玉について
96L1064X 佐々木康江
 
始めに

   世界には不透明な宝石を貴ぶ3地域がある。ひとつ目は中南米である。ここにかつて栄えたアステカ文明では仮面などにトルコ石が利用され、「ウェウェテオトル」というトルコ石を司る神もいた[1]。2つ目はニュージーランドである。ここの先住民はヒスイを加工し「ティキィ」と称されるものを作っている[2]。そして三つ目が中国である。中国では古代から「玉」という鉱物が大変貴ばれてきた。史書にも玉やそれを加工した玉器に関係した話が登場する[3]。私は以前から、なぜ古代中国人がこれほどまでに玉に固執したのか、その点に疑問を抱いていた。本稿はこの疑問について考えていくものである。

   まず第1章では玉がどのような鉱物であるのか、第2章では文献に様々な文献から、玉に求められた力を考える。第3章・第4章では、1章・2章を踏まえた上で玉の力が発揮されたと思われる場面を2つ選択し、玉のどのような効果が期待されたのかを探る。第5章では今まで述べてきた玉の力と、水との関連を探る。これは『管子』に玉と水との深い関わりを示す内容があったためである[4]。

  中国の玉に関する先行研究は、林巳奈夫が『中国古玉の研究』[5]・『中国古玉器総説』[6]の2冊の本を著している他、藤野岩友が「「玉」愛用の古義に就いて」[7]、西田長左衛門が「佩玉食玉攷」[8]を著している。本稿は各氏の研究と相似する点が多々出てくるかと思われるが、最後に私自身の見解を見出せたら幸いである。

  なお、漢字については一律に常用漢字・人名漢字のJISコード文字を用い、それにない字は正字に改め、また文献・論文の著者の敬称は省略した。
 

第1章:玉とは

   第1章では玉が一体どんな鉱物であるのか、鉱物学的側面・辞書に記載されている意味などから見ていきたいと思う。

第1節:鉱物学的側面から見た玉 

 玉とは一体どんな鉱物なのであろうか。まず一般に玉(Jade)とは、軟玉(Nephrite)・硬玉(Jadeite)2種類の鉱物の総称である。両者の比較は表1に示したとおりである[9]。
 
表1〈軟玉・硬玉の比較〉
      ネフライト(Nephrite)     ジェダイト(Jadeite)
和名      軟玉     硬玉、ヒスイ輝石
硬度      6.0〜6.5       6.5〜7
種類     角閃石鉱物     輝石鉱物
透明   半透明ないし不透明   半透明(時に不透明)
光沢     ガラス光沢      ガラス光沢
その他 
 
古代中国の玉器は殆どが軟玉を使用
[10]
緑色の美しいものは特に「翡翠」と呼ばれ珍重される [11]

   玉の産地は、現代中国では新疆ウイグル自治区の于田・洛浦・象田の3カ所と言われている[12]。古代の玉の産地は主に西域であり、戦国時代にネフライトが大量に発見されると、西域南道(ジェードロード)を経て当時の都に運ばれたとされる。その主な産地は、現在のトルキスタン地方のタリム盆地・クンルン山脈の麓のホータン(和田)とヤルカンド地区である[13]。中国国内では西省や甘粛省などが玉の産地であった[11]。

  「玉」の名称は硬玉・軟玉以外の複数の鉱物にも使用されていたと言われる[11]。これは古代人が「玉」という鉱物に関して、ある一定の基準を設けていたと考えられる。それを裏付けるのが現存最古の玉器である。1970年代に、遼寧省阜新査海前にある紅山文化(新石器時代)の遺跡からおよそ7000〜8000年前のものと推測される、斧形の玉器が発掘された。この玉器の材料となっているのは、現地で採れる岫岩玉と呼ばれる鉱物である。鉱物学では岫岩玉は蛇紋石に当たり、硬度も軟玉ほど高くない[14]。

  しかし周南泉によると、「硬く温潤で光沢があり半透明なことから、古代人は玉と考えた」ということである[15]。では、古代人がどんな鉱物を「玉」と認識していたのであろうか。『中国文物考古辞典』によると「玉」の名称は蛇紋石(特にボーウェナイト)・トルコ石(ターコイズ:Turquoise)・孔雀石(マラカイト:Malachite)などにも用いられていた[11]。以上の鉱物の特徴を表2に整理し、「玉」の条件を考えてみよう。
 
表2 〈5種類の鉱物の比較〉[16]
 ネフライトジェダイトボーウェナイトターコイズ マラカイト
硬度6.0〜6.56.5〜74〜65〜6   3.5〜4.5
透明
 
半透明ないし不透明半透明(時に不透明)半透明
 
不透明
 
不透明(結晶は透明)
 
光沢
 
ガラス光沢
 
ガラス光沢
 
樹脂光沢ないし
脂光沢
樹脂光沢ないしロウ光沢ガラス光沢(塊状)ダイヤモンド光沢(結晶)
  
 以上からいずれの鉱物も半透明もしくは不透明であることが分かる。硬度には幅があるが、これに関連して周南泉は「古代人は硬度4以上のものを(『説文解字』で指す所の)石の美なるもの、つまり玉であるとした」と考察している[15]。光沢を見てみるとガラス光沢と樹脂光沢が殆どである。私が見る限りでは、温かさを感じさせるのは樹脂光沢であるように思えた。表2には示さなかったが、鉱物の色の面で硬玉・軟玉は色の変化が激しいが、蛇紋石・トルコ石・孔雀石はあまり目立った変化はない[17]。色の変化を比較するとこれらの鉱物に共通した色が出てきた。それは緑色である。玉の色は緑が貴ばれるとの話があるが、果たして関連があるのかは不明である。

 さて鉱物が「玉」と称されるには、人の力で加工できる程度の硬度を持ち、半透明〜不透明であることが最低条件となるのであろう。これを満たした鉱物から制作されたのが「玉器」なのである。「玉琢かざれば、器成らず」[18]との言葉が示す様に、掘り出された玉に人間の手が加えられ玉は初めて玉器となった。 

第2節:「玉」字の意味 

 次に、辞書に記載されている「玉」の意味をを見ていきたい。 

石之美、有五徳[19]

タマ:美しくて高価な石。宝石/物事の美称。美しい、立派な/丸いもの/弾丸/玉で飾る/天子に関する物事の上に使う文字/白く美しい女の皮膚の形容/他人に関する物事の上に使う文字
タマにする:玉のように立派にする/玉のように愛する

字源:象形、三つの玉をひもでつないだ形[20]。
硬玉と軟玉の総称/特にヒスイをさす/玉のように白い、美しい/敬意を表す語/姓[21]
砿物的一種、質細而堅硬、有光澤、略透明、可雕琢成簪環等装飾品/喩〈(清−青)+吉〉白或美麗/敬辞[22]
 以上、辞書(字書)に記載されている「玉」字の意味を見てきた。それでは玉をどんなものに関連づけていたのか考えてみよう。まず玉は、『説文解字』で「石之美」とされるように、美しいもの・高貴なものという認識がある。そこから、人の美しさを形容する意味が生まれた。そして容姿の美しさだけではなく、血筋・家柄の「美しい」人々、即ち自分たちより高貴な人々への敬意を込め、天子に関する物事や他人に関する物事に付けるようになったのであろう。また玉の触感が滑らかなことから女性の肌もしくは女性そのものの形容、潤いのあるものに使われてたと考えられる。いずれにせよ、美しいもの・庶民の手の届かない価値のあるものに対して、「玉」字が付けられた様に思える。

第3節:まとめ 

   鉱物学的側面と漢字の意味から玉を見てきた。古代人は軟玉に限らず何種類かの鉱物を「玉」と呼でいた。それはある一定の条件を満たした鉱物のみに冠せられる名称である。そのような鉱物を表す漢字「玉」には、価値のあるもの・価値のある(貴い)人への気持ちが込められた。中国人が古代から玉を貴んでいたことは、ここからも伺うことが出来るのである。  
 

第2章:書物に見える玉の効果  

   第1章では玉について、鉱物学的側面と「玉」字そのものに与えられた意味から一体どんなものであるのかを見、そこにどのような心情が込められていたのかを知った。玉が価値のあるものだとは分かったが、一般庶民が手に入れるのが困難だっただけなのか。ただ高価なだけでは、愛玩の対象とはならないように思えたのである。やはり玉がこれほどまでに愛されるのは、人が玉に何かを期待したためではなかろうか。そして「何か」、つまり玉が持つと考えられた力は様々な書物の中に具体的に現れているのではないか。こういったわけで第2章では書物に見える玉の効果を見ていこうと思う。 

第1節:玉に関連する漢字 

  ここでは第1章で触れていない「玉」字以外の漢字を見たい。例え玉そのものでなくとも玉部に分類されいるのは何らかの関連があるからであり、玉に対する考え方を多少なりとも反映させていると考えたからである。

 現存最古の字書『説文解字』玉部に収められている漢字は延べ143字ある[23]。そのうち約半数が玉や玉器の名称を表している。たまへん(王)が付く漢字であるから当然ではあるが中には玉以外のものを表している漢字もあった。その内のいくつかを見ていこう。

〈王+禹〉 石の玉に似たる者[24]。

a 石の美なる者[25]。

珠 蚌の陰精なり[25]。

〈(靈−巫)+玉〉 霊巫、玉を以て神に事う[25]。

 〈王+禹〉・aは共に石であるが、玉に似ていたり玉に次ぐ美しさを持っているとされる。それ故、玉には及ばずとも「王」を付けられ貴いものとして扱われたのであろう。石の価値が、美しさやより玉に近いか否かで判断されていたことを反映していると思われる。

  珠は真珠のことである。17世紀の『天工開物』によると、真珠は蚌(貝の一種)が月の精気を取ることによってその腹に出来るという[26]。一方玉も珠と同様に、母岩が月の精気を受けることで出来るという。また玉が「水気を禦する」[27]に対し、珠が「火災を禦ぐ」[28]とあった。このように珠と玉は「珠玉」という言葉もあるように、大変似通ったものという認識があったと思われる。古代では真珠を貝の中に出来る「玉」の一種と考えていたのであろう。

 〈(靈−巫)+玉〉は神に仕える「かんなぎ」のことである。この字は、玉を用いて神との接触が図られていたことを示している。玉器は、神を祀る礼器にも頻繁に用いられている[29]。玉の字が入っているのは、玉が神と地上の人間とを繋ぐ器物であることを強調したかったためなのではなかろうか。

  また『説文解字』では、2字揃って初めて意味を成す字がいくつか見受けられた。「〈王+與〉〈王+番〉」「瑾瑜」(いずれも玉)、「瑯〈王+干〉」(珠に似たもの)「〈王+今〉〈勒+玉〉」(玉に次ぐ石)である。玉に備わっているとされる五徳のひとつに「其の声舒揚、専ら以て遠く聞こゆは智の方なり」とある[30]。それだけ玉の発する音が重視されたのであろう。玉の鳴る音を表した「玲瓏」「琳瑯」「j〈王+爭〉」[31]の言葉もあることから、「〈王+與〉〈王+番〉」「瑾瑜」「瑯〈王+干〉」「〈王+今〉〈勒+玉〉」が音から名付けられた可能性もある。 

第2節:本草書にある玉についての記載 

 次に、本草書に記載されている玉の効果について見ていきたい。
  『重修政和経史証類備用本草』には「玉」の項目はなかったが以下に挙げたとおり「玉屑」「玉泉」「玉膏」に関する記載があった[32]。

玉屑(名医別録)。味甘、平、無毒。胃中熱・喘息・煩満を除くを主る。渇を止める。屑は麻豆の如し。之を服するに久しく服すれば軽身長年。藍田に生じ採るに時無し(以上、全て名医別録)[33]。
玉泉(神農本草経)。味甘平(神農本草経)無毒(名医別録)、五蔵百病を主る、筋を柔し、骨を強し、魂魄を安んじ、肌肉を長し、気を益す(以上、神農本草経)。血脈を利し、婦人帯下十二病を療し、気〈(病−丙)+隆〉を除き、耳目を明らかにする(以上、名医別録)。久しく服せば寒暑に耐え、飢渇せず、老せず神仙となる(以上、神農本草経)。身軽くし年を長す(名医別録)。人死に臨むに五斤を服せば、死して三年色変らず。一名玉札(以上、神農草経)。藍田の山谷に生じ採るに時無し(名医別録)[34]。

玉膏。味甘、平、無毒。延年を主る。神仙術家、蟾蜍膏を取りて玉を軟するに泥の如し。苦酒を以て之を消し水と成す(以上、全て陳臓器余)[35]。

  以上本草書の記載を見てきたが、いずれにもあるのが「軽身長年」「不老」「延年」といった神仙術的記述である。上記以外の記載にも「(玉を服用すると)空を飛べるようになり、1年以上服用すると水に入っても濡れなくなる」[36]とあり玉が、神仙になるために欠かせなかったものであったことが分かる。

第3節:その他の書物に見える玉の効果 

 では、本草書以外の古典籍ではどのような効果が語られているのであろうか。いくつかの文献を見ていきたいと思う。

  『山海経』の特に「五蔵山経」(東山経・西山経・南山経・北山経・中山経)には、各山脈の神とその祀り方が記載されており、礼器としての玉器も多く登場する。また個々の山・川の説明の中に、玉に関連した話がある。( )内は郭璞の注。

丹水焉より出で、西流して稷沢に注ぐ。是れ玉膏有り。黄帝是を食ひ、是れ饗す。黄帝乃ち〈山+大+土〉山の玉栄を取りて之を鍾山の陽に投ず(以て玉種と為す)。天地の鬼神是を食ひ、是れ饗す。君子之を服せば、以て不祥を禦ぐ[37]。
 『魏書』列伝には玉を服用していた李預という人物についての記載がある[38]。彼は玉器を砕いて屑状にし毎日服用していた。やがて彼は亡くなってしまったが、その遺体は一般のものとは異なっていた。激しい暑さの中4日間放置していたのに、腐敗しなかったのである。これにより人々は玉を服用した効果を知ったという。  

 『周礼』玉府には、「王斉、則ち食玉を共す」[39]との一節がある。これについて、西田長左衛門は「佩玉食玉攷」の中で、「斉時に斯る洗浴が行はれたとすると同時に行はれる玉を食ふといふ事も、呪力を有する物を食ふ事に由つて、呪力が身に加るといふ考へ方から出たと考へるのは過つては居ないと思ふ」[40]と述べている。

第4節:まとめ

  書物の中に見える玉の効果について考えてきたが、玉に何らかの力が備わっていると考えられていたことがはっきりした。玉を服用したり身に帯びることでその力を自分の体に取り込もうとしたのであろう。服用したときの特筆すべき効果は人を神仙にしてしまうことである。このような力があるとされたからこそ、石であっても玉に似ているだけで価値が上がったのではなかろうか。そこには玉に似ているのなら、使った時の効果も似てくるのではとの期待が込められていたと思われる。
 

第3章:人の誕生と玉
  
 第2章では玉に何らかの力が備わっている、と考えられていたことが分かった。例えば「体を軽くする」「不老長寿」「不吉なものを寄せつけない」といった力であり、神仙を目指す人間でなくとも惹かれたに違いない。それを踏まえ、この章では人生最初の節目である誕生から幼年期の間、玉がどのように関わり、どんな力を期待されたのかを見ていきたい。 

第1節:璋

 『詩経』の中に次のような一節がある。

乃生男子、載寝之牀、載衣之裳、載弄之璋(もしも男子が生まれれば、寝台に寝かせ、袴を着せ、璋の玉を持たせよう)[41]。
 璋とは玉器の一種である。なぜ、男児に璋を持たせるのであろうか。これを考えるには対になっている一節も検討する必要がある。
乃生女子、載寝之地、載衣之裼、載弄之瓦(もしも女子が生まれたら大地に寝かせ、産着を着せ、糸巻きを持たせよう)[41]。
 現代の辞書には、この詩から出来たと思われる「弄璋(男子が生まれる意)」「弄瓦(女子が生まれる意)」という言葉が見える[42]。

 石川忠久によると女児を大地に寝かせる行為は、「将来無事に多子を出産することを願って、大地の子を生む力が類間呪術的にその女児にも及ぶように」[43]するのが目的なのだそうだ。瓦(いとまき)については何も言及されていないが、恐らく大地の力を受けるためのものなのであろうか。同じく石川は「(大地と女性は)共に「生む」性を有するという点において常に同一視される傾向にある」[43]とも言っている。

 では男児が生まれたときにするこの行為には、どんな意味があるのか。特に璋に絞って考えてみよう。璋は、上部を削いだ玉器である圭を縦に半分にしたものであるから[44]、片方だけ削いである玉器になる。見た目はまるで小刀のようである。『周礼』には、「以赤璋礼南方」とあり[29]、祭祀に用いられたことが分かる。

 白川静は、「載ちこれに璋を弄せしむ」とは、「出生した男の子にこの玉器を弄玉として与えたので、もとより魂振りとしての呪器である」[45]としている。「魂振り」とは、魂に活力を与え再生させる呪術のことを指す[46]。玉は、祭祀や神仙術に使われてきたことからも分かるように、神秘的な力が備わっていると考えられていた。生まれたての赤子に玉器を与えることは、魂に活力を与える、つまり玉からその力を貰うことであるのではなかろうか。

 例えば「長命鎖」[47]のように、親は誕生した子供が夭逝しないよう色々な方法を考えた。故に寿命を延ばすとされた玉を赤子に与え、その恩恵にあずからせようとしたのであろう。玉器の中でも特に璋が選ばれたのは、与える対象が男児であることに関係すると思われる。璋の元になっている玉器・圭は男性器を象徴しているし[48]、璋自体もその形が男性器に似ているように思われる。璋を与えることで、男児の生命力を強化させようとしたのではなかろうか。また、鋭い刃物を思わせる璋は一種の魔除けとしての役割も担っていたのかも知れない。

 平木康平によると、中国では男児に女児の格好をさせることがあるが、これは悪霊の目を眩ませることが目的であり、女児は男児より悪霊に犯されがたいと考えていたからなのだそうだ[49]。生まれたばかりの男児に璋を持たせのは、悪霊退散や護身を目的としていたとも考えられる。 

第2節:錠前型装飾具

 中国において錠前(南京錠)は特別な意味を持っていた。例えば子供の魂に鍵をかけて、さらわれないためのお守りとして、首に下げられていたのである[50]。これと似ているのが、前節でも登場した「長命鎖」である。鎖には、鍵をかける、鎖で繋ぐの意味があり、子供の身に常に幸せがある(繋がっている)ようにとの願いが込められている。また病気などで夭逝しないようにとの願いも込められている。

 では肝心の玉で作られた錠前型装飾具であるが、笠間日動美術館で開催された特別展「紫禁城の女性達」[51]に、白玉製の錠前型ペンダントが展示されていた。但しこれはどちらかといえば、恋愛成就を願ったものであったらしい[52]。 

第3節:まとめ 

 誕生から幼児期に関わる玉を見てきたが、玉に限らず子供に与えられる装飾品は、その生命を悪霊から守り少しでも長生きさせるためのものが多いように思える。平木康平によると中国では、子供の病気・夭逝の原因は悪霊に犯されたためだと考えられているのだそうだ[53]。故に玉にあるとされた(不老)長寿の力を頼り、身に帯びることで一種の魔除けとして使用されることが多かったのではなかろうか。
 

第4章:人の死と玉

  この章では前章に続き、人生の大きな節目に玉がどう関わっていたのかを見ていきたい。ここで取り上げるのは、人間の死と玉との関係である。玉には何らかの力が備わっていると考えられていたことはすでに述べたが、臨終の場面で玉はどんな役割を担い、またどのような力を求められたのであろうか。明器として遺体と共に埋められた玉器には沢山の種類があるが、そのうち3種類の玉器を見ていきたいと思う。 

第1節:玉衣

 玉衣とは、玉片を繋ぎ合わせて作られたものである。故人の身分によって用いられる糸が変わり、金縷玉衣・銀縷玉衣・銅縷玉衣などに分類される[54]。完全な形で残っている玉衣は少ない[55]が、その中でも中山靖王劉勝(紀元前113年死去)・竇綰夫妻の金縷玉衣は最古かつ最も有名なものである。これは河北省満城県の満城漢墓から1968年に発見された。最近日本では1999年夏に、国立歴史民俗博物館にて竇綰の金縷玉衣が公開された[56]。私は幸いこの特別展に行く機会があり、実物の玉衣を見ることが出来た。

 盧兆蔭によると玉衣の起源は東周まで遡るとされる[57]。当時死者の顔に玉を縫いつけた布を被せ、身体には同じく玉を縫いつけた衣服を着せる習慣があり、これが玉衣の原形となった可能性があるそうだ。同氏によるとこれが後に鉄製甲冑の影響を受け、現在知られている玉衣の形になったのだそうだ[58]。余談であるが史書によると、商代最後の王・紂は玉衣を身につけて亡くなったという[59]。

  「皇帝や親族にとって、礼制中で最も重要なものは、東園秘器二十八種中の金縷玉衣であった」[60]と言われるように、棺や玉衣など葬送に関連したものは「東園秘器」と呼ばれ、これらを制作する「東園匠」なる役職が存在した[61]。専門職を設けるほど、当時は葬送の道具に固執したのであろう。玉衣は厚葬の気風が高まった後漢時代に盛んになったが、魏の文帝の時代になると禁止されてしまった[62]。

  なぜ死者に玉衣を纏わせたのか。これについて盧氏は鉄製甲冑との関連を指摘する。甲冑は新たに登場した防御装備であり、それに似ている玉衣も死者を保護してくれると考えた[57]、としている。また同氏も指摘しているが、『後漢書』劉盆子伝には当時の人間が玉衣の遺体保護・防腐能力を信じていたのを反映した記述がある[63]。 

第2節:〈王+含〉

 〈王+含〉は死者の口に玉を含ませることである[64]。玉に限らず、遺体の口の中に何か物を入れる風習は新石器時代から存在したらしい。四川省巫山の大渓文化の墓では、死者の口の中から魚の骨が出土している[65]。玉を含ませた最古の例は、青浦県のッ澤文化の墓から出土した3点の玉器である[65]。このように玉に限らず死者の口に何かを入れる習慣は、古代の文献の中にも記載が見られる。

(前略)玩好を贈と曰い、玉貝を〈口+含〉と曰う[66]。

朱+(郊−交)〉婁の考公の喪に徐君容居をして来たりて、弔いして含せしむ[67]。

大喪には、含玉、復衣裳、角枕、角〈木+四〉を共す[68]。

〈口+含〉有るの所以は何に縁あるか、生食し今死す、其の口虚なるを欲せず、故に〈口+含〉す[69]。

 〈王+含〉を施す目的はまず「食べる」ことに関係があるようだ。前述の大渓文化の墓は、河原に位置し[65]それ故主食が魚であったとも考えられる。鉱物である玉は簡単に加工できるすぐに腐ることもない。そこで周南泉が指摘[70]するように、玉を使い全く減ることのない食料を作ったと考えることも出来る。常に口の中に何か(特に食べ物が)存在している状態は食事に困らないことであるから、ある意味裕福さを象徴していると考えられる。このように口の中が空では死者が気の毒だ、という考えは他の文献にも記載がある。
飯に米貝を用ふるは、虚しくするに忍びざるなり。食道を以てせず、美を用ふるのみ[71]。
  〈王+含〉のもうひとつの目的はやはり「遺体の保護」のようである。前出[69]の直後に次のような一節がある
〈王+含〉に)珠、宝物を用いるのは何ぞや。死者の体を形するに益有り[69]。
 〈王+含〉のうち蝉の形をしたものは特に「玉蝉」と呼ばれている[72]。蝉は地中に潜り数年経ってから再び地上に戻り脱皮を行う、という生態から「復活」を象徴するといわれる。古代中国人は玉で蝉を作り、それを死者の口に入れるとで復活を願ったのであろうか。

 銭伊平[73]によると、このような考え方はすでにBerthold Lauferが唱えており、現在も多くの研究者が引用しているという。銭はLauferとは異なる説を唱えている。彼は「玉蝉和玉豚」で、「〈王+含〉は元々人間の舌の形をしていた。〈王+含〉は時に装飾品の玉を再利用して使われたこともあった。装飾品の中でも蝉形の玉が選ばれたのは舌の形に近かったためで、これが後に玉蝉となった」[74]と述べている。

第3節:握

 握とは死者の手に握られた副葬品のことである。

遺骸が寝かしてある側には、唯七星板だけをそえておいて欲しい。(中略)玉豚・錫人などといった類は一切副葬することを省略[75]。
 玉に限らず、握には匂い袋・絹製品が用いられることもあった[76]。特にうずくまった猪(豚)の形をしているものは「玉猪」「玉豚」と呼ばれる。台北故宮博物院にある後漢代の玉豚には金箔が被せられている[77]。第1節でも触れた「よみがえる漢王朝展」にも同様の豚を象った握が展示されていた。図録によると握とは「死者の手に握らせ、死者の富を象徴するもの」[78]であるという。豚は多産であるから、そこに子孫の繁栄・今後も裕福であるようにとの願いを反映させたと思われる。

 握の意義について銭伊平は、〈王+含〉と同じように「不忍虚空の心理」[79]が根底にあると述べている。

第4節:まとめ 

 人間の死と玉との関係を見てきたが、遺体に何らかの形で玉を接触させておくことは、玉にあったとされた防腐作用に期待したためと思われる。玉の防腐作用については『抱朴子』対俗編に次のようにある。

金玉、九竅に在れば、則ち死人これ不朽と為る[80]。
 また前述『白虎通疏證』[69]・『礼記』[71]や、間瀬収芳が「(〈王+含〉に)更に面〈(要−女)+卓〉・竅塞・握が備わり、葬礼の完成を感じさせる」[81]と考察するように、何かを用いて遺体の隙間を埋めることも重視されたと思われる。玉が何故人の死に関わったのか、それは玉自体が長期に渡っても変質しない点のほかに、触れているものの腐敗を防ぐ作用を期待していたからなのである。  
 

第5章:玉・水・人 

 これまで玉の持つ力について様々な視点から考えてきたが、「玉に何らかの力が存在する」との認識があったことが推測できた。そしていくつかの文献の記載を見ていく内に、玉が特に水と深い関連があるように思われてきた。そこでこの章では、玉と水そして人の三者の関連から、古代人の玉への認識探ろうと思う。

第1節:水と玉、人の関係  

 玉には五徳[82]または九徳[83]があるとされる。

玉。石の美なるもの、五徳あり。潤沢以て温なるは仁の方なり[84]。

夫れ玉は温潤にして、以て沢なるは仁なり[85]。

 五徳にせよ九徳にせよ、最初に示される徳は「仁」つまり暖かで潤いを持っていることである。人間に置き換えると、例えば「肌に潤いがある」とは皮膚に適度な水分がある状態を指す。玉のような鉱物に潤いがあるとするのは、その中に適度の水が存在することを考えたからなのではなかろうか。ではこの見方はどこに由来するのであろうか。それは玉自体がどのように生まれたのかに関係していると思われる。玉の誕生には水が関わっているのである。
水の精〈鹿+鹿+鹿〉凝蹇し能く存して亡ぶること能わざる者は人と玉なり[4]。

水の円折に珠有り、方折に玉有り[86]。

 前の文章では、水が凝り固まって人と玉が出来たという。後の文章では、水の流れが四角に曲がっている所に玉があるとしている。これらの他にも玉の誕生に水が関係する話がある。

 『天工開物』によると玉は、その母岩が月の光を受けることで生まれ、母岩自体は川の源が急流となっている場所で激しくもまれてで出来る[87]。そして母岩は土に覆われることはなく、「ただ透明な水に覆われているだけ」なのだそうだ[88]。

 『重修政和経史証類備用本草』が引く『図経』には、玉が採れる正に「玉河」という川についての記載がある。
 

採玉の地を玉河と云う。于〈門+眞〉城外に在り、其の源〈山+昆〉山から出る。西流一千三百里、于〈門+眞〉の界牛頭山に至り、乃ち〈足+(流−さんずい)〉して三河と為る。一に曰く白玉河、(中略)二に曰く緑玉河、(中略)三に曰く烏玉河(中略)。其の源一と雖も其玉地に随いて変ず。故に其の色不同なり。毎歳五六月に大水暴漲し、則ち玉流に随いて至る  [89]。
 以上のように、玉は水から生まれ川から産出するもので、水と非常に深い関係があるとされたことが分かった。また人々が玉に水と同様の効果を求めたと思われる記載がある。
玉山に在れば草木潤い、淵に珠生じれば崖枯れず[90]。

唐の貴妃、玉を含み嚥津す。以て肺渇を解す[91]。

 肺渇とは口と喉の乾きである。どちらも玉によって水分が与えられ、その場所が潤うことを示している。このように玉はその中にあるとされた水を求められることもあった。そして大地を潤す雨を呼ぶことにも玉が使われた。
瓏。旱に〈(初−刀)+壽〉する玉、龍文あり[92]。
 瓏とは雨乞いに使われた玉器であり、龍の文様が彫られていたり龍そのものの形をとっている。玉が神に捧げられることについて、郭璞は『山海経』の注で「能く天地を動かし鬼神を感ぜしむるを言う」[93]としている。玉が神々を感動させることが出来た、というのである。また龍は水を司る神としての機能を持っており、そのような神に捧げられたのは、やはり水に縁のある玉だったのであろう。

 では次に人間と水との関係を見ていこう。『管子』によると、人間も玉と同様に水から誕生したとされているのである。

人は水なり。男女の精気合し、而して水、形を流く[4]。

是を以て、水玉に集まり、九徳出ず、凝蹇して人と為り、九竅五慮出ず[4]。

 「水、形を流く」について遠藤哲夫は「その精液が合しやがて形あるものとなる」[94]との訳をつけている。そして玉に九徳が出たのと同じように、水が凝り固まって人が出来、そこに9つの穴・5つの心の働きが誕生したとされるのである。 

第2節:まとめ
 
 本草書に多く見られるのであるが、玉は白玉が最も良いとされていたようだ。 

服玉食玉するに、惟だ純白它の色を貴ぶ[89]。
白色は此物平常之を服せば則ち神仙に応ず[95]。
 人体に使用するに当たりどうして白玉が良いとされたのであろうか。それは白玉が精液の凝ったものであるという認識があったためかもしれない。林巳奈夫は友人から贈られた白玉を見て「白く半透明な外見は人間の精液そのものである」[96]と言っている。

 第1節で見てきたように、人間・玉どちらにも水のエキスが濃縮されているのである。人が玉を服用もしくは身に帯びることは、玉中の水分つまり水のエキスを取り込むことと同じである。人間は水から誕生したとされるから、そこに同じく水から生まれた玉を服用することで、人体がより強化されると考えられたのであろう。更に精液の塊である所の白玉を服用するのであれば、より高い効果が期待されたのである。  
 

終わりに

 「初めに」で挙げた先行研究では玉の愛用について、藤野・西田は玉の呪力を理由として挙げている[97]。林は先の2人とは異なり、玉の愛用についてより具体的に、玉が力を持つとされたのは「人間の生殖の根元の液体との類似」にあったと述べている[98]。

 本稿でも玉の愛用された背景に「玉は神秘的な力を具えている」との認識が存在していたことが分かった。その力とは、具体的には以下に挙げたとおりである。

(1)不老長寿になれる

(2)身が軽くなり、神仙になれる

(3)遺体の腐敗防止

(4)不吉なもの(悪霊など)を寄せつけない

(5)潤いを与える

(6)生命力の源が濃縮されている
 
 いずれの効果も、玉が「活発な生命力の塊」と見なされた故に期待されたものであると思われる。鉱石の一種であるのにその中に潤いがあるように感じられ、半透明であったり不透明であるところは、確かに新たな生命の素である精液を連想させる。つまり玉の中にある「潤い」とは、具体的には水・生命の素を指しているのである。
  
 これまで玉がなぜ愛好されたのかを探ってきたが、その背景には玉の、そして人の水の存在があった。以上より、中国における玉の偏愛は、古代から玉が「水に由来する旺盛な生命力をその中に具え、他の鉱物にはない力を発揮する」との考えから発生したと思われるのである。
 
 

注と参考文献

[1]ジャン=ジュヴァリエ・アラン=ゲールブラン共著、金光仁三郎ほか訳『世界シンボル大事典』p.720、大修館書店(1996)。

[2]フランコ=モンティ著・友部直・友部洋子訳『世界の至宝第11巻 民族美術』、p.228・231、ぎょうせい(1984)

[3]例えば玉器の一種・璧は『史記』廉頗藺相如伝に登場し、ここから「完璧」という語が生まれている。

[4]遠藤哲夫『新釈漢文体系第43巻 管子(中)』水地編p.729、明治書院(1991)、原文は以下のとおり。「是以、水集於玉、而九徳出焉、凝蹇而為人、而九竅五慮出焉」。

[5]林巳奈夫『中国古玉の研究』吉川弘文館(1991)。

[6]林巳奈夫『中国古玉器総説』吉川弘文館(1999)。

[7]藤野岩友「「玉」愛用の古義に就いて」『漢学会会報』4(1938)。

[8]西田長左衛門「佩玉食玉攷」『漢学会雑誌』9−1(1936)

[9]近山晶『宝石・貴金属大事典』p.290・499、柏書店株式会社(1982)。
   崎川範行『講談社ブルーバックス 原色宝石小事典』p.175〜p.181、講談社(1997)。

[10]原田淑人「正倉院宝物雑考(その2)」『東亜古文化論考』p.150、吉川弘文館(1962)。

[11]何賢武、王秋華主編『中国文物考古辞典』p.674、遼寧科学技術出版社(1993)。

[12]松田稔『笠間叢書第281巻 山海経の基礎的研究』p.289、笠間書院(1995)。

[13]前掲文献[9]、p.477。

[14]前掲文献[9]、p.280(サーペンチン)・p.641(ボーウェナイト)。サーペンチン(Serpentine)和名は蛇紋石。極めて多くの変種がある。この内ボーウェナイト(Bowenite:硬度4〜6)と呼ばれる種が、中国での産出が確認されている。外観がネフライトに酷似しているとあるので、玉器の材料になったと思われる。

[15]周南泉「中国現存最早的玉器」『古玉器』p.1、上海古籍出版社(1993)。

[16]前掲文献[9]p.290(ジェダイト)・p.412(ターコイズ)・p.499(ネフライト)・p.641(ボーウェナイト)・p.679(マラカイト)。

[17]前掲文献[9]p.290・291(ジェダイト)・p.412(ターコイズ)・p.499(ネフライト)p.641(ボーウェナイト)・p.679(ターコイズ)。各鉱物の色の変化は以下のとおり。
 ネフライト:白・緑・濃緑・黄緑・淡黄・褐色・赤褐色・黒
 ジェダイト:白・濃淡緑・黄緑・黄褐色・褐色・赤・橙・淡紫・灰・黒 
 ボーウェナイト:青みがかった白ないし黄緑 
 ターコイズ:スカイブルー・帯緑青・青緑・緑  
 マラカイト:緑・濃緑

[18]清、阮元『礼記』巻18・学記(故宮【寒泉】古典文献全文検索資料庫:http://210.69.170.100/s25/index.htmによる)。該当部分は以下のとおり。「玉不琢,不成器;人不学,不知道」。

[19]許慎撰、徐鉉等校定『説文解字』巻1上p.10、新華書店北京発行所(1963)。

[20]長澤規矩也ほか編『新明解漢和辞典第4版』p.38より抜粋、三省堂(1992)。

[21]香坂順一編著『現代中国語辞典』p.1578、光生館(1995)。

[22]『新華字典1998年修訂本』p.599、商務印書館(1998)。

[23]前掲文献[19]、p.10〜14

[24]前掲文献[19]、p.12

[25]前掲文献[19]、p.13

[26]宋応星撰、藪内清訳注『東洋文庫第130巻 天工開物』p.338、平凡社(1987)。

[27]清・阮元校勘『十三經注疏附校勘記第3巻 周礼注疏』p.1458、中文出版社(1989)。該当部分は以下のとおり。「玉は是れ陽精の純なり。之を食し以て水気を禦する。」 

[28]大野峻『新釈漢文体系第67巻 国語(下)』楚語下p.738、明治書院(1978)。該当部分は以下のとおり。「珠の以て火災を禦ぐに足るは、則ち之を寶とす」。

[29]周哲點・林道春 跋『周礼(上)』春官p.174、菜根出版(1976)。該当部分は以下のとおり。

「玉を以て六器を作り、以て天地四方に礼す。蒼璧を以て天を礼し黄jを以て地に礼す。青圭を以て東方に礼し、赤璋を以て南方に礼す。白琥を以て西方に礼し、〈王+(−木)〉を以て北方に礼す」。
[30]前掲文献[19]同頁、原文は以下のとおり。「其聲舒揚専以遠聞智之方也」。

[31]玲瓏:金属や玉がふれあって鳴る音(前掲文献[20]p.891)、琳瑯:玉がふれあう音(同p.894)、j〈王+爭〉:玉がふれあう音(同p.894)。

[32]『重修政和経史証類備用本草』巻3玉石部上品、人民衛生出版社(1982)。

[33]前掲文献[32]、「玉屑」項より抜粋。

[34]前掲文献[32]、「玉泉」項より抜粋。[35]前掲文献[32]、「玉膏」項より抜粋。

[36]前掲文献[32]、「玉屑」項が引く「宝蔵論」、該当部分は以下のとおり。

玉の玄真は、之を餌せば其の命無極、人をして挙身軽飛せしむ。(中略)焼きて粉と為すべし。一年已上服せば水中に入りても濡れず。原文:玉玄真者餌之其命無極令人挙身軽飛(中略)可焼為粉一年已上入水中不濡」。
[37]前野直彬『全釈漢文体系第33巻 山海経・列仙伝』p.117西山経より抜粋、集英社(1975)。

[38]北斎、魏収撰『魏書』第3冊列伝第21、p.791より抜粋、中華書局(1974)。原文は以下のとおり。

「字元ト。(中略)毎羨古人餐玉之法、乃採訪藍田、躬往攻掘。得若環璧雑器形者大小百余、稍得粗黒者、亦篋盛以還、而至家観之、皆光潤可玩。預乃椎七十枚為屑、日服食之、余多恵人。後預及聞者更求於故処、皆無所見。馮翊公源懐等得其玉、琢為器佩、皆鮮明可宝。預服経年、云有効験、而世事寝食不禁節、又加之好酒損志、疾篤、謂妻子曰『服玉屏居山林、排棄嗜欲、或当大有神力、而吾酒色不絶、自致於死、非薬過也。然吾尸体必当有異、勿便速殯、令後人知餐服之妙』時七月中旬、長安毒熱、預停尸四宿、而体色不変。其妻常氏以玉珠二枚〈口+含〉之、口閉。常謂之曰『君自云餐玉有神験、何故不受〈口+含〉也?』言訖歯啓、納珠、因嘘属其口、都無穢気。挙斂於棺、堅直不傾委。死時猶有遺玉屑数斗、〈タク〉盛納諸棺中」。
[39]前掲文献[29]p.74 該当部分の原文は以下のとおり。「王斉、則共食玉」。

[40]前掲文献[8]p.14

[41]石川忠久『新釈漢文体系第111巻 詩経(中)』小雅・斯干p.287、明治書院(1998)。

[42]前掲文献[20]p.889、該当部分は以下のとおり。

「弄瓦(ロウガ):女子が生まれる意、弄璋(ロウショウ):男子が生まれる意。昔男子が生まれると璋(たま)のおもちゃを与え、女子が生まれると瓦(いとまき)のおもちゃを与えた故事」。
[43]前掲文献[41]p.295、余説。

[44]前掲文献[19]p.11、該当部分は以下のとおり。「璋、上を〈炎+(則−貝)〉ぎたるを圭と為し、半圭を璋と為す」。

[45]白川静『字統』p.451、平凡社(1984)。

[46]松村明編『大辞林』p.1504、三省堂(1989)。

[47]「百家鎖・〈月+孛〉鎖とも称する。多くの家(百家)から貰ったお金で首飾りを買い、それを魔除けとして子供の首にかけておく」以上、王タ『中華美術民俗』p.144(中国人民大学出版社1996)より抜粋。

[48]「リンガ(男根像):中国には圭という細長い三角形をした玉器があり、これがヒンズー教のリンガに相当する。圭はしばしば寺院の中心や十字路・山頂に見出され、生命の神秘と生殖行為の神聖さとを想起させる」。以上、前掲文献[1]、p.1056〜1057。

[49]平木康平「中国の宗教ならびに習俗における子ども」『世界子供の歴史9:中国』p.118、第一法規出版(1984)。

[50]ミランダ・ブルース=ミットフォード著、若桑みどり訳『サイン・シンボル辞典』p.8、三省堂(1997)。

[51]特別展「紫禁城の女性達」1999年6月26日(土)〜8月1日(日)笠間日動美術館(茨城県笠間市)にて開催主催:日動美術財団、中国文物交流中心。

[52]前掲文献[51]、図録p.61

[53]前掲文献[49]、p.119

[54]南朝宋、范〈目+華〉『後漢書』志第6(故宮【寒泉】古典文献全文検索資料庫:http://210.69.170.100/s25/index.htmによる)。該当部分は以下のとおり。「諸侯王、列侯、始封貴人、公主薨,皆令贈印璽、玉〈木+甲〉銀縷;大貴人、長公主銅縷」

[55]「(前略)考古資料を見るに、すでに出土している玉衣は22套以上ある」(盧兆蔭「試論両漢的玉衣」『考古』第1期p.52(1981)より抜粋訳)。 

[56]特別展「よみがえる漢王朝展」1999年6月22日(火)〜8月22日(日)国立歴史民俗博物館(千葉県佐原市)にて開催、主催:国立歴史民俗博物館、中国社会科学院考古学研究所、奈良国立文化財研究所、読売新聞社。

[57]前掲文献[55]、p.56

[58]前掲文献[55]、p.51

[59]西漢、司馬遷『史記 巻3』本紀第3(故宮【寒泉】古典文献全文検索資料庫http://210.69.170.100/s25/index.htmによる)該当部分は以下のとおり。「甲子日紂兵敗るる。紂走り入りて鹿台に登り其の宝玉衣を衣火を赴して死す」。

[60]沈従文編著、王〈予+予〉増補版著、古田真一・栗城延江共訳『中国古代の服飾研究増補版』沈従文による序p.3、京都書院(1995)。

[61]東漢・班固『漢書』巻19上、表第7表(故宮【寒泉】古典文献全文検索資料庫:http://210.69.170.100/s25/index.htmによる)該当部分は以下のとおり。

「少府,秦官,山海池澤の税を掌る,以て給し共に養う,六丞有り。屬官有尚書符節太醫太官湯官導官樂府若盧考工室左弋居室甘泉居室左右司空東織西織東園匠十(二)」。
[62]前掲文献[55]、p.57

[63]南朝宋・范〈目+華〉『後漢書』巻11列伝1劉盆子伝(故宮【寒泉】古典文献全文検索資料庫:http://210.69.170.100/s25/index.htmによる)。該当部分は以下のとおり。

「諸陵を発掘し,其の宝貨を取り,遂に呂后の屍を〈(清−青)+于〉辱す。凡そ賊の発する所,玉匣に有る〈(死−匕)+(斂−攵)者は率ね皆生くるが如し,故に赤眉多く婬穢を行うを得る」。
[64]「〈王+含〉、死して送る口中の玉なり」、前掲文献[19]、p.13。

[65]周南泉「ッ沢文化玉含之謎」『古玉器』p.15、上海戸籍出版社(1993)。

[66]藤井専英『新釈漢文体系第6巻 荀子(下)』大略編p.777、明治書院(1969)。

[67]竹内照夫『礼記(上)』檀弓下p.173、明治書院(1971)。

[68]前掲文献[29]、p.74、玉府。原文は以下のとおり。「大喪共含玉復衣裳角枕角〈木+四〉」。

[69]陳立疏証『白虎通疏証(下)』p.648、広文書局(1987)。

[70]前掲文献[65]、p.16。

[71]前掲文献[67]、p.140。

[72]前掲文献[11]、p.677。

[73]銭伊平「玉蝉和玉豚−兼談含、握之礼」p.95、『故宮文物月刊』8−10(1991)。

[74]前掲文献[73]、p.98

[75]顔之推著、宇都宮清吉訳注『東洋文庫514 顔氏家訓』第2巻p.199、平凡社(1990)。

[76]前掲文献[73]、p.93。

[77]樋口隆康監修『故宮博物院 第13巻玉器』p.37、NHK出版(1999)。

[78]前掲[56]、図録p.173。

[79]前掲文献[73]、p.98。

[80]王明『抱朴子内編校釈』p.51、中華書局(1982)。

[81]間瀬収芳「〈王+含〉について」、小南一郎『中国古代礼制研究』p.28、京都大学人文科学研究所(1995)。

[82]前掲文献[19]、p.10。該当部分は以下のとおり。

「玉。石の美なるもの、五徳あり。潤沢以て温なるは仁の方なり。〈角+思〉理外より自ずから以て中を知る可きは義の方なり。其の声舒揚、専ら以て遠く聞こゆは智の方なり。橈まず而して折、勇の方なり。鋭廉而して技せずは潔の方なり」。
[83]前掲文献[4]、p.727。該当部分は以下のとおり。
「夫れ玉の貴き所の者は、九徳焉に出ずればなり。夫れ玉は温潤にして以て沢なるは仁なり。鄰にして以て理なるは知なり。堅にして而も蹙らざるは義なり。廉にして而も〈歳+(則−貝)〉らざるは行なり。鮮にして而も垢れざるは潔なり。折れて而も撓まざるは勇なり。瑕適皆見るるは精なり。英華光沢並び通じて而も相陵がざるは容なり。之を叩くに其の音清揚にして遠きに徹し純にして而も〈メ+有+殳〉れざるは辞なり」。
[84]前掲文献[19]、p.10。原文は以下のとおり。「潤沢以温仁之方也」。

[85]前掲文献[4]、p.727。原文は以下のとおり。「夫玉温潤以沢仁也」。

[86]楠山春樹『新釈漢文体系第54巻 淮南子(上)』地形訓p.214、明治書院(1979)。

[87]宋応星撰・藪内清訳注『東洋文庫第130巻 天工開物』p.344、平凡社(1987)。

[88]前掲文献[87]、p.347。

[89]前掲文献[32]、「玉屑」項所引『図経』より抜粋。

[90]藤井専英『新釈漢文体系第5巻 荀子(上)』勧学編p.28、明治書院(1966)。 

[91]前掲文献[32]、「玉屑」項所引『天宝遺事』より抜粋。

[92]前掲文献[19]、p.11。

[93]前掲文献[37]、p.117。但し原文はp.116にある。

[94]前掲文献[4]、p.728。

[95]前掲文献[32]、「玉泉」陶弘景注より抜粋。

[96]前掲文献[6]、p.5。

[97]前掲文献[7]、p.26。また前掲文献[8]、p.17。

[98]前掲文献[77]、p.74。 
 

参考文献

クリス・ペラント『完璧版 岩石と鉱物の写真図鑑』日本ヴォーグ社(1997)。

大英自然史博物館監修・リリーフ・システムズ訳『ビジュアル博物館第2巻 岩石と鉱物』同朋舎出版(1990)。

伊藤清司「『山海経』と玉」『中国古代研究(5)』雄山閣出版(1982)。

那志良「瓏 古玉介紹之七」『故宮文物月刊』1−7(1983)。

章成嵩「初探秦以前之喪葬玉」『中華学苑』38(1989)。

滝沢俊亮『中国の思想と民俗』校倉書房(1965)。

江藤広『古代中国の民俗と日本−『春秋左氏伝』に見る民俗資料から−』雄山閣出版(1992)。

王タ『中華美術民俗』中国人民大学出版社(1996)。

古屋奎二『故宮博物院秘宝物語』淡交社(1991)。

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