「禹歩の技法と思想」
この「禹歩」は、古代の聖天子「禹」の歩きかたをかたどったものと伝えられる(1)。「禹」は『史記』などの歴史資料において夏王朝の始祖とされている人物である。ところが、興味を持って調べていくうちに疑念が起こった。それは呪術としての「禹歩」の力が、古代の儒家的な聖天子をかたどってその徳にあやかるというようなものではなく、より民間信仰的な性質を濃厚に持っていると見なされる点である。 「禹」は『論語』や『孟子』など、儒家の古典で崇拝されている人物であるが、 一方、「禹歩」は主に『抱朴子』や『道蔵』など、道教系の書物に見える(2)。また、最近の出土文献の研究でも、「禹歩」と土俗的な信仰との結び付きは明らかである(3)。果たして、聖天子「禹」自身と呪術としての「禹歩」との間にはどの様な関係があるのだろうか。
ところで、この「禹歩」は一般にはほとんど知られていない。そこで、本稿ではまず、「禹歩」とは何であるかを述べ、次に、具体的な「禹歩」の使用場面を取り上げた上で、聖天子「禹」と呪術「禹歩」との関係について、検討、考察していきたい。また、問題とするのはより古い時代の「禹歩」であり、使用する文献も唐代以前のものに限定される。
本稿引用文の漢字は、常用漢字・人名用漢字のJISコードにある範囲で一律にそれに改め、それらにない字は正字を使用した。また、読み下しは現代仮名遣いで表記し、難読と思われるものには読み仮名をふった。
東晋の葛洪の著した『抱朴子』には、ステップとして文献上最も古い「禹歩」が二種類記載されている。
一つは「仙薬篇」(5)にある。
禹歩法、前挙左、右過左、左就右、次挙右、左過右、右就左、次挙左(6)、右過左、左就右、如此三歩、当満二丈一尺、後有九跡これによると、「禹歩」をすることで二丈一尺の長さにわたって九つの足跡がつくことになる。もう一つは「登渉篇」(7)で、次のようにある。禹歩の法、前に左を挙げ、右左を過り、左右に就く。次に右を挙げ、左右を過り、右左に就く。次に左を挙げ、右左を過り、左右に就く。此の如く三歩せば、満二丈一尺に当たり、後に九跡有り(図1)。
禹歩法、正立、右足在前、左足在後、次復前左足(8)、次前右足、以左足従右足併、是一歩也、次復前右足、次前左足、以右足従左足併、是二歩也、次復前左足(9)、次前右足、以左足従右足併、是三歩也、如此、禹歩之道畢これらは「禹歩」が「三歩」をもって完結するものであることを述べている。 一方、睡虎地秦墓竹簡禹歩の法、正して立ち、右足前に在り、左足後に在る。次に復た左足を前にし、次に右足を前にし、左足を以て右足に従い併す、是れ一歩なり。次に復た右足を前にし、次に左足を前にし、右足を以て左足に従い併す、是れ二歩なり。次に復た左足を前にし、次に右足を前にし、左足を以て右足に従い併す、是れ三歩なり。此の如くして、禹歩の道畢ゆ(図2)。
次に「禹歩」の成立について各種文献がどのように述べているかをみてみよう。『芸文類聚』帝王部一帝夏禹に引用された『帝王世紀』には次のような文章がある(13)。
伯禹夏后氏、{女+以}姓也、(中略)乃労身渉勤、不重径尺之璧、而愛日之寸陰、手足胼胝、故世伝禹病偏枯、足不相過、至今巫称禹歩是也過労で半身不随となった「禹」の歩きかたを巫が「禹歩」と称していたことが述べられている。また、次に揚げる文は『史記』夏本紀の本文(14)であるが、その注(15)には「禹歩」に関する記述が見える。伯禹夏后氏、{女+以}姓なり。(中略)乃ち身を労して渉勤す。径尺の璧を重しとせずして、
日の寸陰を愛み、手足胼胝す。故に世よ禹、偏枯を病み、足相い過らずと伝う。今に至りて巫の禹歩を称るは是れなり。
禹為人敏給克勤、(中略)声為律、身為度劉宋の裴{馬+因}の集解には「度」が「法度」、つまり規範や手本のことといい、唐の司馬貞の索隠は「今の巫、なお禹歩を称す」と注する。 一方、前漢末の揚雄の『法言』重黎篇(16)には次のようにある。
王粛曰、以身為法度(集解)
按、今巫猶称禹歩(索隠)禹為人敏給克勤、(中略)声は律を為し、身は度を為す。
王粛曰く、「身を以て法度を為す」と。
按ずるに、今の巫、猶お禹歩を称す。
昔者{女+以}氏治水土、而巫歩多禹さらに、晋の李軌によるこの部分の注(17)にはなぜ「禹」の歩きかたを真似るのか、その理由が述べられている。昔者{女+以}氏水土を治む。しかして巫の歩、多く禹なり。
{女+以}氏禹也、治水土渉山川、病足、故行跛也、禹自聖人、是以鬼神猛獣蜂{萬+虫}蛇{兀+虫}莫之螫耳、而俗巫多効禹歩以上の記載から、「禹歩」が伝説における「禹」の歩きかたをかたどっていることは確実である。なぜかたどるのか、その理由として、聖人「禹」は鬼神や猛獣・蜂・さそり・蛇などにさえ傷付けられることがない、その徳にあやかろうとしているのだと李軌は説明する。{女+以}氏は禹なり。水土を治め山川を渉り、足を病む。故に行くに跛なり。禹自から聖人、是を以て鬼神猛獣蜂{萬+虫}蛇{兀+虫}之を螫す莫きのみ。しかして俗巫多く禹歩を効う。
次に、「禹歩」の使用目的・効果について見てみよう。
この篇は冒頭に、「或いは登山の道を問う」とあるように、入山法に関する内容である。『抱朴子』において、入山は重要な意味を持つ。それは「凡そ道の為に薬を合せ、及び乱を避けて隠居する者は、山に入らざるなし」と、述べられているとおり、道士が薬を調合するときや隠居する者などは必ず入山する、と規定されているからである。さらに続けて、「然るに入山の法を知らざる者、多く禍害に遇う」と警告を発し、正しい入山法の必要性を説いている。
その後、様々な入山法が述べられるのだが、好ましい日どり、好ましい持ち物などに混じって、『遁甲中経』(22)からの引用として「禹歩而行」の四文字が二箇所に見える。ここでは「禹歩」は入山法として取り上げられている。そしてこの直後に「禹歩」のステップについての記載があるのだが、その後に続けて「凡そ天下の百術を作す、皆宜しく禹歩を知るべく、独り此の事のみにあらざるなり」とも書かれ、 「禹歩」の重要性が入山法としてだけに止まるものではないとされている。
他にも様々な入山法が紹介された後、「或いは山沢に隠居して蛇蝮を避けるの道を問う」と、より具体的な質問が出され、それに対する解答の一つとして、「介先生法」なる方法が挙げられている(23)。
介先生法、到山中住、思作五色蛇各一頭、乃閉気以青竹及小木枝屈刺之(24)、左徊禹歩、思作呉蚣数千枚(25)、以衣其身、乃去、終亦不逢蛇也この方法は「五色の蛇」を作り出してから、刺し、「禹歩」をし、最後に「呉蚣」を身に纏って去ることで、それ以後の蛇の出現をおさえる、というやり方になる。「呉蚣」と介先生法、山中に到りて住まり、五色の蛇各一頭を思作し、乃ち閉気し青竹及び小木枝を以て之を屈め刺し、左に徊りて禹歩し、呉蚣数千枚を思作し、以て其の身を衣いて、乃ち去れば、終に亦た蛇に逢わざるなり。
この場合の「禹歩」が、蛇の出現をおさえるために何等かの効果を発揮しているのは間違いない。この蛇避けの効果は、「禹歩」が入山の法とされている理由の大きな部分を占めると思われる(27)。
まず、「石芝」採取における「禹歩」を見てみる(28)。
石芝者、石象芝生於海隅名山、及島嶼之涯有積石者、(中略)凡見諸芝、且先以開山却害符置其上、則不得復隠蔽化去矣、徐徐択王相之日、設{酉+焦}祭以酒脯、祈而取之、皆従日下禹歩閉気而往也石芝というものは、石が芝をかたどって海隅の名山に生じ、また、島峡の涯には積石というものがある。(中略)石芝を含む諸々の芝は「開山却害符」を上に置いておけば、無くなってしまったり、変質したりすることはない。ゆっくりと吉日を選んで酒と干し肉でまつり、祈って石芝を採取し、太陽が沈むのに従って山をおり、禹歩閉気していくのだ。石芝なる者は、石の芝を象りて海隅の名山に生じ、及び島嶼の涯に積石なる者有り、(中略)凡そ諸芝を見るに、且く先ず開山却害符を以て其の上に置かば、則ち復た隠蔽化去するを得ず。徐徐として王相の日を択び、{酉+焦}祭を設くるに酒脯を以てし、祈りて之を取り、皆日に従いて下り禹歩閉気して往くなり。
これによると「禹歩」は「石芝」を採って帰る時に行うものということになる。
次に、「菌芝」の記載(29)を見ると、こちらには「皆当に禹歩して往きて之を採取すべし」という一文があり、「禹歩」は「菌芝」を採取しに行く場合の必要な手順であることが分かる。
さて、「仙薬」における「禹歩」の記載については以上だが、ここで考察しなければならないことがある。それは「石芝」や「菌芝」の「禹歩」と入山との繋がりである。 「登渉」における「禹歩」が入山と密接な繋がりを持つことはすでに見た通りだが、そこでは薬を調合する道士、戦乱を避ける者の二者は、必ず入山するとされていた。そしてまた、特に「菌芝」の記述には、入山に関する注意書きが非常に多い。
「石芝」は「海隅の名山」に生じるものであり、 「菌芝」は「或いは深山の中に生じ、或いは大木の下に生じ、或いは泉の側に生ず」ものとされている(30)。さらに、「菌芝」には「芝革を求めて名山に入らんと欲せば、必ず三月九月を以てす、此れ山開き神薬出るの月なり」といった記述があり、「芝」とそれを採取するための人山との関わりは明らかである(31)。「菌芝」の結びの文章を見てみよう。
此諸芝名山多有之、但凡庸道士、心不専精、行穢徳薄、又不曉入山之術、雖得其図、不知其状、亦終不能得也、山無大小、皆有鬼神、其鬼神不以芝与人、人則雖践之、不可見也以上の記載から、この「仙薬」の「禹歩」も入山して石芝・菌芝を得る方法と考えて問題なかろう。此の諸芝、名山多く之有るも、但だ凡庸の道士は、心に専ら精かにせず、穢を行い徳薄し。又た入山の術に曉ならず、其の図を得ると雖も、其の状を知らず、亦た終に得る能わざるなり。山に大小無く、皆鬼神有り、其の鬼神芝を以て人に与えず、人則ち之を践むと雖も、見る可からざるなり。
或禹歩呼直日玉女、或閉気思力士、操千斤金鎚、百二十人以自衛これによると「禹歩」をすることで「直日玉女」を呼び出し、身を守ることができる、ということになる。なぜ「百二十人」なのかは不明である。『抱朴子』における「玉女」とは、ほぼ、「仙女」や「天女」の如きものを指しており、ここでの「禹歩」はそのような神仙を呼び寄せ、或いは操ることのできる呪術と解することができる。或いは禹歩して直日玉女を呼び、或いは閉気して力士を思い、千斤の金鎚を操り、百二十人を以て自衛す。
これだけでは猛獣や蛇を殺す効果が、丸薬と「禹歩」のどちらにあるのか、あるいはどちらの効果がより強く出ているのかがはっきりしない。
少なくともここでの「禹歩」は、猛獣や蛇を殺し、もしくは殺す効果を助ける役割を果たしているのだといえる。
案使者甘宗所奏西域事云、外国方士能神祝者、臨淵禹歩吹気、竜即浮出、其初出乃長十数丈、于是方士更一吹之、 一吹則竜輒一縮、至長数寸、方士乃{テヘン+(綴−糸)}取著壺中、壺中或有四五竜、以少水養之、以疏物塞壺口、国常患旱災、于是方士聞余国有少雨{尸+婁}旱処、輒齎竜往売之、 一竜直金数十斤、挙国会斂以顧之直畢、乃発壺出一竜、著淵潭之中、因復禹歩吹之、 一吹一長、輒長数十丈、須臾而雲雨四集矣今までの例と違って、ここでは「禹歩」の効果が極めて明確に結果となって表れている。すなわち、この場合の「禹歩」が竜を操る呪術であることは疑いの余地がない。案ずるに使者甘宗の西域の事を奏する所に云う。外国の方士の能く神祝する者、淵に臨みて禹歩し吹気せば、竜即ち浮かび出づ。其の初めに出ずるは乃ち長さ十数丈なり。是において方士更に之を一吹す。一吹せば則ち竜輒ち一縮す。長さ数寸に至り、方士乃ち{テヘン+(綴−糸)}取して壺中に著う。壺中に或いは四五竜有り、少水を以て之を養い、疏物を以て壺口を塞ぐ。国常に旱災を患う。是において方士、余国に少雨にして{尸+婁}旱する処有るを聞かば、輒ち竜を齎し往き之を売る、一竜金数十斤に直す。国を挙げて会め斂め以て之を顧えば、畢を直て、乃ち壺を発して一竜出で、淵潭の中に著る。因りて復た禹歩して之を吹き、一吹せば一長し、輒ち長さ数十丈たり。須臾にして雲雨四集せり。
『抱朴子』中の「禹歩」の使用場面は以上である。これまでに、「登渉」「仙薬」「雑応」「黄白」「佚文」のそれぞれの「禹歩」を見てきたが、ここでその性格をまとめることにしよう。
一つ目は「入山の法としての禹歩」であり、「登渉」「仙薬」の「禹歩」がこれに当る。二つ目は「疫病避けの意味を持つ禹歩」で、「雑応」にある。三つ目は「猛獣や蛇を殺すか、もしくはそれを補助するような役割を持つ禹歩」で、「黄白」にある。四つ目は「竜を操る呪術としての禹歩」で、これは「佚文」にある。
『抱朴子』における「禹歩」の具体的な使用場面は、それぞれの性格により、この四種類に分類される。
次に、歴代の正史における「禹歩」について見てみよう。
さて、正史の「禹歩」の具体的なエピソードは全部で三つあり、その時期は三つとも六朝期である。恐らくこれには時代背景が関わっているであろう。六朝期は道教教団成立の舞台であり、旺盛な活動が行われていた(35)。
まず、『南斉書』列伝第七「陳顕達」(36)の記載を見てみる。
南斉の将軍陳顕達が、桂陽の賊を討ったときのエピソードである。
顕達出社姥宅、大戦破賊、矢中左眼、抜箭而鏃不出、地黄村潘嫗善禁、先以釘釘柱、嫗禹歩作気、釘即時出、乃禁顕達目中鏃出之この場合、怪我の治療というよりは明らかに「禹歩」による呪術の力で物を動かした、と見るべきであろう。わざわざ柱に釘を打ち付け、その釘が矢じりと同時に抜け出ているのは、その点を強調しているのだと思われる。顕達杜姥宅を出で、大いに戦いて賊を破る。矢左眼に中り、箭を抜きて鏃出ず。地黄村の潘嫗、禁を善くし、先ず釘を以て柱に釘ち、嫗、禹歩して気を作せば、釘即ち時に出で、乃ち禁顕達の目中の鏃之を出す。
さて、『北斉書』列伝第二十四「陸法和、王琳」(37)には、目に見える効果は提示されていないが、 「禹歩」が行われている一場面がある。
「禹歩」を行うのは「陸法和」なる人物である。出身地不詳の彼は、「禹歩」を行うには少々問題があるようにも思われる。それはたとえば自らを「貧道」と称したり、「法和是れ求仏の人」と言ったりと、明らかに仏僧だからである。彼は蛇、あるいは牛を戯れに殺した人々に怨念が取り付いているのを見抜いて助言し、言われた通りに蛇の供養をした人は助かり、牛の供養をしなかった人はまもなく死んだ。確かにこういった事跡を見ると僧侶らしいのだが、一方では軍を率い、梁の元帝に司徒・都督・郢州刺史などに封じられている。さらには入山経験があり、「彼既に道術を以て自から命あり、之を容れるに先んじて知る」と言われている。「山中の毒虫猛獣、法和其の禁戒を授け、復た?螫せず」という記載は『抱朴子』の入山の法を連想させる。また死んだ後、棺が軽いので蓋を開けてみると遺骸が無かった、という話は彼が仙人であったことを示唆しているのではないか。こうしてみると、彼は仏僧を自称しているが、その実態はほぼ道士、ということのようだ。南北朝が思想の混乱期であることを思えば、こうしたことは有り得るのだろう。
さて、その後彼は北斉に入り、そこでも高い地位を与えられ、やがて入朝する。
法和与宋莅兄弟入朝、文宣聞其奇術、虚心相見、備三公鹵簿、於城南十二里供帳以待之、法和遥見{業+オオザト}城、下馬禹歩、辛術謂曰、公既万里帰誠、主上虚心相待、何為作此術、法和手持香炉、歩従路車、至於館ここでは、「禹歩」をした結果としては何も起こっていない。辛術の問い掛けには、やはりこの「禹歩」が何らかの意味を持っていることが見て取れるが、法和はそれに対しても何も答えていない。『抱朴子』的な視点でいえば、目に見えないところで何かが起こっているのだと推測されるが、そういった内容についても一切記載されていない。ここでの「禹歩」の効果は、不明である。法和、宋莅兄弟と入朝す。文宣其の奇術を聞き、虚心にして相い見えんと、三公鹵簿を備え、城南十二里に於て帳を供し以て之を待つ。法和遥かに{業+オオザト}城を見、馬を下りて禹歩す。辛術謂いて曰く「公既に万里を誠に帰し、主上虚心にして相い待つ、何の為に此の術を作すか」と。法和手に香炉を持ち、歩は路車に従い、館に至る。
第三の例は、『北斉書』列伝第四十一 「方伎」で琅邪の由吾道栄という人物についての記述(38)に登場する。
この人物は若い時から道術を好み、仲間と共に入山したこともあった。その後、彼は晋陽の某を訪ねる。この某というのはある家の下男をしている人物なのだが、道家の符水・呪禁・陰陽歴数・天文・薬性に至るまで、知らないことはないというほどだった。某は道栄を気に入ってその知識を全て彼に授けたが、そんなある日、某が道栄に言う。「私はもともと恒山の仙人だったのですが、小さな罪を犯して天の官吏に罰せられてしまいました。今、その期限が終わったので帰ろうと思います。あなたにはどうか私を汾水まで送っていただきたい」。そして汾水に着いた場面となる。
及河、値水暴長、橋壊、船渡艱難、是人乃臨水禹歩、以一符投水中、流便絶、俄頃水積将至天、是人徐自沙石上渡、唯道栄見其如是、傍人咸云水如此長、此人遂能浮過、共驚異之この場合の「禹歩」は、河の氾濫を治める力を発揮している。しかし、それに続いて水が天にまで昇っていくのは、治水の範囲を越えている。これは治水というよりは、川の水を自在に操っていると見るべきである。河に及び、水の暴長し、橋の壊れ、船の渡るに艱難するに値う。是の人乃ち水に臨んで禹歩し、一符を以て水中に投ずれば、流れ便ち絶ゆ。俄頃として水積将に天に至らんとす。是の人徐ろに沙石の上自り渡る。唯だ道栄其の是の如くなるを見、傍らの人咸く水此の如く長しと云う、此の人遂に能く浮かび過ぎ、共に驚きて之を異とす。
以上が正史における「禹歩」の登場場面である。この三つのエピソードにおける「禹歩」の効果について、もう一度まとめよう。
まず、「陳顕達」と「方伎」に関してははっきり目に見える形で結果が記載されているため、「禹歩」の効果も明確である。すなわち、「陳顕達」の「禹歩」では釘や矢じりを抜き取る、「物体を動かす力」が発揮されている。そして「方伎」の「禹歩」では、「水を自在に操る力」が発揮されている。
一方、「法和」の「禹歩」だが、これは目に見える範囲では何も起きていない。それでも「禹歩」が何らかの意味を含んでいるらしいことは、辛術の問い掛けから見て取れる。
正史においては、「物体を動かす禹歩」と「水を自在に操る禹歩」の二つが見て取れる。
次に、出土文献中の「禹歩」を見ていくことにする。
最も古い先秦時代のものに『日書』がある。 『日書』すなわち占書であり、「禹歩」は、睡虎地秦墓竹簡『日書』(39)と天水放馬灘秦簡『日書』(40)の両方に記載がある。これらには、旅立ちの前に旅の無事を祈る儀式の一連の流れが記載されており、その流れの中に「禹歩」が登場する。 一連の流れとは、門を出て禹歩し、「皐あ、敢て告げて日う、某行くに咎勿かれ、先んじて禹の為に道を除す」なる呪文を唱え、地面を五分画してその中央の土を懐に入れる、といった内容である。これは睡虎地秦墓竹簡『日書』甲種の記載だが、同乙種にも「禹歩」が登場する。しかし、内容的には多少異なり、こちらには「禹符」なるものが登場し、それを地面に投げ打つことが行われ、唱える呪文も違う。それでも、「禹歩」から呪文を唱える流れは同じである。天水放馬灘秦簡『日書』の場合も、北斗に向かうなどといった形式の違いはあるが、「禹歩」と旅の無事を祈る呪文を唱える流れとの関係に変わりはない。
次に『馬王堆漢墓帛書』(肆)所収の『五十二病方』(41)及び『養生方』(42)の記載を見てみる。これらには出土文献として最も多くの「禹歩」の使用法が保存されており、『五十二病方』に七箇所、
『養生方』に二箇所の「禹歩」が見える。
『五十二病方』は病気の治療法を記したものだが、「禹歩」が記載されているのは「{虫+元}」「疣」「{ヤマイダレ+頽}」「癰」「{鬼+支}」の五箇所で、うち「{ヤマイダレ+頽}」では「禹歩」が三箇所に見える。これを合わせて七箇所である。
ここでは、「{虫+元}」の記載を書き出してみよう。
湮汲一{培−土}(杯)入奚蠡中、左承之、北郷(嚮)、郷(嚮)人禹歩三、問其名、即日、某某年□今□、飲半{培−土}(杯)、曰、病□□已、徐去徐已、即復(覆)奚蠡、去之湮(地漿水、泥水の上澄み)を汲んだものを一杯、ひさごの中に入れ、これを左に持って北に向かい、そして人に向かって「禹歩」を三度行い怪我人の名前を問い、「某某、年□今□である」と答える。半杯飲んで「病□□は治る、ゆるやかに去っていき、ゆるやかに治れ」という。そしてひさごを伏せ、病人の場所から去る。湮汲みし一杯を奚蠡中に入れ、左に之を承け、北に嚮い、人に嚮いて禹歩三たびし、其の名を問い、即ち曰く、「某某年□今□なり」と。半杯飲みて、曰く、「病□□已む、徐として去り徐として已め」と。即ち奚蠡を覆し、之を去る。
これは一例だが、その他の病名の記載もおおむねこの様な形で述べられている。行うべき日時、使用する物や手伝う人、どちらの方向を向くか、どの様な呪文、掛け声の類いを唱えるか、全体として行うべき手順、などが書かれている。
次に、『養生方』の記述を見てみる。「禹歩」は『養生方』では「走」「疾行」の二箇所にあらわれる。「走」は力強く歩く方法、「疾行」は速く歩く方法、という内容である。「走」の「禹歩」を見てみる。
行宿、自{言+虍+乎}(呼)、大山之陽、天□□□、□□先□、城郭不完、□以金関、即禹歩三、曰、以産荊長二寸周{(書−日)+旦}(畫)中旅の途中で宿泊するときに行うべき呪文や「禹歩」、それに四方に荊で画をなすことが書かれている。この点、 「疾行」の「禹歩」もほぼ同じで、こちらは歩くときに足が痛くならないようにする方法として、南に向かって「禹歩」し、呪文を唱えている。しかし、それ以外に何をするのかは脱字が多いため、よく分からない。行きて宿するに、自から呼す、 「(呪文は脱字が多く、解読が困難なため略)」と。即ち禹歩三たびし、曰、産荊の長さ二寸なるを以て周にて中に画す。
最後に、張家山漢簡『引書』(43)の中の「禹歩」を取り上げる。この書には、 「A以利B」という形で延々と、何をすれば体のどの部分が良くなるかが綴られている。その中に「禹歩すれば以て股間を利す」という文章がある。「禹歩」はステップであるから股間にいい効果をもたらすと考えられたのだろう。あるいはもっと深い意味があるのかもしれないが、ここではこれ以上の考証はできない。
以上が、非常に大雑把ではあるが、出土文献中の「禹歩」である。これらの文献の中での「禹歩」の記載は、その形式が似通っているものが多く、「禹歩」の使われ方も、呪文を唱えながら行うなどの共通点がみられる。では、「禹歩」の持つ意味には、どのような違いが出ているだろうか。
今まで見てきた出土文献中の「禹歩」は大きく二つに分けられるであろう。 一つは「病気治療もしくは健康法としての禹歩」、もう一つは「旅の無事を祈る禹歩」である。
このような「禹歩」の使われかたにより、「禹」が「治療者」と「行神」という面を持ち、土俗的な信仰と密接に結び付いていることが確認された(44)。
次の章では、「禹」その人についての正統的文献の記述を見ていくことにする。
帝王世紀曰、伯禹夏后氏、{女+以}姓也、生於石{土+幼}、虎鼻大口、両耳参漏、首戴鉤{金+今}、胸有玉斗、足文履巳、故名文命、字高密、身長九尺二寸、長於西羌、西羌夷人也、其父既これはいわゆる聖天子「禹」の事跡をきれいにまとめた文章といえる。「禹」その人については、『史記』夏本紀の記載もこういった内容と大差ない。ただ、『史記』の「禹」についての記述はかなりの文量を彼の治水の事業に割いており、彼が何という地方でどういう作業をしたかが延々とつづられている。また、『帝王世紀』の記載には、「禹」が禅譲を受けるいきさつが見当たらない。その部分の『史記』の記載(45)を見てみよう。
放、降在疋庶、有聖徳、夢目洗於河西、四岳師挙之、舜進之堯、堯命以為司空、継{魚+玄}治水、乃労身渉勤、不重径尺之璧、而愛日之寸陰、手足胼胝、故世伝禹病偏枯、足不相過、至今巫称禹歩是也、又納礼賢人、 一沐三握髪、 一食三起、堯美其績、乃賜姓{女+以}氏、封為夏伯、故謂之伯禹、天下宗之、謂之大禹、年百歳、崩子会稽、因葬会稽山陰県之南、今山上有禹塚并祠、下有群鳥芸田帝王世紀に曰く、伯禹は夏后氏、{女+以}姓なり。石{土+幼}に生まる。虎鼻大日、両耳参漏とし、首に鉤{金+今}を戴き、胸に玉斗有り。足は文履を巳にし、故に文命と名づく。字は高密。身長九尺二寸。西羌に長ず。西羌は夷人なり。其の父既に放たれ、降りて疋庶に在り。聖徳有りて、夢に河西に洗うを目る。四岳師之を挙げ、舜之を堯に進め、堯命じて以て司空と為す。?の治水を継ぎ、乃ち身を労して渉勤し、径尺の璧を重しとせずして、日の寸陰を愛み、手足胼胝す。故に世よ禹、偏枯を病み、足相い過らずと伝う。今に至りて巫の禹歩を称すは是れなり。又た礼を納め、人を賢ぶ。 一たび沐するに三たび髪を握り、 一たび食するに三たび起く。堯其の績を美とし、乃ち姓{女+以}氏を賜り、封じて夏伯と為す。故に之を伯禹と謂い、天下之を宗とするや、之を大禹と謂う。年百歳、会稽に崩ず。因りて会稽山陰県の南に葬られ、今山上に禹塚井に祠有り、下に群鳥芸田有り。
苦労の末、「禹」の治水は成功し、「天下是に於て太平に治す」という成果を挙げた。そしてその徳の高さは天子の舜を初めとする万民に認められ、「是に於て天下皆禹の明度数声の楽を宗とし、山川の神主と為す」という事態となったのである。そしてついに「禹」は天子となる。
帝舜薦禹於天、為嗣、十七年而帝舜崩、三年喪畢、禹辞辟舜之子商均於陽城、天下諸侯皆去商均而朝禹、禹於是遂即天子位、南面朝天下、国号曰夏后、姓{女+以}氏こうしてみると聖天子「禹」の人物像は『帝王世紀』や『史記』によると、西羌に育って会稽に没し、また中国各地を治水のために駆け回った大旅行家であり、我が身を顧みずにひたすら治水の事業に打ち込んだ勤勉な人物であったと言うことができるだろう。そしてまたこれが、現在も一般的に広く知られている「禹」の姿であることは間違いのないところである。帝舜、禹を天に薦め、嗣と為す。十七年にして帝舜崩ず。三年の喪畢ゆるに、禹辞して舜の子商均を陽城に辟く。天下の諸侯皆商均を去りて禹に朝す。禹、是に於て遂に天子の位に即き、南面して天下に朝し、国を号して夏后、姓{女+以}氏と曰う。
次に「禹」を聖天子と崇める儒家の基本的文献を見てみよう。まず、『論語』泰伯篇(46)には次のような記述がある。
子曰、禹、吾無間然矣、菲飲食而致孝乎鬼神、悪衣服而致美乎黻冕、卑宮室而尽力乎溝洫、禹、吾無間然矣子の曰く、禹は吾れ間然する無し。飲食を菲くして、孝を鬼神に致し、衣服を悪しくして、美を黻冕に致し、宮室を卑しくして、力を溝洫に尽す。禹は吾れ間然する無し。
孔子は「禹」について、「非難すべきところがない」と言っているのだから、これは絶賛であろう。しかも初めと終りに繰り返して強調している。まさに聖天子としての資格を備えた人物であるといえる。そして、自分の衣食住を粗末なものにしてでも鬼神に孝を尽くし、祭祀を立派にし、灌漑に力を注いだ「禹」の優れた性質について述べている。
次に『孟子』滕文公上の「禹」についての記述(47)を見る。
禹疏九河、{サンズイ+龠}済{サンズイ+累}、而注諸海、決汝漢、排淮泗、而注之江、然後中国可得而食也、当是時也、禹八年於外、三過其門而不入、雖欲耕、得乎ここでは「禹」がいかに治水に励んだか、その勤勉ぶりが述べられている。『孟子』膝文公下にも「禹」についての記述(48)があるが、やはりここでも「禹」の治水の業績について語っている。それによると発の治世に「水逆行して、中国に氾濫す。蛇竜之に居り、民定まる所無し」という惨状になった。そこで「禹」が命じられて治水を行い、「禹地を掘りて之を海に注ぎ、竜蛇を駆りてこれを{クサカンムリ+沮}に放つ」という成果をあげたことになっている。禹九河を疏し、済{サンズイ+累}を{サンズイ+龠}めて、諸海に注ぎ、汝漢を決し、淮泗を排して、之を江に注ぐ。然る後に中国得て食らう可きなり。是の時に当るや、禹八年外に於てし、三たび其の門を過りて入らず。耕さんと欲すると雖も、得んや。
以上の記述から、『論語』と『孟子』において聖天子「禹」が、「中国各地を治水のために駆け回った大旅行家であり、我が身を顧みずにひたすら治水の事業に打ち込んだ勤勉な人物」として描かれていることが分かる。このような人物像は『帝王世紀』や『史記』の「禹」とも一致し、史書の「禹」と経書の「禹」は同じ性質のものと考えることができる。
さて、ここで『帝王世紀』『史記』『論語』『孟子』という儒家系列の文献に登場する聖人「禹」の人物像と、呪術である「禹歩」の性質とを比べてみよう。
両者が重なる点は二つある。 一つには、「禹」は大旅行家であり、これは「旅の無事を祈る禹歩」の背後にある「行神としての禹」と重なる。第二には、「禹」は「山川の神主」という性格を持つが、この性格と「禹歩」の「入山の法」としての性質とはつながる。第三に、「禹」は治水者であり、このことは「水を自在に操る禹歩」との関連が考えられる。
ただ、これらの内容を、より詳しく考察すると問題も出てくる。
たとえば、『抱朴子』の「登渉」によれば、「入山の法」としての「禹歩」には蛇避けの意味合いが強く、その使われ方も、蛇や百足に対して呪術的な働きかけをしている気配が濃厚である。これは、単純に「山川の神主」としての「禹」を真似ているだけとは到底思われない。また、「水を自在に操る禹歩」についても、「水積将に天に至らんとす」などという現象を起こすのは、聖天子としての「禹」の力の限度を越えたものであろう。
以上のように、聖天子「禹」と「禹歩」を直接結び付けるのは不可能ではないが問題もある、ということになる。やはり全体的に「禹歩」には呪術的な性格が濃く、直接的にこれと繋がるのは土俗的な信仰対象としての「禹」だと考えるのが妥当であろう。
次の章では本稿のまとめとして、聖天子「禹」と信仰対象としての「禹」との関係について見ていく。
顧氏は「禹」を人ではなく、実際には実体のない「天神」であったとしている。その上で、「禹」を「南方民族の神話中の人物」と仮定し、文献上の「禹」と南方の結び付きを考証している。そして、天神「禹」の本性に関してはこれを動物であるとし、『説文』が「禹」を「虫」とし、「{禺−日}」を「獣足蹂地」としているその字義から、「禹」とは「蜥蜴」に類するものであったと見ている。
顧氏以後「鯀」や「禹」の伝説については様々な見解が出されたが、これらを批判的に整理した論文に御手洗勝氏の「鯀禹伝説の整理」(50)がある。この論文でも「禹」の実態に関する考証が行われ、そしてここでは「禹」を「竜蛇神」と結論付けている。
ここで「鯀禹伝説の整理」でも、「禹」と「竜」との結び付きを示す有力な論拠としてあげられている、
『楚辞』天間篇(51)とその注の一部(52)とをみてみよう。
応竜何画、河海何歴これによると「禹」の治水は、竜が水の良く流れる道筋を「禹」に教えたことで達成されたことになる。
山海経日、禹治水有応竜以尾画地、即水泉流通、禹因而治之也応竜何ぞ画せる、河海何くを歴たる。
山海経に曰く、禹の治水、応竜の尾を以て地に即ち水泉流通するを画する有り。禹、因りて之を治むるなりと。
以上の先行研究から、「禹」とは本来、竜あるいは蛇や蜥蜴に類する「神」であり、聖天子「禹」は春秋戦国の儒家系の思想家たちによって作られた後発の存在であったととらえることができる。
ここで明らかにしておきたいことは、「禹」が『史記』夏本紀で記されているように人民から「山川の神」としてあがめられる存在だったならば、それをかたどった「禹歩」が民間信仰の世界で強い呪術性を持つに至るのは当然、予想されるということである。
特に出土文献中の「禹」は、まさに信仰の対象であり、同時に「禹歩」は呪術として使われている。後の『抱朴子』や正史中の「禹歩」も、基本的にこういった「神としての禹」を背景に持ち、出土文献中の「禹歩」の呪術的性格を受け継いでいるものと考えられる。
神としての「禹」の本性は竜蛇神であるが、 「禹歩」の効果の中にも明らかに竜や蛇との繋がりを認めることができる。
まず、 『抱朴子』における「禹歩」の中でも最も大きな部分を占めている「入山の法としての禹歩」であるが、これにはその中に強い「蛇避け」の意味合いが含まれていることをこれまでに確認してきた。聖天子「禹」との関係では彼の「徳にあやかっている」としか説明できなかったこの現象も、竜蛇神「禹」が根本にあるとなると、話は違ってくる。竜蛇神に蛇避けの効果を求めるのは当然であり、そこに疑間をさしはさむ余地はあるまい。『抱朴子』の一連の記載には、「竜蛇神」の力による「蛇避け」、「蛇避け」の効果を活用する「入山法」、正しい「入山法」による「石芝や菌芝の採取」といった極めて自然な流れが叙述されている。
また、『抱朴子』佚文の「禹歩」について、それが竜を操る呪術に違いないことは、すでに述べた。竜を操るのに竜蛇神の力を借りるのは当然のこととして受け止めることができる。
『抱朴子』以外でも、例えば『北斉書』方伎の記載などは十分に竜蛇神「禹」と結び付けられるだろう。竜蛇神は同時に水神である。荒れ狂う河を鎮め、その水を天にまで至らせるという異常な力も、その力の根源に水神が存在するというのであれば、納得できる。
出土文献では、「禹歩」が『馬王堆帛書』『五十二病方』の「{虫+元}」の治療法に用いられているが、「{虫+元}」は「蜥蜴あるいは蛇に噛まれた怪我」と解釈されている。この怪我の治療に「禹歩」が使われているのは、「禹」が竜蛇神であったことの名残といえるだろう。
これらの考証により、「禹歩」の作用が「竜蛇神」と密接に結び付いていることが分かる。
「禹」とはもともと竜蛇神であり、「禹歩」はその「禹」を拠り所とする呪術であった。民間信仰の対象としての「禹」が変化するにつれて、「禹歩」も活躍の場を広げていった。そして少なくとも、唐代以前の文献での「禹歩」には竜蛇神との繋がりがはっきりと見て取れるのである。 一方では儒家が聖天子としての「禹」の人物像を作り上げていったのだが、むしろ「禹歩」はそちらとは直接の繋がりを持たず、竜蛇神「禹」に直結するものと考えるべきだろう(図3)。
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本稿では「禹歩」の成立における思想史的背景について、 「禹歩」が聖天子「禹」ではなく、竜蛇神「禹」に繋がるものと結論付けた。しかし、追及し残した問題がいくつかある。たとえば今回は、唐代以前の文献に限って使用したが、それ以後の「禹歩」に関する文献も数多く存在し、その検討も必要である。また、「禹」と「禹歩」の繋がりは論じても、「道教」と「禹歩」の繋がり、「呪術」の中での「禹歩」の位置付け、といったテーマについてはまったく触れていない。これらについては、今後の研究課題としたい。