とあるが[94]、これもまた天鼠膏ではない。このように当書簡の関連内容はどこにも見いだせなかった。
  第八例に豆に関する書簡文をみてみよう[95]。

豆を{口+敢}へば、鼠傷に佳なるが如し。今、送る。能く{口+敢}ふや不や(「{口+敢}豆帖」)。
 「豆を食べれば鼠傷に効く」とあるが、「鼠傷」とはいったい何のことなのだろう。文字どおり鼠に咬まれた傷とするなら、『医心方』巻一八に「治鼠咬人方」がある。そこでは『医門方』を引用し、荳{艸+冦}(ニクズク)を水で煮て服す、または咬んでから傷の上に貼る、という療法がみられる。また鼠傷の症状として、「諸の処、皆腫れ、年月を経ても差えず。其の咬む処、赤脈有るは是れ也」とある[96]。これから推せば羲之がいう「鼠傷」とは、できものや腫れ物のことらしい。

  他方、『証類本草』米穀部の生大豆・赤小豆の項には、確かにできものに効くとある[97]。豆の効能と寒食散の関連を探ってみると、『肘後備急方』生大豆項の又方によれば、礬石中毒に生大豆が使用される[98]。『医心方』巻二〇・治服石身体腫方第二三は『千金方』を引用し、「若し腫、脚より向上して稍や腹に進入せば則ち人を殺すの方。赤小豆一斗を水三斗を以て煮爛し、豆を出し、以て脚膝以下を漬すこと日に一。数日之を為せば愈べし」、さらに「又云う。散発し、赤腫するに摩す膏方」と続いている[99]。以上からすると、羲之がいう「鼠傷」はできものや腫れ物の類で、それは寒食散の副作用の結果だったのかもしれない。

  第九例は下痢に関する書簡を取り上げる[100]。羲之は慢性的に下痢を患っていたようである。

民は橡屑を服して自り、下は断え、体気は便ち自ら差や強し。此の物は人に益ありて下を断つ。陟釐・劫樊を去ること遠きなり也。以て良方と為す。出だすは何ぞ是れ真なるとは、此の謂なり。謹んで青州に因る(「五月二十七日帖」)。
 ここでは下痢止めの薬がいくつか出ている。『全書翰』は橡屑・陟釐・劫樊と「劫樊」をひとつのものの名に判断していは{(−大)+火}で焼(熬、)いた礬石のことではないだろうか。それぞれの効能を本草書で調べてみた[101]。

  橡屑(「橡」とは、トチのこと):『新修本草』に「橡実。味苦、微温、毒無し。下痢を主る。腸胃を厚くし、人を肥健にす。其の殻、散及び煮汁と為して服せば亦た痢を主る。并びに染用に堪う。一名、杼斗、槲、檪。皆な斗有り。檪を以て勝と為す…」、とある

  ここに「下痢を治し、胃腸を丈夫にし、人を肥健にする」とあり、またその殻も下痢を治すという。羲之がいう「橡屑」とは、おそらく橡の実や殻を砕いて粉末状にした状態であるから、『新修本草』の記載と一致する。杼斗(どんぐりの実の異名)・槲(かしわ)・檪(くぬぎ)などの別名や、その呼び名の変遷は本稿の趣旨とはあまり関連しない。

  しかし簡単に触れると、『斉民要術』『事物異名録』によると、洛陽人は杼を橡子、橡の殻を杼斗、または橡斗と呼び、また徐州では檪を杼とするともいった[102]。いずれにせよ、これら混同されていたらしいそれゆえに『本草集注』にはなく、『新修本草』にいたるまで「橡実」として項がたてられなかったのだろう。「槲」もまた「唐本新附(『新修本草』での収載)」とある[103]。

  陟釐は前述のように、『名医別録』に下痢の薬として述べられている[104]。 礬石の効能については、『神農本草』に「味酸、寒。寒熱、洩痢、白沃、陰蝕、悪瘡、目痛を主る。骨歯を堅にす」[105]といい、下痢に効くとある。また「錬して之を餌服せば、身を軽くして老いず、年を増す」ともある。その『本草集注』陶注では、「仙経之(礬石)を単餌し、丹方亦た之を用う。俗中は薬に合するに、皆先ず火にて熬し、沸燥せしめ、以て歯痛を療す…」とあり[106]、歯痛を治すという。羲之の書簡にも、歯痛を訴えているものがあるが、そこには何の療法も述べられていない[107]。

  もうひとつ下痢への対策を述べているものに、『哀感不佳帖』があり[108]。それでは下痢が止まらない友人に対し、女萎丸は即効性があることを勧めている。『本草集注』陶注には、「服食家、之を用いる」「今、下痢を療する方、多く女萎を用いる」「諸石を理するを主る。人、服石せども調和せずんば、汁を煮て之を飲す」[109]、と述べられている。

  第九例は、詳しい処方が述べられた「治頭眩帖」を取り上げる[110]。 

頭眩、脳悶を治す。或いは癰腫頭を患い、則ち潰れざるものは、此の薬を以て之に帖ば、皆良し。蓖麻、巴豆、薫陸、石塩、{艸+弓}窮、松脂の六物、粗搗すること米粒許りの如くにして、少しく其の分を頭悶の処に加う。其れに先だちて、巴豆は三分し、一を松脂に減す。髪を剃り除くこと方寸、帛を以て薬を帖り、病上に当つ。之を帖ること周時、帖もて上の爛皮を削り、麻油を主とし、石塩を和したるを以て、上に塗る。当に黄水の出づる有るべし。佳と為す。羲之上る(「治頭眩帖」)。
 ここではかなり詳しい処方と、症状・療法が述べられている。全六九五書簡中でも、これがもっとも本稿の題材にふさわしい。頭眩は頭がくらむ状態、脳悶はぼんやりすることをいう。加えて癰腫頭は頭のできものをいい、これが潰れない場合の処方である。それには蓖麻・巴豆・薫陸・石塩・{艸+弓}窮・松脂の六物を、米粒ほどに細かく砕き、それを患部につける。その前に巴豆を三分し、その一分は松脂よりも少なくする。頭髪を一寸四方そり落とし、薬を布に塗って患部にはりつける。一昼夜たってから、その布で爛れた皮膚を削り取り、胡麻油に石塩を加えて塗る。黄色い水が出てきたら、それでよい、というのである。黄色の水が出るというのは化膿最終段階の排膿であるから、排膿を促している。

  考察の重点は六物の処方となるが、完璧に一致するものは見つからなかった。おそらく当症状は寒食散の副作用によるできものの類だろう。また六物それぞれには確かにできものを治し、排膿を促す作用があっても、『医心方』『千金要方』『千金翼方』に合致する処方は見当たらなかった。外科(皮膚科)の専書『劉涓子鬼遺方』(四九九年成立)には、「できものが潰れない」という症状に、巴豆・{艸+弓}窮・松脂に白{艸+止}黄耆・当帰・猪脂などを組み合わせる処方が多い[111]。また『千金要方』巻一三・頭面風第八・頭面上風方には、松脂・石塩・薫陸・蓖麻と杏子などの処方がある[112]。

  これだけ詳しい処方ならば、その伝承過程で何種類かが入れ替わるのも無理はないかもしれない。が、それぞれの効能・構成薬が共通し、かつ組み合わせて処方することで「できものを治し、排膿を促す」という作用が得られるのだろう。

 第一〇例には、道士との交わりがうかがえる「先生頃可耳帖」を取り上げる[113]。

先生は頃ろ可なる耳。今日、略ぼ至らん。委悉を待つ。楽公の之が為に慰むべきを知る。桃膠は得やすきも、以て少しくす可きか耶。一物を専らにして移さざるは、乃ち忠なせざる也「先生頃可耳帖」)。
 ここでいう「先生」とは、道士・許邁を指す。桃膠とは桃の木や果実から出るヤニのこと。『名医別録』には、「桃膠、之を錬すれば、保中を主り、飢えず、風寒を忍ぶ」[114]とある。『本草集注』陶注には、仙家が丹方などに用いるとあり[115]、『新修本草』の注文には、「石淋を下すを主り、血中悪{(病−丙)+主}を破る」[116]とある。『抱朴子』内篇・巻一一には、「桃膠、桑灰を以て汁に漬け、之を服せば百病愈ゆ。久しく之を服するに、身を軽くして光明有り。晦夜の地に在る月出の如し。之を多く服すれば、則ち断穀を以てす可かざらん」[117]とある。

  羲之がいう「一物を専らにして移さざるは、乃ち忠なせざる也」とは、桃膠を常用しすぎることにより、『抱朴子』にあるような仙人への最終段階である断穀へとつながることを懸念しているのだろうか。

  第一一例は有用物ではなく、疾患について述べたものを挙げる[118]。

昨の若耶の観望は、乃ち輿上に隠痛に苦しむ。前後に未だ此れ有らざる也。然れども一日に一たび発するのみにして、労するも復た極まらず。此れを以て慰めと為す耳。力不(「若耶帖」
君の隠を患うを知る。何を以てか爾に及ぶや。是の疲れが極まりたるが為ならん。一たび此の事を知りては、恐らくは以て骨肉の愛を絶たざる可からざらん。人事を論ずる無き也。乃ち甚だ憂う。君若しくは自から量り、過ぎて患を嘆かんことを。以て心を軽くせずん者、一事も爾らず。当た何の理むることあらん耶(「知君患隠帖」)。
 羲之の書簡中、「隠」という表現が右記の二カ所に出てくる。『全書翰』は「若耶帖」において「発作が起きてズキズキ痛むのだろう。羲之はリウマチを患っていたようである」とし、また「知君患隠帖」では「家族と一緒にいては都合の悪い病気」と推測している。

  一方、『古代疾病名候疏義』は次のようにいう[119]。隠疾は、黒臀・黒肱(臀は尻、肱は肩から肘にかけての部分)ともいうように、衣服の下に兆候が現れる。それゆえ、その症状が出ても人には見せられず、ここから「隠疾難為医」という俗語が生まれ、隠疾は「衣中疾」や「私之疾」であるといわれた。さらに黒臀・黒肱の他に痛みも併発するため、「詩に隠憂有の如しとは、是れ隠為す也。痛疾を以て名と為す」ともある。

 すなわち発作が起き、痛みがあり、人には見せられないということから、隠疾は現代でいう鼠蹊ヘルニアに近いものであると推定できる。このような由来や病状があったため、羲之は「骨肉の愛を絶たざる可らん」としたのだろう。

  第一二例は、針による疾患治療について述べた書簡を挙げる[120]。 

吾は{骨+(坑−土)}{骨+客}拘□して痛く、俛仰も得ざらんと欲。此れ何の理ならん耶。願わくは輒ち与に相い見んことを。治の宜しきを盡くすこと無し。足下益するを得て、之をし疑はざら使めよ。但だ月は未だ陰沈沈たらざれば、恐らくは針す可かざらん。何を以て目前を救うかを知らず。甚だ憂悴す(「{骨+(坑−土)}{骨+客}帖」)。
 腰骨が痛み、起き伏しもできないような状態であるが、治療法が分からないので教えて欲しいと、誰かに頼んでいる。ただ、「月がまだ陰の状態になっていないので、針もできない」とある。この表現は、針灸書『黄帝蝦蟇経』との関連性を推測させる。『黄帝蝦蟇経』は、月の陰影を兎と蝦蟇にたとえ、針灸を行うのによい日程などを説いた書である。成立年代は未詳であるが、『黄帝蝦蟇経』の「蝦蟇、喙を生ずれば、人気脚に在り」と酷似した文章が『医心方』所引の『范東陽方』と『蝦蟇経』にある[121]。これと『隋書』経籍史の記録から、丹波元胤は晋宋代にそのような針灸避忌の書物があったことを推測している[122]。このほかの書簡からも羲之が針や灸を行っていた様子をうかがえるが、それらは効果の有無を述べているだけである。
  
  第一三例もまた、疾患について述べたものを取り上げる[123]。 
吾は中冷ならんと欲、甚だ慣慣たり(「適得書帖」)
羲之は中冷にして無頼なり(「不審尊体帖」)
告を得て、中冷の解せず、更に壯湿なるを知り、甚だ耿耿たり。何の薬を服する耶(「山下多日帖」)。
此日、中冷之を患うも、始めて小しく佳なり(「一昨因曁主簿帖」)。
期は中冷なるも、頃ろ時行あれば、人を畏愁せしむ可し。「松廬善斬帖」
 羲之の書簡に「中冷」という言葉が、計五回出てくる。これは、いったいどのような疾患だろう。『古代疾病名候疏義』には見当たらないが、『肘後備急方』巻四・治胸隔上痰陰諸方第二八に「卒に破の如く頭痛あり、中冷又は中風に非らずを治す方」[124]があった。また『医心方』巻三・治中風声嘶方第一二では、『葛氏方』を引用して「卒に中冷、声嘶唖なるを治す」[125]とあり、甘草・桂心・五味・杏仁・生姜を水七升で煮て、二升半を煮取ってから、三回に分けて服するという療法がある。「中冷」を字面どおりに読めば「中が冷える」だから、腹部の冷えになる。ただし『肘後備急方』や『葛氏方』によれば中風のように突然発症し、さらに頭痛や声が出なくなるなどの急性症状を併発する場合もある病態になろう。

  ちなみに、王献之の書簡も検討してみたい。献之は羲之の末息子であり、父とともに「二王」と称された書人だった。関連内容のものでは、『淳化閣帖』巻一〇に以下のものがある[126]。

献之は昨来、復た下り、{(疝−山)+帯}を作さんと欲するが如し。殊に乏極なれば、石脂丸を服し、力を得んことを願う。謹んで白すも具せず。操之ら再拝。
 ここに「石脂丸」とあり、献之は下痢の治療に用いている。石脂丸とは五色石脂(赤・青・黄・白・黒)を使って作る丸薬だろう。『証類本草』の赤石脂・白石脂・青石脂・黄石脂・黒石脂の項をみると、それぞれに下痢を止める作用があり[127]、古来から用いられてきた下痢止めの薬だったことが分かる。『図経本草』によれば、張仲景『傷寒論』には傷寒による下痢・下血を止める「桃花湯」という処方(赤石脂・乾薑・粳米)がある。また「梧桐子の如く」丸めて丸薬にする方法は、『証類本草』の赤石脂と白石脂の項にみられる[128]。
腎気丸を服するを承けて、故に以て佳と為す。献之、此れ黄耆を服するに甚だ動く。平平なる耳(『淳化閣帖』)[129]。
 「腎気丸」とは、『金匱要略』巻中にある「八味腎気丸」のことだろうか。『金匱要略』には、「虚労、腰痛、少腹拘急、小便不利は八味腎気丸、之を主る」とあり[130]、王献之の記述と断片的に一致する。腎気丸は『肘後備急方』巻四・治虚損羸痩不堪労動方第三三にも引用があり[131]、当時から名の知られた処方だったのは間違いない。ただ即座に、それらのルーツが『金匱要略』とは判断できないだろう。

  以上、羲之の書簡にある天然有用物のうち、その用途や使用目的が明確なものについて、考察を行った。そのほかのものについては、以下に一括して示す。それらは内容から表2食物の嗜好・有用物のやりとり、表3果樹などの栽培、表4その他に分類した。上段の番号は、『王羲之全書翰』における帖番号を示す。
   
表2 有用物のやりとり、贈答
   有用物の名称 書簡の内容・宛先など
二九七呉興酢※  [132]宛先は不明。
二九八脯・呉興鮓・蒜條  [133]宛先は不明。
三〇〇橘子・新栗・冬桃  [134]宛先は不明。
三〇一蚶・蠣  [135]相手の体調を気遣っている。
三〇二黄柑  [136]宛先は不明。
三〇三鯉魚  [137]「敬」という人物に贈る。
三〇六橘  [138]宛先は不明。
三〇七裹鮓  [139]宛先は不明。
三〇八野鴨  [140]宛先は不明。
六九四奈(からなし)  [141]宛先は不明。
※ 謝安の弟・謝万は呉興の大守だった。
 
表3 果樹などの栽培
 有用物の名称 書簡の内容・宛先など
二一青李 [142]※ 
二一 桜桃 [143]
二一来禽 [144]
二一 日給藤 [145]
二一胡桃  [146]
五八二大柿  [147]大柿を栽培したいと告げる。
※二一にある果実類については、すべてその種子を箱詰めではなく、袋詰めにするよう注意している。「日給藤」とは、何であるかは不明。この書簡は、益州刺史・周撫宛てのものといわれる。
  
表4 その他
有用物の名称 書簡の内容・宛先など
二二薬草 [148]必要なら送ると告げている。
二三塩井・火井 [149]存在の有無を尋ねている。
五五七寒食酒 [150]息子たちに宛てている。
※二二・二三の書簡はどちらも周撫宛てのものである。塩井・火井については、益州には本当に存在するものなのかと周撫に尋ねている。その情報源については、おそらく左思の『蜀都の賦』だろう。他の書簡には、その書名が出てくる。また、張華の『博物誌』にも、『蜀都の賦』と同じ内容の火井に関する記述がある。「寒食酒」とは、寒食散服用後に飲む酒のことだろうか。羲之はそれを飲んで体調がよくなったと告げている。

 

第四章 考察と総括

 これまで検討したデータをもとに、羲之を中心とする魏晋南北朝の文人・貴族たちの本草・医学知識の程度、その内容をさらに考察しよう。この際、@皇甫謐、A范汪、B葛洪、C陶弘景、D総括に分けて議論したい。時代が羲之に近い人物の書と検討することで、彼の情報や知識の由来ないし相互関連を究明するためである。

  この前段階として、第三章で取り上げた有用物と本草・医方書との比較・対照の結果を、一括して表5に整理した。表中の●は字句までのかなり近い一致を示し、○は内容的に一致、空欄は一致しないことを示す。「治頭眩帖」での六物による処方は、石脂丸・腎気丸は『金匱要略』との関連性が疑われるため、ここでは省いた。
   
表5 有用物と本草・医方書との比較・対照の結果
 紫石英1)陟釐シ酒2)石脾3)独活ロジ4)石首魚鷹爪・嘴麝香狼毒天鼠膏5)橡屑礬石女萎丸
神農本草               
名医別録 
  
          
皇甫謐   
            
葛氏方  
  
 ●         
肘後方  
         
   
范東陽方 
              
本草集注 ○  
    
   
新修本草             
  
食療本草                
本草拾遺         ○        
開宝本草       ●         
【注】1)紫石英;『呉普本草』とも記述内容が一致。2)シ酒;{豆+支}酒。『寒食散論』にもある。3)石脾;ここでは『皇甫士安解散説』との内容関連が疑われる。4)ロジ;字は{盧+鳥}(慈−心)+鳥}{盧+鳥}。『如意方』にもある。5)豆;『医心方』所引の『医門方』、『千金要方』との内容関連が疑われる。

  以上をもとに羲之と右記の本草書・医方書、その著者との関連性を探ってみる。

(一)皇甫謐と羲之

 皇甫謐(二一四〜二八二)は字を士安といい、地方豪族の家に生まれた。二〇歳まで遊蕩に耽ったが、伯母の諫言にから学問に励むようになり、後には「玄晏先生」と自称するまでになる[151]。『帝王世紀』の著により本業は歴史家ということになるが、『針灸甲乙経』の著者でもある。一方、寒食散の副作用に苦しんだことから、第二章に前述したように寒食散関連の書を著した。いずれも現存しないが、「皇甫」を冠した書の逸文は『皇甫士安解散説』(『諸病源候論』所引)・『皇甫士安依諸方撰』(『針灸甲乙経』所引)・『皇甫謐曹歙論寒食散方』『皇甫謐節度論』『皇甫謐薛侍郎』『皇甫謐救解方』(『医心方』所引)などがある[152]。

  これらは、すべて服石関連の項に引用されており、また『晋書』本伝からも副作用で苦しんでいた様子がうかがえる[153]。もっとも多く引用があるのは『医心方』巻一九・二〇の服石部で、前記した書以外に「皇甫云う」の引用がもっとも多い[154]。おそらくそれらの書からの引用だろうが、これは内容から判断するしかない。

  さて『医心方』巻一九は服石の薬理や身体に及ぼす影響と禁忌などで、具体的な療法や処方は巻二〇に述べられている。いずれにしても引用された皇甫謐の文章は抽象的なものが多い。すなわち前述のように「冷飲」「冷食」「冷浴」「冷沐」「冷石を熨す」「寒床に坐す」や、衣服をうすくする、風にあたる、等々である。具体的に挙げられた薬物は、支子・{豆+支}・大黄・朴消・大黄・黄葦・甘草・甘藷・白酒糜などだった[155]。

 このような皇甫謐の理論は、果たしてどの程度受け入れられていたのか。同書巻一九服石節度に次の引文がある[156][157]。

秦承祖論に云う。(中略)玄晏は雅材なるに將に冷さんとし、廩丘は温臑を先と為す。薬性は本一にして、二論碩反す。今の治する者、唯だ当に務めて其の体性の本源を尋ぬべし…。
釈慧義論に云う。五石散は上薬の流なり。(中略)且つ前出の諸方、或いは不同有り。皇甫は唯だ將に冷さんと欲し、稟丘は將に臑を得んと欲す。石薬の性、多くは將に冷を以て宜と為す。故に士安の撰ずる所、世に偏行す。
 以上によれば、寒食散の服用法には二系統があったと推測できる。ここに引用された秦承祖論・釈慧義論は、それぞれ第三章で取り上げた秦承祖『寒食散論』(劉宋)と釈慧義『寒食散解雑論』(梁)だろう。両引文によれば、東晋滅亡直後の南朝時代には、ふたつの論派のうち皇甫謐のそれが受け入れられていた印象をうける。その理由は、第一に熱は冷すものだという考えが当然とされたことがあるだろう。もうひとつは『医心方』巻一九・服石反常性第二に、皇甫謐からの引用で「六反」「七急」「八不可」があり[158]、服石禁忌法第六には「十忌」[159]があること。ともに服石に際しての注意である。

  このような皇甫謐の論は、簡潔で実践しやすいものとして認識されたのではなかろうか。確かに羲之の寒食散関連の知識は、皇甫謐寄りではあるが、明確にそうであるとは断言し難い。羲之が生まれる二〇年以上も前に皇甫謐は没していたのだから、書簡にその名や著作名を記しても、何の不都合もなかったはずだ。事実、その書簡中に挙げられている前代の著名人には、劉邦・厳君平・司馬相如・楊子雲・諸葛亮・恍舒(いずれも漢代)や、左思(西晋)などがある[160]。皇甫謐の著作に目を通していたのなら、その名が記されてもいいはずである。

  前述したように、陶弘景の『本草集注』には『皇甫士安解散説』とあることから[160]、梁代には皇甫謐の書が南朝にも伝わっていた。しかし羲之の書簡にはない。おそらく東晋初期には、まだ北方に残されたままの書物が多かったのではないだろうか。皇甫謐が没したのは二八二年であり、「八王の乱」が始まったのは二九一年である。したがって羲之の周辺には、皇甫謐の著作の骨子や概略程度しかなかったのではないだろうか。それゆえ皇甫謐や他の文献などからの情報が、書簡という形で類推に交換されたのだろう。

(二)葛洪と羲之

  羲之の直前の人には葛洪(二八三〜三六四)がいる。その著書は『抱朴子』をはじめ、『葛氏方』『肘後備急方』『神仙伝』などがある。

  『抱朴子』が成ったのは東晋建国の三一七年とされる。その内篇・雑応篇には以下のようにある[161]。

余が撰する所の百巻は、名づけて玉函方と曰う。皆病名の分別し、類を以て相続け、相雑錯せず。其の救卒三巻は、皆単行して径ちに易く、約にして験し易く、籬陌の間も、顧眄すれば皆薬なり。
  これによれば葛洪はまず『玉函方』百巻を著し、そこから分かりやす実践的な部分を抜き出して『救卒方』三巻とした。この『救卒方』が、おそらく本稿で使用した『肘後備急方』だろう。坂出祥伸「葛洪の医薬観と『肘後備急方』」に詳しいが、この『救卒方』というのは『肘後救卒方』のことで、同時に『肘後備急方』のことでもある[162]。『肘後方』というのは、俗称または簡称だともされるが、問題は後世の増補にある[163]。梁の陶弘景が増補して『肘後百一方』とし、金の楊用道が『証類本草』からの抜粋処方を「附方」として増補したからである[164]。

  そこで本稿に『肘後備急方』から引用した冷薬・{豆+支}酒・豆・中冷について、それらが誰の撰による部分にあるかを表6に整理した。
   
表6 『肘後備急方』冷薬・{豆+支}酒・豆・中冷
 引用、もしくは記載がある文献と所在 撰者
冷薬『肘後備急方』巻三・治卒上気咳嗽方  [165]「附方」
{豆+支}酒『肘後備急方』巻三・治風毒脚弱満上気方  [166] 葛洪
『証類本草』生大豆・『肘後備急方』又方  [167] 葛洪
中冷『肘後備急方』巻四・治胸隔上痰陰諸方  [168] 葛洪

 このように葛洪自撰のものと思われる箇所について、何らかの共通点を見いだすことができた。その類似性がもっとも疑われるのは、第三章でも述べた{豆+支}酒だろう。

  次に『葛氏方』との関連性を探ってみたい。本論では、『医心方』所引文を対象としたが、「葛洪の医薬観と『肘後備急方』」によれば、『葛氏方』は葛洪の原著でなく、陶弘景による増補の可能性がある。また陶弘景は『本草集注』序録に「葛氏肘後方三巻を補う」と称し、『葛氏方』という書名も葛洪自身がつけたとは思えないという[169]。確かにそのとおりだろう。ならば『肘後備急方』『葛氏方』の両書に共通するものがあれば、それは葛洪本人の文章である可能性が高い。本稿で対象とした『医心方』所引の『葛氏方』文と、『肘後備急方』との対応関係を表7にまとめてみた。
   
表7 『葛氏方』文と『肘後備急方』との対応関係
   引用している文献と巻『肘後備急方』での記載
{豆+支}酒『医心方』巻八治脚気虚弱方  [170] 巻三・治風毒脚弱痺満上気
*ロジ『医心方』巻四治鼻{査+皮}方  [171] なし
石首魚『医心方』巻一二治石淋方  [172] なし
中冷『医心方』巻三治中風声嘶方  [173] 巻四・治胸隔上痰陰諸方
*ロジ;{盧+鳥}(慈−心)+鳥}

 前述した中冷には関しては、その病名と症状などが考察の対象だったが、{豆+支}酒は『葛氏方』『肘後備急方』ともに共通している。すでに述べたように、これは当時からポピュラーな処方であり、それゆえ羲之の書簡にも入ったのだろう。また石首魚の頭中の石に関して、『開宝本草』以前でその記述があるのは羲之と葛洪のみだった。その他は、桃膠において『抱朴子』内篇との類似性がうかがえる。

  以上、『肘後備急方』『葛氏方』と羲之との関連を探ったが、その他にも両者にはつながりがあった。両者の生存年は、およそ六〇年ほど重なっている[174]。北方の戦乱を逃れてきたのはふたりとも同じで、葛洪は三二六年に羲之の伯父・王導に召されている[175]。両者とも存命中から著名だったはずだし、面識があったと考えてもおかしくない。だが、葛洪の著書・羲之の書簡中いずれからもその形跡をうかがうことはできなかった。

(三)范汪と羲之

  羲之とほぼ同年代には、『范東陽方』百余巻を著した范汪がいる。三七〇年代に没しただろう推測されるが[176]、正確にはわからない。また『范東陽方』も正確な成立年は不詳で、彼の没後に世に出た可能性もある。ただし前述のように、梁代には確かに存在していた。

  范汪と羲之は近い関係にあったようだ。「小婢帖」によれば王家には范家から嫁が来ていたようで、「玄平」という范汪の字もある。「省別帖」における「武昌の諸子、亦た遠官するもの多し。足下、兼ねて懐わん」の「武昌の諸子」を、『全書翰』は殷浩・王胡之・范汪など羲之が{广+臾}亮の参軍だったころの仲間、としている[177]。とすれば羲之と范汪は同じ東晋の官僚だった。のち范汪は羲之が死去する直前の三六一年、桓温に疎まれて庶人に落とされている[178]。羲之と桓温とは書簡を交換する仲だった[179]。さらに『世説新語』方正篇の注にある『王氏譜』によれば、范汪の娘は王述の子・王担之の嫁である[180]。また羲之と王述が仲違いしていたことは第二章でも述べた。

  このような人間関係が関与したのだろう。『医心方』『外台秘要方』には『范東陽方』の引用が多いが、その中に羲之の書簡内容と一致するものは皆無だった。ほぼ同時代の葛洪による『葛氏方』『肘後備急方』や少し後の『小品方』『集験方』と、『范東陽方』は少なからず共通した内容があるのに。

  他方、『医心方』は全三〇巻、『外台秘要方』は全四〇巻であるが、両書の全巻に『范東陽方』が引用されているわけではない。ただ共通するのは、両書の服石・婦人病・小児病の篇に『范東陽方』の引用がない点だった。一方、羲之の書簡にはこのような内容が少なからずある。その理由を考えると、梁代には『范東陽方』以外に、「范氏」の作とされる『范氏解散方』七巻・『療婦人薬方』一一巻・『療小児薬方』一巻もあった[181]。おそらく、これらも范汪の手によるものだろう。しかし『外台秘要方』『医心方』の時代まで伝わらなかったため、両書に引用されなかったのではなかろうか。服石・婦人病・小児病について范汪と羲之の記述を比較できないのは、これも一因である。

(四)陶弘景と羲之

  羲之より後代の書で、字句までの一致をみる最初は『本草集注』の{盧+鳥}{(慈−心}+鳥}と狼毒の項である。本書は梁の陶弘景(四五六〜五三六)が著した。赤堀昭「陶弘景と『集注本草』」に詳しいが、『本草集注』には様々な医者や道士のエッセンスが入っている[182]。第三章でも触れたが、『本草集注』の芒消項には「皇甫士安」という言葉があり、あわせて皇甫謐が医薬に詳しかったことに触れている。また、その序文には皇甫謐の他に、葛洪・殷仲堪・秦承祖・范汪などの名を挙げている[183]。陶弘景は道教関連の知識は別にして、確かに晋代の名医たちの医学情報を得ている。これが後に『新修本草』で、「弘景の知識は南朝寄りで、誤りが多い」とされた所以である[184]。

  では医者でも道士でもない羲之とはどうか。結論からいうと、つながりはあるといっていい。弘景の父・貞宝は楷書・草書を得意としたが、その書法は羊欣のものに従ったという[185]。羊欣は晋末の人であり、王献之から書の指導を受けている[186]。また弘景は梁の武帝から厚遇され、『法書要録』中の羲之の書について武帝と往復書簡を交わしている[187]。ならば陶弘景も羲之の書簡を見ていた可能性が高い。しかし『本草集注』はおろか、どの本草書・医方書にも「王羲之」や「王右軍」の記載はない。とするなら、本草書・医方書の作者が羲之の書跡を見ていたとしても、書法の手本としての価値のみが注目され、その医薬に関する内容にまで意識が及ばなかったものと推測すべきだろう。

(五)総括

 以上、四人を核として羲之との関連性について考察してきた。その他の『金匱要略』『神農本草』『名医別録』など古文献は、羲之とは年代が離れているか、成立年代や撰者が不明瞭なため考察対象とはしなかった。それらについては第三章を参考とされたい。王羲之書簡と『新修本草』『開宝本草』など後代の本草書との内容関連も、本稿の主旨とは離れるので同じくここでは考察を加えなかった。

  当考察により、羲之と前記した四人には何らかのつながりが認められた。しかも范汪・葛洪ともに、羲之と生活年代・地域が重なっている。にもかかわらず、羲之の書簡からは彼らとの医学に関する交友を直接に証明することはできなかった。その理由として、第一に推定すべきは当時の人間関係である。

  羲之と生活年代が違う皇甫謐・陶弘景は別として、范汪・葛洪は当時から有名な人物だった。また羲之も書人として、名門貴族として名が知れ渡っていた。さらに羲之の書は存命中から模倣されている。したがって迷惑がかかるのを避けるため、書簡に同時代の人名や書名をむやみに挙げないのは当然だろう。

  一方、第三章で述べたように、羲之の周囲に本草書・医方書が少なからずあったことも確実である。同時に、そこから得ただろう情報を友人・親戚に教えていたこともほぼ疑いない。それらは概ね、確信のある情報が多かった。もっともこれは医療が絡んでいる以上、当然かもしれない。同時に羲之の書簡中には、彼が耳にした珍奇な文物情報も多く、これは羲之より後代の文献にも取り入れられていた。本稿で考察の対象とした書簡には、そのような二種の情報が主にあったといえるだろう。

  ただし、「羲之はこの書物を読んでおりそこから情報を得ていた」、もしくは「この人物のこの部分の情報は、羲之経由のものである」と論定するのは難しかった。彼の書簡中に本草書・医方書・医者の名が一切出現せず、わずか道士の名が一例あったにすぎないこと。また筆者の管見範囲で、本草書・医方書に「王羲之(王右軍・王逸少)」の名を見いだせなかったためである。それゆえ字句・内容の一致はあったものの、相互の具体的関連性はとりあえず推測の域を出なかった。

  しかしながら再度、換言したい。羲之の書簡には、『神農本草』『名医別録』『肘後方』『葛氏方』『范東陽方』『黄帝蝦蟇経』『本草集注』『新修本草』『開宝本草』や皇甫謐の書と、所説内容や部分的字句の一致が認められたのである。とするなら、それら各書と羲之の知識にはどこかで間接的に結びつく、複雑に入り組んだ情報ルートがあった、と推測すべきであろう。

  魏晋南北朝の文人・貴族階級がいかなる本草や医学の知識環境にあったのか、かつて研究の手がかりはほとんどなかった。しかし羲之書簡の分析より、彼に代表される当時の文人階級は予想以上の情報と知識を得ていたたことが分かった。その大きな要因のひとつこそ、服石の流行だったのである。
 

注および参考文献

[1] 長尾雨山『中国書画話』二五九頁、筑摩書房、一九七七年。

[2] たとえば『道教事典』(野口鐵郎ら編集、平河出版社、一九九六年)には「寒食散」「鬼官」「許邁」「黄庭経」「五石散」「書法」「天師道」「二許」「楊羲」の頁に羲之の名がみられる。

[3] 森野繁夫『王羲之伝論』一三・一四頁、白帝社、一九九七年。また清・魯一同『王右軍年譜』によれば三〇七年、陶弘景『真誥』によれば三〇三年となる。

[4] 房玄齢等撰『晋書』第七冊・巻八十、二一〇二頁、中華書局。

[5] 前掲文献[3]、付録の年表を参照。

[6] 目加田誠『新釈漢文大系 世説新語』における人名索引(巻下一二〇五頁、明治書院、一九九五年)を参照。王羲之(逸少・右軍・臨川)の名は注も含めて六六ある。

[7] 前掲文献[6]、賞誉第八(五一五〜六二七頁)。

[8] 前掲文献[4]、二一〇一頁。

[9][8]に同じ。

[10] 森野繁夫『王羲之全書翰』一四八頁「古之辞世者帖」、白帝社、一九九六年。

[11] 中田勇次郎・責任編集『書道芸術第一巻 王羲之 ・王献之』一八一・一八二頁、中央公論社、一九九六年。

[12] 前掲文献[11]、一七七頁。

[13][12]に同じ。

[14] 前掲文献[11]、一七八頁。

[15] 前掲文献[11]、一七八頁。

[16] 前掲文献[1]、二七四頁。

[17] 沈括著、李文沢・呉洪沢訳『夢溪筆談全訳』二二四頁、巴蜀出版社、一九九六年。

[18] 前掲文献[2]、一五三頁

[19] 前掲文献[6]、巻上・言語篇一六七頁。

[20] 前掲文献[4]、二一〇一頁。

[21] 前掲文献[19]、九九・一〇〇頁。

[22][21]に同じ。

[23]『医心方』(丹波康頼、新文豊出版公司、一九七六年)巻一九・二〇の服石部に引用される皇甫謐『節度論』ほかの文を要約。

[24] 前掲文献[2]、一七二頁。

[25] 余嘉錫「寒食散考」『輔仁学誌』三一頁、一九八五年。

[26] 前掲文献[10]、六五頁。

[27] 前掲文献[23]、巻二〇の第九葉の裏。

[28] 前掲文献[6]、巻中七二四・七二五頁。

[29]『殷荊州要方』については『宋以前医籍考』の五二一頁(岡西為人、古亭書屋、一九六九年)『寒食散解雑論』については同書の一四〇四頁にある。

[30] 前掲文献[23]、巻一九の第一九葉の裏。

[31] 前掲文献[10]、七二頁。

[32] 前掲文献[23]、巻一九・二〇に引用される皇甫謐の文を参照。

[33] 前掲文献[4]、巻五一・皇甫謐伝。

[34] 前掲文献[23]、巻一九の第一〇葉の表・裏。

[35][32]に同じ。

[36][33]に同じ。

[37][32]に同じ。

[38] 前掲文献[10]、三四七頁。

[39] 前掲文献[10]、三六一頁。

[40]『肘後備急方』六四頁、人民衛生出版社影印、一九八二年。

[41] 前掲文献[10]、三六三頁。

[42][25]に同じ。

[43] 元・ケ珍本『金匱要略』一五〇頁。燎原書店、一九八八年。

[44]『重修政和経史証類備用本草』九二・九三頁、南天書局有限公司、一九七六年。

[45][44]に同じ。

[46][44]に同じ。

[47] 前掲文献[10]、五三九頁。

[48] 前掲文献[6]、巻下八八八頁。

[49] 前掲文献[44]、二三七頁。

[50][49]に同じ。

[51] 前掲文献[10]、一〇〇頁。

[52] 前掲文献[10]、一三三頁。

[53] 前掲文献[10]、二五六頁。

[54] 前掲文献[10]、三七〇頁。

[55] 前掲文献[10]、六一五頁。

[56] 前掲文献[10]、三八七頁。

[57] 前掲文献[10]、三七五頁。

[58] 前掲文献[10]、三九七頁。

[59] 前掲文献[10]、五六七頁。

[60] 前掲文献[10]、三九一頁。

[61] 前掲文献[10]、二四四頁。

[62] 前掲文献[10]、一三八頁。

[63] 前掲文献[10]、二三三頁。

[64] 前掲文献[10]、三九六頁。

[65] 繆啓愉・校釈『斉民要術校釈』四四一頁、農業出版社、一九八二年。

[66] 前掲文献[44]、四八五〜四八八頁。

[67] 前掲文献[23]、巻八の第一六葉の裏。

[68]『備急千金要方』一三八頁、人民衛生出版社影印、一九八二年。

[69] 前掲文献[40]、五六頁。

[70] 前掲文献[23]、巻一二の第二五葉の表。

[71] 前掲文献[23]、巻二〇の第一二葉の裏。

[72] 前掲文献[10]、三九二頁。

[73] 前掲文献[44]、九七・五三八頁。

[74] 前掲文献[44]、八六頁。

[75][74]に同じ。

[76] 前掲文献[44]、一五七頁。

[77][75]に同じ。

[78] 前掲文献[10]、三九四頁。

[79] 前掲文献[44]、四〇四頁。

[80][79]に同じ。

[81] 掲文献[23]、巻四の第一六葉の裏。

[82] 前掲文献[23]、巻四の第一六葉の表。

[83] 前掲文献[10]、三九三頁。

[84] 前掲文献[44]、四三五頁。

[85] 前掲文献[23]、巻一二の一二葉の表。

[86] 前掲文献[10]、三九五頁。

[87] 前掲文献[44]、四〇二頁。

[88][87]に同じ。鷹嘴・爪はすべて『証類本草』巻一九禽部中品の「鷹屎白」項を参照。

[89] 前掲文献[10]、三九二頁。

[90] 前掲文献[44]、二六八頁。

[91] 前掲文献[10]、二七頁。

[92] 前掲文献[44]、四〇二頁。

[93] 劉衡如『校点本 本草綱目』下冊二六四〇頁、人民衛生出版社、一九九二年。

[94][91]に同じ。

[95] 前掲文献[10]、三九〇頁。

[96] 前掲文献[23]、巻一八の第三三葉の表。

[97][66]に同じ。

[98] 前掲文献[44]、四八六頁。

[99] 前掲文献[23]、巻二〇の第二〇葉の表。

[100] 前掲文献[10]、一四六頁。

[101] 前掲文献[44]、三五一頁。

[102] 諸橋轍次『大漢和辞典』第六巻「杼」二〇六頁、大修館書店、一九七六年。

[103] 前掲文献[44]、三四七頁。

[104][49]に同じ。

[105] 前掲文献[44]、八四頁。

[106][105]に同じ。

[107] 前掲文献[10]、四一七頁。

[108] 前掲文献[10]、三五五頁。

[109] 前掲文献[44]、一五四・二一四頁。

[110] 前掲文献[10]、三九八頁。

[111] 『劉涓子鬼遺方』(于文忠・点校、人民衛生出版社、一九八六年)の全頁を調査したが、羲之  のいう六物と合致するものはなかった。

[112] 前掲文献[68]、二四七頁。

[113] 前掲文献[10]、三八九頁。

[114] 前掲文献[44]、四七二頁。

[115][114]に同じ。

[116][114]に同じ。

[117] 王明『抱朴子内篇校釈』一八六頁、中華書局、一九八〇年。

[118] 前掲文献[10]、三八二・三六九頁。

[119] 余厳『古代疾病名候疏義』三二八頁、自由出版社、一九七二年。

[120] 前掲文献[10]、三五六頁。

[121] 前掲文献[23]、巻二の第六三葉の表。

[122] 坂出祥伸「黄帝蝦蟇経について〜成書時期を中心に」(『東洋医学善本叢書』第二九冊、オリエ ント出版社、一九九六年)一頁〜三頁。

[123] 前掲文献[10]、六九頁「適得書帖」、三一八頁「不審尊体帖」、三五八頁「山下多日帖」、四九 三頁「一昨因曁主簿帖」、五四七頁「松廬善斬帖」。

[124] 前掲文献[40]、七四頁。

[125] 前掲文献[23]、巻三の第二七葉の裏。

[126] 前掲文献[3]、二四八頁より抜粋。

[127] 前掲文献[44]、九三頁。

[128][127]に同じ。

[129] 前掲文献[25]、四一頁より抜粋。

[130] 前掲文献[43]、九二、九三頁。

[131] 前掲文献[40]、八五頁。

[132] 前掲文献[10]、三二九頁。

[133] 前掲文献[10]、三三〇頁。

[134] 前掲文献[10]、三三一頁。

[135] 前掲文献[10]、三三二頁。

[136] 前掲文献[10]、三三三頁。

[137] 前掲文献[10]、三三四頁。

[138] 前掲文献[10]、三三六頁。

[139] 前掲文献[10]、三三七頁。

[140] 前掲文献[10]、三三七頁。

[141] 前掲文献[10]、六七九頁。

[142] 前掲文献[10]、三〇頁。

[143] 前掲文献[10]、三〇頁。

[144] 前掲文献[10]、三〇頁。

[145] 前掲文献[10]、三〇頁。

[146] 前掲文献[10]、三〇頁。

[147] 前掲文献[10]、五六七頁。

[148] 前掲文献[10]、三一頁。

[149] 前掲文献[10]、三二頁。

[150] 前掲文献[10]、五四四頁。

[151][36]に同じ。

[152][32]に同じ。

[153][36]に同じ。

[154][32]に同じ。 

[155][32]に同じ。

[156] 前掲文献[23]、巻一九の第二葉表・裏。

[157] 前掲文献[23]、巻一九の第四葉の裏・第五葉の表。

[158] 前掲文献[23]、巻一九の第一一葉の表・裏。

[159] 前掲文献[23]、巻一九の第三〇葉の表・裏。

[160] 前掲文献[10]、巻末の人名索引を参照。

[161] この成立年については、前掲文献[117]の序文を参考とした。

[162] 坂出祥伸「葛洪の医薬観と『肘後備急方』」(『東洋医学善本叢書』第二九冊所収、オリエント出版社、一九九六年)を参考にした。

[163][162]に同じ。

[164][162]に同じ。

[165][40]に同じ。本稿九頁を参照。

[166][69]に同じ。本稿一四頁を参照。

[167][98]に同じ。本稿二一頁を参照。

[168][124]に同じ。本稿二五頁参照。

[169][162]に同じ。

[170][67]に同じ。本稿一四頁を参照。

[171][81]に同じ。本稿一七頁を参照。

[172][85]に同じ。本稿一八頁を参照。

[173][125]に同じ。本稿二五頁を参照。

[174] 王羲之(三〇三〜三六二)。葛洪(二八三〜三六四)。

[175][162]に同じ。

[176]『晋書』范汪伝に六五歳で没したとあり、また桓温との関係も記されていることから、三七〇年代初期に没したと推測できる。

[177] 前掲文献[10]、六三三頁、二〇二頁、二八頁。

[178] 前掲文献[3]、巻末の年表を参照した。

[179] 前掲文献[10]、八五頁「賊勢可見帖」や八六頁「発至長安帖」などがある。

[180] 前掲文献[6]、巻中、四三二頁。

[181] 前掲文献[29]、一四〇四頁。

[182] 陶弘景の人間関係や、『集注本草』に取り入れられた文献については赤堀昭「陶弘景と『集注本草』(『中国の科学と科学者』所収、一九七八年、京都大学人文科学研究所)を参考とした。

[183][182]に同じ。

[184][182]に同じ。

[185][182]に同じ。

[186][182]に同じ。

[187][182]に同じ。

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